ツマグロヒョウモン


凍死したツマグロヒョウモン

写真は私の庭で冬に羽化して死んだツマグロヒョウモン♀である。2005年10月のこと、庭に1個の見慣れぬサナギがあった。家屋の外壁の小さなひさしのところに倒立してぶら下がっている。かなり大型のチョウのサナギにはちがいないのだが、目にするのは始めてだった。黒い体に銀色の棘があるヘビメタ風の特徴があり種名はすぐにツマグロヒョウモンと特定できた。

ツマグロヒョウモンは南方のチョウで今世紀になって温暖化による北上が確認されている。私も四国にいた頃は普通のチョウとしてみていたが、30年ほど前に関東に住み始めてからは、年によって多い少ないの変動が大きく珍蝶の一つにしてきた。とりわけ春の越冬個体と思われるものを見つけると心が踊った。

10月に蛹化したものは私の庭に生えている野生のスミレを食って成長したのだろう。いつ羽化するものかと注意して観察を続けた。うまくすると我が家でツマグロヒョウモンが越冬するかもしれないのだ。しかし、そいつは12月のある晴れた朝にサナギのからを破って出ていた。羽化はうまくいったらしく、抜け殻の下に本体は見つからなかった。どこかに飛んでいったようだが12月の羽化では冬を越すことはできまいと思われた。そして庭でツマグロヒョウモン♀の死体を見つけたのは3日後のことだった。サナギがあったところから1mも離れていない草陰に完品のチョウが翅をたたんだ姿で転がっていた。

現在神奈川県あたりが越冬のボーダーラインになっているようで、定着しているとまではいえないようである。冬になると好事家からぽつぽつとツマグロヒョウモンの目撃情報があげられる。その大半は、よく目立つ容姿の幼虫であり成虫ではない。

ツマグロヒョウモン以外にも北上をこころみるチョウはけっこういるが、冬を乗り切れないものは定着できない。四季がはっきりしている日本では、チョウは種によって越冬態が決まっている。有名所のモンシロチョウやアゲハはサナギ、人気者のオオムラサキは幼虫、ビカビカ光るミドリシジミは卵、キタテハは成虫である。それらのチョウでは冬が来る前に、越冬ステージばかりになって無駄な勝負を避けるらしい。

定まった越冬態を持たないツマグロヒョウモンはまだ日本の冬を知らない。私のサナギは10月に蛹化したのだから、そのままアゲハのように春を待ってから羽化すればよかったのだ。抜け殻の側に死体が転がっていたのは翅が伸びきっても飛ぶことすらできなかったからだろう。寒くて花もない冬に羽化してくるのは自殺行為だ。

こうして毎年無数のツマグロヒョウモンが無駄死する。暖かい夏に卵を産んで、秋に機嫌よくスミレを食って冬に繁殖することもなく息絶える。日本の冬は非情である。無知なチョウにとって季節は一種のトラップだ。そうまでして北を目指すのはツマグロヒョウモンにフロンティアスピリットがあるからだろう。成虫は一歩でも二歩でも新天地を拓きたいのだ。

ツマグロヒョウモンはメスがマダラチョウに擬態している。オスがヒョウモンらしいのにメスは別種であるかのようにマダラチョウデザインで鷹揚に飛ぶ。マダラチョウは毒蝶であるから、オスよりもメスのほうが生き残りやすく、性差のある擬態は即席感と経済性を感じる。ただし自慢の擬態も神奈川県では無益である。マダラチョウが生息していないからだ。もしかしたら南西諸島あたりから渡ってくる夏鳥には効果があるかもしれないが、その効果も屁理屈レベルでしかない。巧みな擬態と北を目指すスピリットは現状では相反している。ただ、新天地への意欲と捕食圧による形態変化は、ツマグロヒョウモンの種としてのポテンシャルを如実に示しているような気がする。

たくましさを感じるチョウとしてはキチョウがいる。ツマグロヒョウモン同様に、まれに私の庭にもやってくる貴重な陽気系昆虫だ。私のところに来ることがそのまま種のたくましさを表している、といってもあながち見当はずれでもないだろう。キチョウといってもキタ、ミナミ、ツマグロというように何種類かいるようだが、ぱっとみて私には区別がつかない。

キチョウはもともと南方のチョウらしい。熱帯アジアを中心に、アフリカ、オーストラリアまで広く分布している。ジャワ島、スマトラ島でも数が多かった。北スマトラのみかん畑で見たキチョウはとりわけ印象的だった。下草に咲いた花で吸蜜しているキチョウを見て、ふと愛媛県にいるんじゃないかと錯覚してしまうほど既視感の強い光景だったのだ。

本来の生息地である熱帯アジアには寒い冬がなく、キチョウは年中とぎれることなく発生しているのだろう。日本にいるキチョウもまだ熱帯にいるつもりで生きているようだ。正確なことは分からないけれど、キチョウの分布北限である本州での越冬態は成虫であると言われている。卵・幼虫・サナギは冬をやり過ごすことができずに寒さに当たって死んでいく。成虫にしても越冬の工夫は無策に等しいらしい。草陰に身を隠しひたすら耐えるだけで、ちょっと暖かいと飛び始めてしまう。命がけで耐寒テストをしているようなものだ。それだけの無理をやっても北上を続けるたくましさは素晴らしいと思う。

日本で生きるからには、冬を迎えるやりかたが特に決まっていないというのはまずい。そもそも昆虫には生理的に越冬が有利なステージというのはあるのだろうか。卵、幼虫、サナギ、成虫のうちでもっとも寒さに強いステージというものはありそうだ。凍結しにくいとか、休眠体制に入りやすいとか。そういうことはありそうな気がする。冬はやり過ごすしかないのなら、冬眠術を身につけるのが適当だろう。幼虫とサナギを見比べてみるならば、サナギのほうが越冬にむいているように思われる。動いても無駄(=食べ物がない)という状態ではそもそも動けない形態のほうがよい。そうした制約はあるはずだけれどもチョウの越冬態はまちまちである。その原因理由は研究の必要がある。

