蛾と蝶


蝶と蛾を区別することは簡単だ。日本のものなら蝶の図鑑を買ってきて主要なものを30種類ほど覚えれば良い。それらしくない鱗翅目を見つけたらそれは蛾だ。その程度の勉強では蛾と蜂の区別はつかないだろうけど、蝶と蛾の区別はつくはずだ。

蝶と蛾を分ける科学的根拠はない。人文的にも分ける所と分けない所がある。蝶と蛾は日本やイギリスではわけているけれども、ドイツ語では区別がないのだそうだ。ヘルマンヘッセの「少年の日の思い出」にはヤママユガがアゲハやコムラサキ以上に美しく貴重な蝶として登場している。

それでも「なんとなく」蝶と蛾は違うような気がする。夜に飛ぶのと昼に飛ぶのと、陽気なのと陰気なのと。このなんとはなしのちがいは大事なんじゃないだろうか。

現代の遺伝子工学をもってすれば、次のような疑問にも決着がつけられるにちがいない。「蝶と蛾はどっちが先にうまれたんだろう?」そもそものところ、蝶というのは昼間に飛ぶようになった蛾なのか、蛾というのは夜に進出して行った蝶なのか? もしくは最初から両方ともいたのか。

蝶よりも蛾のほうが圧倒的に種類が多い。個体数も多い。生態もバリエーションがある。となれば、もともと蛾だったものの一派から蝶が出てきたと考える方が自然だ。ひとまず、蝶が蛾から生まれたことにしてみよう。夜の蛾が昼間の世界に進出して蝶になったと仮定してみる。

昼に活動することの有利さはなんだろう。明るい世界か? 蛾は飛び回るのに光はそれほど必要がないらしい。スズメガなんかは暗闇のなかでものすごいスピードで飛ぶ。私の目には見えないが夜の森林には無数の蛾が飛び交いにぎやかなことだろう。蝶は周囲を見ることの他に光を利用しているのだろうか。

昼間の世界を飛ぶメリットは食べ物だろうか? 昼に活動するアブやハチにあわせて昼に咲く花は多い。そうした食料を目当てに日中の世界に進出してもよさそうだ。

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昼には恐ろしい敵がいる。鳥類だ。夜に活動する鳥は少ないから、蛾よりも蝶のほうが危険だ。飛ぶことと隠れることは相反する。飛びまわると目立つ。真っ昼間に飛び回って生き残るためには、鳥をなんとかしなければならない。その工夫の跡は蝶の翅の模様に現れている。

アオタテハモドキ

写真の蝶はアオタテハモドキという。撮影はインドネシアのジャワ島だけど、沖縄にもたくさんいる。後翅が太陽を反射してブルーに輝く美しい蝶だ。美しいのに名がつまらない。よたかの星では、よたかが夜と鷹から名を借りているからけしからんといわれてしまうが、こいつも同等かいっそうひどい。アオタテハモドキといえばタテハみたいな青いやつという意味だ。かわいそうな和名だ。

こいつを登場させたのは、左の後翅の目玉模様が欠けているからだ。この欠けは偶然ではない。はじめはその意味がわからず、気にもせず、よくあることで済ませていた。しかし、これは蝶にとっては死活問題だと教わって、見方が一変した。

目玉模様は鳥に食われて欠けたらしい。鳥は攻撃するときに目を狙う習性があるのだ。鳥のくちばしは蝶にとっては必殺の一撃で、本物の目にくらえば一巻の終わりだ。あえて翅にめだつ目玉模様があれば鳥はそこを攻撃するから本体を守ることができる。

ヤママユガなどの蛾にも大きな目玉模様がある。それもやはり鳥対策らしい。ただし、狙わせるのではなく驚かすためだそうだ。突然現れる目玉は鳥にとってはイタチやネコみたいな捕食者の出現を意味する。蝶と蛾では目玉模様の意味もちがっているのだ。

ということであれば、蝶の模様は鳥が作ったという一面がある。鳥がいないうちは、奇抜なヤツはいなかったかもしれない。特に擬態する毒蝶はいなかったろう。ミュラー型やベイツ型の擬態が認められるのは、蝶がこれまでによっぽど目のいいヤツにつけ狙われてきたという証だ。

