アカシックレコード


「古代の宇宙人」という幾分眉唾もののテレビ番組を見ていると転生の話があった。世界中に前世の記憶を持って誕生する少年少女がいる。その記憶の内容は前世の名前であったり住所電話番号であったりする。それゆえ事実関係の確認ができ、本物の転生とみなすことができるというのだ。驚いたことに、確からしい転生すなわち生まれ代わりが1000件以上もまっとうな研究者によって確認されているのだという。

転生が確かであれば…とんでもないことだ。どうしてそんな事が起きるのかをはっきりさせなければならない。転生のシステムとは?

「古代の宇宙人」は宇宙人が人間や昆虫に何をしでかしているのかを報道する番組である。自然、人間界の不可思議は全部宇宙人が原因というスタンスだ。当然のことながら転生も宇宙人の仕業ということになるのだろう。宇宙人が過去に生きたある人のデータを別の人にコピペするのが転生だ。宇宙人はなぜそんな手の込んだ、しかし些細ないたずらをするのだろう。その実験の意図は不明。宇宙人に直接聞いてみるほかはない。そこにひっかかりがあるとしても、人間の経験と記憶は操作可能なデータということがやつらの実験の前提となる。個人の経験と記憶は紙やモニターを介すことなく人から人へ転記できるデータでなければならない。

さらに番組はそのデータのありかとしてアカシックレコードを解説する。私が子供の頃はアカシャ年代記と言われていたはずだ。アカシックレコードは個人の記憶だけではない。この宇宙の過去から未来までの全データである。当然そこには地球人全員の電話番号もある。

アカシックレコードが実在するとして、この宇宙に含まれているものだろうか。その記録が物理的な実体であることはできない。現在の宇宙の全記録は宇宙と同じ大きさのはずである。一瞬の過去として過ぎ去った宇宙の記録も宇宙とほぼ同サイズになる…というように考えていけば結構なサイズになって有限なはずのこの宇宙には収まりきれない。物理的な実体であれば4次元とか異空間とか天界とか、不可知な場所に保管されていることになる。やはり物理的ではなく精神的なものとしてこの世にあるのだろう。

精神的なものならば圧縮可能である。たとえば「梅花」は4バイトぐらいで保存可能である。小さいけれども内包しているものは巨大だ。人類誕生以前から人類絶滅後までのすべての梅の花の記述であり、物理的な実体であれば梅の花の全重量は地球よりも重くなるはずだ。アカシックレコードに「梅花」と記録されている梅の花はほぼ無尽蔵である。しかし、その情報を私が読み取ったとして、それは単に「梅花」と記載された抽象データであるから、その情報価値は私の記憶体験にある梅の花を超えることはない。まことに利用するには頼りないデータベースかもしれないが、100億年前から100億年後までの、大地、空、海、動物、植物、人間、宇宙人…が体験する梅の花の全データとなれば、閲覧する者の器量によってはたいそうなものであろう。

アカシックレコードを上記のように定義するならば現実的になる。すべての情報が実在しているのだけど、読むのが難しく、読めたとしても読者の経験知識の範囲内での解釈利用しかできない。残りの情報は不可解な記号的なもので記載され、人間の言語であったとしても、せいぜい文字面を追うことしかできない。ただし、一部霊感が鋭く天才的な直観力のある者が一般人には不可解なデータの本質を掴み取って、ノストラダムスのような預言者になったりニコラ・テスラのような大科学者になったのだ。

そしてアカシックレコードは重層的なデータベースのはずだ。人と宇宙人専用ではあるまい。地球にヒトが誕生する以前から存在しているはずのアカシックレコードは当然虫も使うだろう。虫の行動を見ていると、まさしくアカシックレコードを読んでいるかのようだ。その無表情で機械的な動作が紡ぎ出す成果は恐るべきものだ。ジョロウグモは熟練の手芸家のように迷いなく複雑で繊細な網を張る。2、3本脚が欠けていても造巣作業に支障はない。彼らが生まれたときに母は亡く先人から技を教わることができない。あの華麗な技をどうやって取得したというのだ。一旦網に定位すれば何日でもじっと獲物がかかるのを待ち続ける。その姿は禅僧を思わせる。何日後の何時にトンボがかかることを知っていなければ餓死の恐怖に襲われることだろうと思う。ジョロウグモだけではない。私が見た虫はいずれもが無限の過去と未来を知っているかのように迷いなく行動する。それは本能とよばれ、その実体は不明だ。虫の本能を知りたい私は、宇宙人の活動がいまひとつピンと来なくともアカシックレコードのことは気になる。

