アレチウリ

アレチウリ

写真はアレチウリの巻きひげである。アレチウリはヘチマのようなつる植物で、近年、河原や空き地などにはびこって嫌われている雑草の一つだ。嫌われ者の常として夏期のはびこりようはすさまじいものがある。巻きひげを使って回りのものに捕まりぐんぐん成長していく。

巻きひげは葉の変化したものだろう。茎から出てきて、おそらくは回転しながら不定の成長をし、何かに触れた側の成長が遅くなり触れてない側の成長が相対的に早まることで、触れたものに巻きつくことができるものと思う。

その巻きひげはかなり巧妙なデザインになっている。ただの線ではなく螺旋になっていることはすぐわかる。ただし、その螺旋をよくよく観察すると、尋常ではないことが明らかになる。途中から右巻が左巻に変化しているのだ。

アレチウリ

こういう仕掛けは両端を固定して中央からよじるとできる。ということは、この螺旋ができるのはどうやら巻きひげが何かにしっかり巻きついた後である。アレチウリは何かに巻きついた後で仕上げとして螺旋を作るのだ。

とうぜんのことながら疑問がわく。なぜアレチウリは巻きひげに螺旋を作るのか? その解答は明解なものが用意されている。

細く弱い巻きひげで巻きつくだけでは風が吹いて揺れたときなどには簡単にちぎれてしまう。それを防止するのが巻きひげにできている螺旋だ。巻きひげにできた螺旋仕掛けはバネのようによく延び縮みして、多少引っ張ったくらいではちぎれなくなっている。巻きひげの螺旋は強度と安定性を約束するバネなのだ。

こういうわかりかたを目的論的理解という。ふつうの人ならそれでよいと思う。ありふれた雑草の知恵のすごさに驚き感動しておればよい。しかしながら、本気でアレチウリの身になってバネ仕掛けのことを考えるならば目的論的理解では不十分である。本当の意味で目的を持てるのは人間だけ、それも一個人に限定されるからだ。目的をもたないアレチウリの目的を設定するのは、休みに似た馬鹿の考えでしかない。他の動植物も同様だ。

同じく国家や企業などの組織も目的を持たない。組織には記憶も感覚も感情もないから。個人以外のものに目的を持ち込もうとするならば超越的精神をみつけることになる。それは発見ではなく敗北を意味する。哲学者なら安易な目的論を持ち込まずに国家やアレチウリと対話しなければならない。

そもそも、つる植物ということ自体がたいしたものだ。マメとかウリとかアサガオとかいろいろな植物が同じような方式を発明している。植物は太陽の光の奪い合いをしている。熱帯のイチジクでよく言われるように、つるは他人の成果を利用して高いところに登りうまい汁を吸うしかけだ。ただし、つるの利もまじめにこつこつがんばっているフツーの樹木あってのものだねだから、きっと地球史のなかでは比較的新しいやり方なのだろうと思う。

つる植物のもっとも単純なやりかたは巻きつきだろう。アサガオにみられるような巻きつきはシンプルでいろいろな植物に採用されている。アサガオの特徴は、細い木の枝や草に巻き付いて上へ上へと成長していくことにある。問題はその巻き付きという方法をアサガオがいかにして獲得したのかだ。

「およそ地より生えるものは全て太陽に向かうもの。日陰に伸びるタケノコなど笑止」というのは天才忍者カムイの言葉である。私はそこにアサガオの起源を解く鍵があると思った。

カムイも気づいていたように、草は太陽の方に向く。朝は東、昼は南、夕は西。一昼でぐるっと首を振る。私は、アサガオはもともとこの首振り運動が大きかった植物なのではないかと思っている。太陽に敏感で成長が速い。そのかわり体質的に体は細く弱い。そういう体を太陽に向かって毎日振っていると、いつかは棒状の物にぶつかる。投げ縄をどんどん送って延ばすといつかは何かに当たるようなものだ。ぶつかれば避けて絡まないような成長をする選択もあるが、アサガオのどん欲さはむしろ棒を巻く方を選んだ。ひとたび、巻きつくことにすれば、太陽の光を受けるのにかなり都合がよいことも明らかになる。生来の技であった成長の早さ、体の柔軟さを遺憾なく発揮し、他の草を差し置いて高みへ到達することができたのだ。

小学校の理科のテストで、アサガオの蔓の巻く方向を問われた経験のある人も多いだろう。アサガオは右巻き。上から見ると左方向、つまり反時計回りに巻いている(とおぼろげな記憶がある)。もし、アサガオの巻の起源が、日周運動で太陽を追ったからというのならば、右巻きだとちょっとおかしい。太陽と反対の方向にアサガオが回ることになるからだ。