ただし、この地球上では毒のない蝶の方が多い。蛇の目模様の蝶も少数派だ。蝶は特殊でなくても生きていけるのか。そもそも蝶というのは人間の私が気づかないだけで、全体が際物の集合なのか。蝶や蛾にとって鳥から逃れるというのはどういうことなのか、場合を分けて詳細にみていく必要がありそうな気がする。

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蝶と蛾の関係を考えるときに幼虫も無視できない。幼虫では蝶と蛾の区別は見出しがたい。幼虫の姿形、生き様は千差万別で多彩であるけれども、その中から蝶にあって蛾にないものが思い当たらない。幼虫時には蝶を特徴づけるサムシングXはないといえよう。

いっぽう、蝶と蛾をひっくるめて共通な幼虫の特徴ははっきりしている。大雑把にいえば、幼虫は鳥に見つからないようにしている。毒をもつものもいるけど、一般には葉っぱや枝に似たり、土や植物にもぐったり、隠れて生きている。のろまでおいしい生き物が人間の目から見て隠れているということは、同じような性能の目で見つけて彼らを食う者がいるということだ。幼虫が見つかりにくいのは鳥が幼虫を見つけ次第に食ってきた結果だ。

成虫になっても蛾は葉や木肌に似ているものが極めて多く、幼虫の隠蔽傾向を引きずっている。蝶の場合は昼間に飛び回るので隠蔽は意味がない。姿がよく見えても逃げられる甲斐性のほうが必要なのだ。

蝶は蝶らしい特徴がある。飛び方を見ているといかにもひらひらして、軌道が不規則、きびきびと速い。蛾の方が素直にわかりやすい曲線を描いて飛んでいると思う。蝶の素早くトリッキーな飛び方は飛行時に補食される確率を小さくしているだろうか。昼間、鳥の目があるときに飛ぶには高い飛行能力は必須だ。

蝶は日光を利用する。蝶の翅の鮮やかな色や動きは同種へのメッセージになっている。可視光を使って自分をアピールするならば、目の良い敵にも「ここに餌がある」ということを示すことになる。だから蝶は目立っても捕まりにくいように速く飛ばなければならない。目玉模様という普遍のデザインが発達したり毒蝶に共通の衣装が決まったりしている。きっと人間には容易に知られないで、鳥を避けるのに有効なデザインや行動もあることだろう。

一般に蝶の翅は表が鮮やかで、裏が地味になっている。とりわけ、太陽光を反射して輝くタイプの蝶は表と裏のギャップが大きい。国産のものではミドリシジミ類があり世界的にはモルフォが有名だ。彼らの翅が光るのは、当然メスを誘惑するメッセージなのだろう。1秒間に何回というはばたきのリズムがメスを酔わせてその気にさせるのかもしれない。そのためには裏が光る必要はなく、表だけが光ればよい。

モルフォ

また、裏がきわめて地味なのは敵への目くらましの効果も大きいと思う。モルフォなんかは遠目にもよく目立つ。それこそ、何百メートルも先の谷を飛んでいてもチカチカと青い明滅は嫌でも目に入ってくる。モルフォは飛翔力も強くすばらしく速く飛ぶ。木漏れ日の小道を間近に飛ばれると、まるで一瞬の閃光だ。その光を追いかけてもすぐに姿を見失ってしまう。止まるとき翅をぴったり閉じるので一瞬のうちに暗い密林の背景にとけ込むのだ。鳥もモルフォの翅の表裏の光と陰のギャップには戸惑うことだろう。

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ところで、鳥が全くいなかったころの蝶や蛾はどんな姿でどういう生き方をしていたのだろう。鳥というのは圧倒的に強力で、飢えていて、目がよく、飛翔力が強い捕食者と定義する。

鱗翅目がこの地球上に現れたのは鳥に先立つこと1億年前であるという。1億年というのは、さざれ石だって巌になろうかという途方もない長さだ。その間、蝶や蛾の空での恐るべき敵は同じ昆虫類だったことだろう。トンボのような昆虫類が相手ならそれほど面倒なことにもならない。大きいか速いかでなんとかなる。トンボは止まっている虫は食べない。止まっているときには、トカゲが強力な敵だ。トカゲというのは「飛ばない鳥」と定義する。夜の活動も得意だ。ネズミもトカゲ類に入る。しばし、鳥のいない世界での蝶と捕食者との関係を考えてみよう。