虫のアカシックレコードは一般に考えられているようにDNAとして保存されているのだろう。DNAは虫の体を作る設計図だ。DNAの設計に基づいて体とともに心と行動のアルゴリズムが作られるばずだ。DNAの情報によって卵は2個4個と分割していく。やがて心臓が脈打ち眼ができてくる。同時にクモの分割した卵の中には作るべき網のイメージが発達して行く。ちょうどわれわれがなぜこんな顔や手足や心臓が作られていのかを理解できないように、ジョロウグモはなぜあの網を張るのか、なぜ昼も夜も垂直円網の中央で頭を下にして待ち続けるのかを知らないだろう。意識しようがしまいが彼らは知っている。試行錯誤のない彼らにとって知識と行動は同値であるから。

私がこう断言できるのは、幸いなことに私とジョロウグモが根っこのところで心を共有しているからだ。私にも彼らがやるような生得行動があり、それがいつ身についたのかはさっぱり分からない…わかり切っていることだけが確実だ。納得も説明もできなくても。

虫と違って人間は現象の原因理由、目的、因果を考えてしまう。アカシックレコードなるものは、さような迷いが外部に措定してしまう幻想だと切り捨てることもできる。転生という事実を認めなければ涼しい顔をしてそう言い放ってもよい。だが、一度転生という現象を認めたならば、理解は絶望的に難しくなる。

「私は◯◯町の△△です。電話番号は×××-×××××」という少女が現れて、それが10年前になくなった◯◯町の△△さんだとなれば、そのデータは未知の媒体によって少女にもたらされたのだ。誰も知らない媒体に記載されている情報が想像もつかない機構によってヒトからヒトへコピペされる。転生は摩訶不思議なシステムによってアカシックレコードのデータが新生児にコピーされ解釈されたものだ。そこには宇宙人の生体実験の臭いがする。たぶん「古代の宇宙人」はそういう主張をしている。

なんでもありの宇宙人ならアカシックレコードのデータを読み出して市井の幼女にコピペできるはずだ。そもそも宇宙人は人の記憶を消したり書き換えたりすることができるらしい。アブダクション自体が記憶の植え付けとも考えられる。アブダクションだのミステリーサークルだのピラミッドだの…ただの愉快犯にしか見えない彼らの意図が不明とはいえ、筋は通らなくもない。しかしそれは最後の手段というもんだ。忍者部隊月光には拳銃が最後の武器であったように、私は科学を信奉する者であるから、異次元にあるアカシックレコードは最後の武器にしたい。もし既知の事実、概念によって転生の手がかりが得られるとすれば、宇宙人の発見(いることだけは確実)よりも実り多い新知見になる。進化論のもやもやが晴れて遺伝も進化も根本から見直されるから。

転生の原因となる個人情報はどこに記録されるのだろう。遺伝情報ならDNAにある。DNAはデオキシリボ核酸という操作可能な物質であり、DNAという用語を使用するならば、非科学的な概念を持ち込んではならない。氏名、住所、電話番号はDNAに記録されないというのが科学の定説である。氏名、住所、電話番号は通常紙だのスマホだのの外部媒体を介して人から人に伝わるものである。

アカシックレコードが存在するのなら、虫もアカシックレコードを利用しているのは自明である。ヒトと虫はそれほど遠くない親類であるし、これまで生きてきた時間はぴったり一緒なのだ。虫は本能、ヒトは霊感などととぼけたことを言ってはいけない。虫のDNAにあるアカシックレコードが本能の源泉であるならヒトのDNAにもアカシックレコードはある。ヒトの中にアカシックレコードがあるならば、◯◯町の電話番号×××-×××××の△△さんというデータがDNAに記載可能ということだ。アカシックレコードとは全記録であるから。そうなんだろうか?

