カッコウの誕生


2000年頃までは、近所にカッコウが飛来していた。6月の夜明けに『もう起きちゃいかが』とけたたましく鳴いて、いくぶん迷惑だったものだ。その林(なんと個人の庭だった)も切り払われてカッコウに叩き起こされる朝がなくなった。

カッコウは不遇な鳥である。生まれながらにして多難な人生を送る定めだ。カッコウの雛鳥は人の目に悪辣と映る暴挙に出ないと生きて行くことができないのだ。この近辺でカッコウの雛を育てていたのはおそらくオナガである。オナガに暖められたカッコウの卵は、オナガに先駆けて孵り、本来育てられるべきオナガの卵を巣から落として全滅させる。そしてオナガ両親の愛を独り占めして育つのである。

カッコウの母親もその試練をくぐりぬけた。生まれて数日で他人の子たちを殺戮し家をのっとる。私は我が子をそんな過酷な目にあわせたくない。鳥だって我が子を捨てるのはしのびないはずだ。ぴよぴよと鳴く我が子にせっせと餌を食べさせ、喜ぶ姿を見るのは楽しく誇らしいことだろう。

托卵というのはずいぶん手の込んだ習性である。しかし、カッコウがそれを獲得するに至った過程を推理するのは簡単だ。おそらく古カッコウは集団保育のような習性をもっていたのだろう。集団保育は画期的なアイデアで大成功しそうな気がする。仲間が協力して大きな巣を作り、みんなが卵を産んで、みんなでヒナを育てる。天敵に対する防衛の目も行き届き、親が不慮の事故で死んでも仲間が子を育ててくれるだろう。

じつは私は現在集団保育をする鳥がいるのかいないのか知らない。一見有利そうに見えるが、とても難しい生き様だと思う。というのは、そのグループの中からは必ず育児を他人まかせにする者が現れ、そういう利己的なヤツはきっと増えていくからだ。他の個体に自分の卵を預ける戦略は進化的に有利だ。長生きできて、産卵、交尾数も多くなるだろう。預ける戦略はかれのヒナが生き残るかぎり、グループの中に速やかに拡がっていくだろう。そうなれば種自体が亡びてしまう。問題は、預けるものが増えるに連れて育てるものが少なくなることだ。

育てる者が少なくなれば、ヒナ間の生き残り競争は激しくなる。ヒナにエサを運ぶのは両親総掛かりでやっとのはずだから、預けるだけにする者が増えると生き残れるヒナが少なくなる。集団保育されるヒナの間でお互いに蹴落とし合戦がはじまり、勝者が生き残ることになる。また、母親のほうでも、自分の卵を保育所に産み落とすときに他の母親の卵を捨てるやつが現れる。そんな過激な種が生き残るとは思えない。ところが、カッコウはたくましかった。

仲間なんかに頼らず、ヒナを育てることに命をかけている別種の鳥に托卵すればいいのだ。今のカッコウは当然の成り行きとして行くところまで行った鳥だ。オオヨシキリやウグイス、オナガに托卵してヒナを育てさせる。そんな超利己的で「じぶんさえよければ」という托卵の習性は「みんなで力をあわせよう」という協調精神がなければ育たない。なんと皮肉なことだろう。

理屈の上では、巣を持ち卵やヒナを保護する動物は托卵される恐れがある。魚類にも托卵するやつがいる。巣を作り卵や仔魚を守る魚は少なくないのだから、托卵する魚が誕生しても不思議ではない。ただし、魚の托卵とカッコウの托卵はいくぶん性格の違うものと考えなければならないだろう。

私はカッコウの托卵は集団保育なしでは発生し得ないと思っている。魚の方はおそらくその過程を経なくても托卵できる。つまり、集団保育せずにはなから別種の魚に育児を任せてしまうことが可能と考えている。その一つの理由に産卵数の多さがある。魚というのはもともとは子どもを守らない生き物だ。水の中は非常識に豊かで、ばぁーと卵をばらまいて、さぁーと精子をかけておくだけで、ほとんど泳ぎもできない仔魚が、千匹のうち1匹も親になることができる。もし、巣で卵を守る魚の近くに産卵できればかなり分がいいのではないだろうか。うまくすれば自分の卵もいっしょに守ってくれるだろう。相手の卵より自分の卵が先に孵れば、我が子にはエサまで用意されていることになる。

魚類でも、もともと育児をする魚が托卵する場合はカッコウと同じように集団保育の過程を経るかもしれない。それよりも魚だと同種間での殺伐とした托卵合戦になりそうな気がするのだが。

地球上で托卵はメジャーではない。迷路のような習性だから発達が難しいのだろう。そしてなにより親にとって育児をする喜び、あるいは強迫観念を払拭することが難しいのだろうと思う。よほど巧妙に育児のすり替えが起こらない限り、托卵という習性は発生しないと考えられる。