チョウの越冬態について、食草との関係だけははっきり見える。日本で生きているチョウの生態は食草である植物の四季サイクルと見事にマッチしているからだ。チョウには死亡フラグがいくつもある。落葉樹を食べるチョウは、秋には葉に産卵してはいけない。やるなら枝か幹だ。葉に産まれた卵は枯葉もろとも木枯らしに吹き飛ばされてしまう。サナギは冬の最中に羽化してはいけない。卵の中で幼虫になっても春に葉が芽吹くまでは殻からでないほうがよい。その辺にふつうに生きている蝶たちは、そうした罠を軽くかわして、奇跡と見える適応を披露してくれる。早春の芽吹きにあわせて卵から出てきて、芽吹いた食草の色形に合わせて変化していく幼虫の姿なんてものは感動的だ。母親のほうも落葉樹の葉への産卵を避けたり、食草の冬枯れを見越して傍らの石ころに産卵したりと、まるで洞察力をもっているかのように的確に振る舞うことができる。

キチョウはそれができていない。彼らの食草は冬に葉が枯れてしまう。だから食草の葉に直接卵を産む方法はNGだ。幼虫で越冬したいならオオムラサキのような冬眠の工夫がいる。そういうことはできない。秋口までは幼虫が成長でき蛹にもなれる。ただし「秋の蛹は長時間眠って越冬すべし」というアゲハチョウのような技はない。初冬に羽化した成虫がなんとか生き残ることにかけるしかないのだ。

そもそもチョウの分布拡大に先立って食草が分布していることは必要条件になる。チョウより先に食草が北上してなければならない。どれほど寒さに強かろうが食草がなければどうにもならない。常緑広葉樹であるみかんは南の樹木で冬の寒さに極めて弱い。アゲハが東日本でも生息できるのは、落葉広葉樹として寒冷地にも適応したキハダ、サンショウなどのみかん類があるからだ。熱帯から亜寒帯まで、みかん、キハダ、サンショウがオーバーラップして分布している。アゲハはその道を辿って北を目指せばよい。

幸か不幸かツマグロヒョウモンの食草はスミレである。スミレ類は神奈川県では山野、市街地にたくさん生えて一年中緑の葉をつけている。しかも栽培系のパンジーとパンジーが逃げ出して野生化したものがそこらじゅうにある。ツマグロヒョウモンは栽培スミレでも育つことができるらしい。神奈川の住宅地ではアスファルトの隙間に生えるスミレを食べるツマグロヒョウモンをよく目にする。あのいかつい芋虫とこぶりなスミレの株はみょうに不釣合いだ。

神奈川県でのツマグロヒョウモン越冬態が幼虫なのは、スミレが一年中緑の葉をつけているからだろう。サナギ・成虫越冬が無理そうなことは、たまたま私の庭で蛹化した個体が物語っている。卵越冬できないのは、秋に産まれた卵が無計画に孵化してしまうからだ。庭にいたのは、秋浅いころに孵化して成長し晩秋に蛹化したものだ。春まで羽化を待てないようでは生き残ることができない。生き残る可能性があるのは秋深くに産まれた卵だ。秋に孵化した幼虫は冬の寒さに凍えつつも、暖かいときにほそぼそとスミレを食って命をつなぐことができる。暖冬の年はそうしたツマグロヒョウモンが4月に舞う姿を目にしている。

食草の分布はその昔、ダーウィンが気づいた自然淘汰の要因となる。いわば消極的な進化の動力である。もし、スミレが冬にすっかり枯れてしまうのだったら、ツマグロヒョウモンの越冬態はどうなるのだろう。スミレが10月から3月まで葉をつけず、ツマグロヒョウモンは日本の冬を知らないと仮定してみよう。秋に産まれた卵は食べ物のない季節に孵化し幼虫は餓死する。秋に蛹化した蛹は冬に羽化してチョウが死んでしまう。秋に羽化したチョウは産卵しても無駄でチョウのまま冬を越すこともできない。どこかのステージで冬眠術を身につけないかぎり行き止まりである。

今のまま本州でトライエラーを続けるとツマグロヒョウモンにはどんな未来が開けてくるのだろうか。冬を越すのは寒さに強い幼虫である。耐寒性は優劣があるはずだ。強い幼虫が春を迎えチョウになって飛び始める。春に出会うオスメスは越冬組だけである。越冬組は寒さに強い性質をもった子どもを残すだろう。夏には寒さに強いタイプのチョウが羽化してくることになる。ところが、そのとき南から寒さに弱いタイプが北上してきて混じってしまい、いざ冬を迎える幼虫は強弱まじったものになる。おそらくツマグロヒョウモン幼虫の耐寒性は劣性である。寒さに強い個体群は簡単には誕生しないだろう。

寒さに強いタイプが主流になって東日本で定着するためには隔離が必要だ。北上する個体群が届かないほど北にいるか、寒さに強い性質と共に南のタイプと交雑を避ける性質が遺伝してしまうか、何らかの要因で隔離されると新種のツマグロヒョウモンになる。生息地を拡大し個体数を増やし分化していくのが生物としての勝利なら、ツマグロヒョウモンみたいに挑戦を続けるものは祝福を受けることになろう。ただそれも永遠には続くまい。ツマグロヒョウモンでは、その新種は寒さに強く分散しないタイプという予想が立つからである。


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