私は個人のアポステリオリな記憶が器官に記録されることを信じていない。記憶の信号は脳内を電気的にめぐっているというから、電磁気の場が脳にあるのだろう。それが記憶と想起の正体で、ひらめきとか直観とかテレパシーなんかの出生地でもあると思っている。脳内の海馬なりなんなりに神経の配列という不揮発性メモリとして記憶が保存されているなんてさらさら信じない。しかし、そう信じなければ転生が実用用語によって説明できない。ひとまず私は自説を否定する。

仏教の唯識にアラヤ識という概念がある。それは無限の過去から人間が引きずっている記録だ。個人の体験知識はアラヤ識に書き込まれる。その情報はすぐに消えすぐに生成され少しずつ変容する。アラヤ識の機能としての刹那消滅生成と薫習は仏陀となり解脱するまで全存在の無限の未来にわたって繰り返される。

アラヤ識のような「記憶子」というものが人体内にあると措定すれば転生を解明する手がかりになる。「記憶子」という抽象概念の実体がタンパク質であって、その形状そのものが記憶のデータならば、記憶子の設計図であるDNAにコピペもできよう。個人の記憶が畢竟は分子の配列に過ぎないのであれば住所氏名、電話番号、家族状況等のデータは分子配列である。それはけっして大きいものではないだろう。

転生した人々の中には古代エジプト人の生まれ代わりがいた。古代エジプト語の読み書きはもちろん、失われて久しい発話までできたという。その人は発掘調査に携わり、次々に王朝の遺跡を掘り当てた。5000年の時を経た生まれ代わりであり、人から人への肉体のコピペであれば200回ぐらいの書き換えに耐えたことになる。または、たまたま記憶子の設計図が古代エジプト人のものと一致して、成長とともに大昔の記憶が頭に書き込まれてしまったということも確率的にはある。この5000年の間に1000億人ぐらいしか誕生していないとすればその期待値は絶望的に小さいが。ともあれ、古代エジプトで生きた30年の記憶だって、量子コンピュータの二重螺旋で作られる記憶素子ならば細胞1個分のサイズで足りるだろう。

私は獲得形質の遺伝を信じていない。そして個人の記憶が生殖細胞に転写されることを信じていない。それは科学者としての信仰である。ただし…大きな声では言えないが…内心では「体験」が遺伝したほうが進化がスムーズに進み、現在の生態系の実情にあっていると感じている。

適者生存というセントラルドグマには良質な突然変異への期待がある。それだけでは進化に不足としか思えないのだ。生命の危機からかろうじて脱したとき、その経験が多少なりとも遺伝すればどれほど役に立つだろう。ヘビのぎょろりとした眼ににらまれて、ぴょんと跳んで九死に一生を得たカエルの経験が子どもに伝われば、そのカエルの繁栄を大いに助けるだろう。事実、私の体にはその手の反射が手に余るぐらい蓄積されている。

ヒトはこの地球上に最後にうまれた生命デザインだ。万物の霊長のわりに苦労が多すぎる。お釈迦様がかつて気づかれたように、人生は一切皆苦なのだ。それは生物が生き残りをかけて蓄積し繋いできたトラウマを体内に抱えてヒトが誕生してくるからではないのか。危機一髪体験の遺伝は最良の進化をもたらすだろう。その副作用はペシミズムである。病や怪我の痛み、取り越し苦労も含めて苦悩は生き残ることに有利なのだ。こういう妄想をいだきつつ、転生を事実とすれば、個人的経験の転写が可能だと認めるのが問題解決の近道となる。

偶然ではなくコピペだとして記憶子はどうやって人から人にコピーされるのだろう。遺伝子を運ぶ媒体はウイルスとかプリオンというものがあるらしい。私はそのような分野はずぶの素人だが、そういう生物だか生物じゃないかわからない奇妙なものがあるらしい。生物はみなDNAを基に体をコピペして生まれてくる。その設計図になる核酸をコピペするヤツがいるらしい。転生とは、記憶子がウイルスに複写されて他の生物に感染転写したものだと考えればつじつまが合ってくる。

さて私事ではあるが、私にも前世というべきものがある。先の私はヒトではなく魚だったようだ。暖かく浅い池か沼で生きていた魚としてのかすかな記憶があり、胸に手を当てれば思い当たるふしもある。なにぶん魚なもので前世のことが日本語で記述できないのが残念である。


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