画餅


「絵に描いた餅は飢えを満たさない」といって観念、想像そのたぐいのものを軽く見てはいけない。正法眼蔵では「画餅」というタイトルで絵に描いた餅の重要性が説かれている。道元の言わんとすることははっきりとはつかめないけれど、私も画餅を扱うことこそがヒトの人間たる所以だと考えている。小鳥たちの食料が不足する冬の間、入れ代わり立ち代わり庭にやってくる鳥を見ていてそんなことを思った。

小鳥たちの食に対する切実さはわれわれの想像を絶していると思う。軽量小型で無駄をはぶいた極めて優秀な筋肉を持ち、食べ続けながら飛び続けるのが彼らの宿命だ。24時間の絶食は死に直結し、食える可能性はどん欲に追求するだろう。

シジュウカラが梅の花を散らす行動をはじめて見たのは2007年の冬のことだった。庭に出て雑草や鳥の様子を見ていると、隣の梅の花びらがぱらぱら散っている。犯人はスズメだな、と見あげれば果たして梅花を散らかしているのはシジュウカラであった。梅の蜜を飲んでいるのか? 子房あたりを食っていたのだろうか?

シジュウカラ、スズメ、ヒヨドリ、メジロといえば東京近郊の住宅地の三羽烏といえる小鳥だ。梅や桜の蜜を吸う(花を食べる)行動は都市の鳥で普通に観察されている。それぞれのやり方が微妙に違っているのが面白い。ヒヨドリやメジロは花びらにくちばしを突っ込んで上手に蜜をなめる。スズメは乱暴で花びらをちぎって噛んで蜜を飲む。ちなみにオーストラリア原産というインコも桜の花びらを散らかしていた。

ほんの50年ほど前には、花の蜜を吸う人里の鳥はメジロだけだった。スズメが桜の蜜を吸うのは近年におこってきた行動と思われる。スズメが桜の花を食べるようになった直接原因は模倣で説明されている。スズメが花に顔をつっこんで蜜を飲むメジロを見て、桜の花が食べ物だと学んだというのだ。メジロはこの数十年で住宅地に進出し、庭木や公園の梅、桜に群れるようになった。そして先住者であるスズメとのつながりが生まれた。シジュウカラもヒヨドリも住宅地には新参者で、メジロやスズメから学んでいるかもしれない。

小鳥の種内では、模倣は思いの外すみやかに行われるようだ。わが家には2007年ごろに窓ガラスをたたくシジュウカラがいた。言うまでもなく餌をねだる行動だ。私の家でその条件反射を学習させたわけではない。どこか近所の家庭で学んだことだ。シジュウカラがガラス窓をたたいて家人に合図を送ると、家人がエサをセットするというようなことを学習している群れだったのだろう。同様の行動はスズメでも観察されている。

鳥の「食文化」はスムーズに広がり継承されていく。その理由について、かつてはオカルト風の「種社会」という概念が導入されたこともある。種の習性は変わるべきときが来れば、互いに疎遠な集団も含めて一気に変わるという考え方だ。東京のスズメが桜をついばむとき、同時に京都や福岡のスズメも桜を食べるようになっている、というようなことは事実としてある。ただそれは、スズメの内面に限定せず、環境との関係を考えればオカルト抜きでも説明がつく。

スズメの文化はどんどん変化している。今では公園のスズメが人に餌をねだるのは普通だが、私が子どもの頃では考えられなかった。 日本の社会情勢が変わって住民の鳥に対する態度も変わった。住宅地で生きる野鳥の種類も変わっている。人間と鳥と、鳥と鳥の関係が変化するにつれて鳥の習性が変わる。

ただ、彼らが何でもかんでも速やかに学んでいくわけではない。エサ台にあるミカンはメジロとヒヨドリ。米粒はスズメ、ヒマワリはシジュウカラ・・・雑食の鳥たちも手をつけない食べ物はある。

私は他人が何か見知らぬものを食べているところを見るだけで「うまそうだな」と感じることができる。テレビで見たエスキモーの少女がアザラシの生のはらわたを手づかみで食っているシーン、あれはうまそうだった。アフリカのおやじが牛の生血を飲んでいるシーンもうまそうである。その直接的な共感力は鳥たちにも備わっているようだ。

鳥たちの間では、共感はあくまで直接的なものに限定されているだろう。桜を食べているその姿であったり、そのときの感情表現だったり。我々が梅干しの文字や絵に接するだけでも口の中が酸っぱくなる。同様なことは鳥も経験するのだろう。おいしそうに蜜を飲む仲間に接すれば口の中に甘いつばきが出てくるのかもしれない。人間はもっと間接的に食物を味わうことができる。それが画餅だ。