もしかしたら、日中に太陽に向かうのは体をひねる運動で、夜間には昼のひねりを戻しつつ体を伸ばす成長をするのかもしれない。そうであれば、夜間に上へ伸びると同時に左に回ることになる。

また、いま日本で栽培されているアサガオがもともと南半球で生まれた植物なのかもしれない。南半球の高緯度では上から見ると、日周運動をする植物は左回転をするはずだ。

地軸も大陸もアサガオの生息地も移動するものである。ひとたび、ツルになって巻くという特質を手に入れたならば、その巻き方はもはや太陽の位置も速度もわすれてかまわない。とにかく速く強く巻くものが偉いのだ。

つる植物はすごいけれども植物界の王者として君臨することはできないようだ。アレチウリやクズが巻きついたせいで日陰になり枯れ死したらしい樹木を見ることができる。杉や桧の林が捨て置かれて山じゅうがクズに覆われているようなところも見る。しかしながら、つる植物が主役になっている場所は知らない。東北のブナ林でも熱帯雨林でも、安定している森林ではつる植物はあくまで脇役なのだ。林道わきや植林地など人工的に開発された場所や河原で一時的に主役になれるだけにみえる。つる植物が樹木を圧倒できないわけは、よくわからないけれども自滅にあるのかと思う。つる植物だけの群落があるならば、つるはつるにからまる他はない。また自らの古い体を新しい体が覆ってしまうことにもなるだろう。つる植物の単相では互いに殺し合ったり自殺したりという凄惨な末路が宿命なのかもしれない。

朝顔とアレチウリはひとしくつる植物だけど全然ちがう方式を採用している。茎で巻きつくよりも巻きひげを使うほうがずっと手が込んでいる。巻きひげは葉であり、葉はそもそも巻きつくものではないからだ。

気を楽にして目的論的に理解するならば、茎というのは植物にとって体をささえ大きくするためのものだ。そして葉というのは太陽の光をたくさん浴びて光合成をするためのものだ。植物は茎だけでも葉だけでも生きていかれる生物だ。それなのに朝顔やアレチウリぐらいの花も実もある高等植物ともなると、根茎葉花がそれぞれ役割分担をしている。器官が機能をになっているのだ。各部に機能を持たせるからには、その機能に特化した発達をするのが筋だ。ひとたび葉にきまったなら支持機能は捨て光合成に邁進するのが自然だろう。

おそらく葉は茎が変化したものだ。より光合成ができるように広く薄くなった茎の一部と見て間違いないと思う。その葉を巻きひげに変化させるのは並大抵のことではないはずだ。ひとたびは薄く広げるようにしたものを再び細くなおしたのか、それともアレチウリの葉は細長く延びるのと広がるのと2タイプが共存していたものか。

巻きひげのバネなんか超美技だ。ヒトが使っているバネは発明という言葉ができあがる前にどこかのだれかによって発明されたものだ。その発明も巻きひげのような自然界のバネがヒントだったのだろうか。いまだバネ仕掛けを持たないつる植物に強度と柔軟さをあわせ持ったシンプルな巻きひげを教えてあげるとすれば、まさにアレチウリの巻きひげになるだろう。あれ以上にうまい仕掛けはちょっと考えてみたけど思い浮かばなかった。というよりも、アレチウリやヘチマの巻きひげを知らなかったら、あのバネの工夫に思い至ることはなかった。

アレチウリの巻きひげの起源は正直、想像がつかない。それは永久に解けない謎かもしれない。もしかしたら解けるかもしれない。何が分かれば解けたことになるのかという目標を決めることぐらいはできるかもしれない。アレチウリ自身は自分が何をしているのかをしらない。巻きひげがどのような役割を持ち、どれほど優れた仕掛けであるかを知らない。植物の謎を解けるのはヒトだけなのだ。

ヒトはバネがどういうふうにでき上がるのかをよく見る必要がある。外から見ただけでわかるのは、何かに巻きついた巻きひげの途中が山のように盛り上がって、その山がまるで海の波が巻き込むように回転しながら螺旋を作ることだ。単に巻きひげの途中が成長するだけなら、ほつれてこんがらかった毛糸のような不定形のごちゃごちゃした固まりになることだろう。それでもクッションの役割は果すに違いない。しかし、現実には非常に規則正しく巻きひげの内側外側が成長し前後で方向のちがう螺旋のバネができあがる。できあがってみれば、少ない努力で最大の効果をあげているように見える。人間がそうした成果を得るためには目的と見通しを持つ必要がある。アレチウリはそんなビジョンを持つことなく、画期的な発明をして大成功をおさめているのだ。


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