カッコウには根本的な疑問がある。そもそもカッコウはどうやって自分がカッコウということを知るのか。カッコウのヒナは必ず一匹で他の鳥に育てられ、自分がカッコウであることを客観的に知る機会がない。生まれてから巣立つまで、親はもちろん仲間のカッコウをみるチャンスがない。カッコウは夏が終われば親も子も南の国に旅立ってしまう。渡りの旅は一匹だろうか群れを作るのだろうか。いずれ習い覚えることがなくとも、カッコウは異性を見れば「ああ、そうそう、それだ」ってことになってるんだろう。

カッコウは誰に習うともなく、自分の愛すべき異性を知っているはずだ。そして、カッコウのメスは他種の鳥の巣に産卵しなければならない。どの鳥に托卵するのかは学習するチャンスがある。カッコウのヒナは里親に育てられながらその鳥を覚えることができる。オナガに育てられたヒナはオナガを、ウグイスに育てられたヒナはウグイスを、オオヨシキリに育てられたヒナはオオヨシキリを。そうして、いざ自分が卵を産むときには、育ての親を見つけて、彼らの巣を狙えばよい。それが一番確実だ。

カッコウの母が学習するのだとすれば、エラーが起きる余地があるはずだ。実際、カッコウが托卵する鳥の種類は複数にわたる。固定していないということは習い覚えるということを示している。サケマスではある決まった割り合いのものが故郷でない川に向かうように、カッコウも拡張性を有しているのだ。

現在、神奈川県大和市では、市の鳥オナガがカッコウの餌食だ。やつは体が大きく、カッコウが托卵しやすい形状の巣を作る。ただし、いつまでもうまく行くとは限らない。大和市で生まれたカッコウは数千キロの旅を経て正確に大和市に帰って来るのだろうか。日本にだって、静かな湖畔の森の陰のようにオナガのいない地域はかなりある。そういうところにたどり着いた大和市のカッコウは途方にくれたりしないのだろうか。正確に生まれ故郷の森(個人の住宅の庭だった)に帰ってこれたとしても、相続の問題で森が宅地となってオナガがいなくなっているかもしれない。

オナガだっていつまでもやられっぱなしではないだろう。カッコウが不倶戴天の敵だということは、じょじょに大和市のオナガの間に浸透し、カッコウ対策に長じたオナガが増え、しまいにはどいつもこいつもカッコウをうまく追い払えるようになっていくかもしれない。

現在、普通のカラスはカッコウの里親にならない。大昔はあれもいい餌食だったが、カラスがなんらかの防衛法をあみ出しているのかもしれない。人家近くのヤバげな所で営巣するとか、カッコウには寄ってたかって嫌がらせをするとか。カッコウと里親の間には、ずっと緊張関係が続いていくことだろう。その緊張関係はときに奇妙な習性を発達させることになろう。もしかしたら、オナガは徳利状の巣を作るようになるかもしれない。入口が窪んでいて、内部がオーバーハングする形だ。そうなればカッコウの雛はオナガを追い落とすことができなくなる。かくてオナガはカッコウから狙われることがなくなり、オナガの巣には不可解なオーバーハングが残されることになる。

私はそういう事例はすでに幾度も起こっていると考えている。鳥類に限らず、動植物の中には適応的な意義が見いだせない奇妙な習性がけっこう見つかる。さしずめ考古学者なら言うに事欠いて「祭祀に使った」とでもしたくなりそうな習性だ。そうしたもろもろは進化史の遺物かもしれないのだ。

クマゲラを例にあげよう。クマゲラは現在かなり珍しい鳥になってしまった。東北の山奥と北海道にしかいない。ただ、数万〜数千年前、まだ人間が日本列島を開発する前はごく普通の鳥だったろう。日本列島はほうっておけば大森林に被われる島々だ。クマゲラは良好な原生林さえあれば、キツツキの王者として君臨する強さを持っている。東大の有沢先生はクマゲラの卵捨て行動を発見した。北海道に生息しているクマゲラは抱卵初期に卵を捨てるというのだ。それはかなり頻繁に起きる。有沢先生は富良野の演習林でいくども卵捨てを目撃している。私も数年前、先生の案内でおもむいた利尻島で確認した。クマゲラが自分の卵を捨てる理由にはまだ定説がないという。

私はかつてクマゲラに寄生するカッコウみたいな鳥がいたのかもしれないと思っている。クマゲラカッコウは、ちょうどカッコウがしているようにクマゲラの産卵期にクマゲラの巣に卵を産み付けて寄生する。

もともとクマゲラはきれい好きだ。巣の中に異物があるのを嫌う。巣材も使わない。自分で掘った木くずも巣の外に捨てる。ある日、クマゲラの中に卵捨てをする個体が現れた。そいつは、異常にきれい好きで自分卵すら異物と思うやつだったのかもしれない。その行動はまったくの偶然だったけれどもクマゲラカッコウへの防衛という点で、結果大成功だった。その習性はしだいに群れの中にひろまり、クマゲラカッコウは大打撃を受けることになった。

というようなこともありえるのだ。真偽を検証するすべがないお伽噺でしかないけれども。


カタバミ  テトラ  ナゾノクサ
たまたま見聞録→