ヒトが万物の霊長として君臨する所以は餅の絵が描けることにある。餅そのものと絵に描いた餅と、そして個々人と、その三者がからんでヒトの世界を形成している。餅自体に次の餅を生み出す力はない。個人が何もないところから餅を発明するのはまず無理だ。絵に描いた餅は食えないが、画餅によって餅が人から人へ時空を超えて伝わっていく。餅を食べたことがない人でも画餅とその解説があれば餅を作ることができる。画餅によって、新天地で進化をとげた餅が生まれる。

画餅の威力は良い面だけに現れるわけではない。端的な例は、宗教やわけのわからない儀式や、エジプトのピラミッドに現れている。巨大な墓を築いたり、羊を屠ってささげたり、祈ったり、苦行をしたりすることは生物の適応として負の行動である。ポルノも適応上の意味があるとは思えない。AV女優も画餅だ。ヒトの社会ではときにホンモノの餅よりも画餅のほうが高価値となる。

ヒトは哀れな存在である。想像と現実をごちゃまぜにする被造物が生物として幸福に生きて死ぬことなど不可能だ。ヒトの明日には不安があり希望がある。ヒトの昨日には後悔があり思い出がある。30年も前の片思いの恋人のことを思い出してくよくよすることに意味はない。綺麗なメスの裸の写真にいやおうなく興奮することに適応上の意味はない。

適応上不利な画餅の誕生は進化学上の難問になる。単に知力というのなら、進化の産物として徐々に良くなることが考えられる。記憶も洞察力も高ければ適応度が高いだろう。環境が安定し肉体が同じであれば、頭がいいほうが生き残りやすい。それは鳥や魚にも当てはまる。画餅は腹の足しにはならない。それどころか、生物的に有効な行動から人を逸らせてしまう。どうしてそんな不自然が許容されるのか。

人間文明と自然には決定的な違いがある。自然は、自然に逆らう者を必ず殺す。それが40億年間生物を縛ってきた掟だ。神に祝福されて生まれてくるヒトはいない。誰の体にも毛が無い。普通の適応ならばわざわざ体毛を失うことはない。もっとふさふさの体のほうが理にかなっている。最初から苦労させられるように人の体はできている。種々の自然の凶手から個人を守るのが文明である。

さらに驚くべきことに、文明にはその文明に逆らうやつ、あるいはミスマッチな個人を淘汰しないという不自然な特性があるようだ。文明は他の文明の個人に対しては苛烈であっても中の弱者にはやさしい。不自然と理不尽が文明を維持するために不可欠である。本物の餅よりも絵に描いた餅のほうを重視するような、いびつな性行が文明の底を流れている。

文明を維持するためには、約束が必要である。ヒトには生命維持の必要条件の他に文明の約束事が必要だ。いうまでもなく、そういう約束事もヒトが生まれ持つ画餅力によって自然発生するものである。「鶏が先か卵が先か」という類の問いが文明の誕生を考える際にも発生するかもしれない。「文明が先か倫理が先か」ということだ。もしかしたら、文明社会の中で生活することではじめて個人の倫理が育つと誤解している人もいるかもしれない。それは誤りである。文明に守られておれば倫理感のない人間でも生きながらえることができるが、個人倫理不在では文明は生まれないのだ。それは鶏卵論争が科学的には卵が先で決着するのといっしょだ。

文明は人間を進化の呪縛から解き放った。地球の生物を40億年間縛ってきた縄がほどけたのだ。人間は生命としての生の情熱に縛られることなく生きることができる。人間には自由がある。この半世紀ばかりで、日本からは「子沢山=勝ち組」という文化は消失した。文明の中ではダーウィンが言うところの適者生存も弱者淘汰もない。俗に言われる弱肉強食があるだけだ。

ただし、子孫繁栄は文明にとっても大問題だ。文明の心的側面、いわゆる文化の運搬ができるのは個人に限られるからだ。ひとりひとりがこの世に生まれて感じ学んだことを離れて文化を支えるものはない。「人は何のために生きるのか」「人の生きる意味とは何か」という問いの答えは、文化を学び時空を超えて伝えることにある。どんな立派な餅があり、どんな立派な餅の絵があっても、それらが個人にどう解釈されるかで、餅も画餅も値打ちが変わる。たいていの人間はとくだんの才能もなく、人を楽しませることもできず、いなくたって誰もこまらない。だけど、ヒトが創造している文化は、そういう個々人の心以上でも以下でもないのだから。


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