鳥のいない世界で、鱗翅目の外観に変化をあたえる捕食者はトカゲだとする。トカゲの捕食圧が鱗翅目の翅の模様に影響を及ぼすならば、それは止まっているときだ。トカゲは飛んでいる鱗翅目を補食することはできず、止まっているときの擬態、隠蔽が生死に関わってくるからだ。

今のトカゲから類推するに、大昔のトカゲも目は良く、動く物をよくとらえ色も細かく識別できたのだろう。そういう捕食者を相手に有効な隠蔽は、木や葉の肌に似ることだ。とくに眠っているときが危ないので、できる限り目立たないほうがよい。夜に活動し昼間に眠る蝶(いわゆる蛾)であれば、木の幹やコケに良く似ている種類が有効だろう。鳥がいなくても夜行性で昼間に止まっている隠蔽的な蝶(いわゆる蛾)は繁栄するだろう。現在の主流の蛾のデザインは鳥なしでも生まれたにちがいない。

夜行性のトカゲについても考えておかなければならない。夜はきっと色が目立たない世界だろうと思う。弱い光に反応できる目の細胞は色の区別ができないはずだ。夜に休むタイプの蛾(いわゆる蝶)はそれほど奇抜化しないと思われる。たとえばアゲハは翅裏も黄と黒で目立つように見えるかもしれないが、宵闇の中で動かなければそれほど目立たないものかもしれない。蝶のデザインを考える上で、夜間の隠蔽、擬態はそれほど重要視しなくてもよさそうだ。

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成虫の蝶が第一に考えることは繁殖だ。捕食者に食われたとしても、ひとしきり交尾、産卵を終えておれば問題はない。昼間に飛ぶ蝶は異性には目立たねばならず、トカゲには見えない方がよい。その目立ち方のバランスはいわば確率の問題だ。

先にもいったように夜に活動する蝶(いわゆる蛾)は異性に目立つ姿を放棄しているから、いきおいその見た目は隠蔽、擬態を露骨に表すことになる。蝶は昼間に飛んで、光という速くて遠くまで届く通信手段をつかっている。蝶の色模様は鳥の出現以前、圧倒的な捕食者がトカゲだった時代には、自由自在に発達していたことだろう。いま、われわれが蝶をきれいだと思うのは、彼らが異性に見せる姿である。その衣装は鳥のせいで1億年前よりはいくぶん控えめになっているはずだ。

話をトカゲの時代に戻そう。鳥がいない世界はトカゲの楽園で、木や草むらや岩陰には無数のトカゲがいる。彼らは目がよく、飛び回る蝶を虎視眈々と狙っている。近くに止まろうものならジャンプ一閃、強力な口で捕まえてやろうという算段だ。彼らの目はちょっとでも不審な動きをするものを見逃さない。蝶がいくら異性に目立たちたいといっても、静止時に目立つ必要はない。飛んでいるときに、歩いているときでもよいが、翅の表を誇示してグッと来る相手だけにセックスアピールすればよいのだ。蝶の翅の裏表はぜんぜん違う役割を持っていると考えて良い。

トカゲ相手に、翅裏が地味で隠蔽的なのは大いに効果があると思う。蝶は翅を天に向かってピタリと閉じて翅表をすっかり隠して止まる。いっぱんに、蝶の裏翅は地味で、飛んでいるときにちらちらとよく目立つ翅が止まったとたんに背景にとけ込んで見えなくなる。そのまま静止しておれば、トカゲの口を免れることができる。また、ぴったり翅を合わせて止まる姿勢のほうが、一瞬で飛び立てるという有利さがあるだろう。最初の一はばたきで10センチだけ宙に舞えるのだ。蝶と蛾のみわけかたに翅の色鮮やかさと止まりかたがある。その違いはトカゲ時代には作られていたのだろう。

蝶蛾の翅の目玉模様に2タイプあるらしいということはすでに述べた。蛾が威嚇型の目玉で、蝶がターゲット型の目玉とでも分類できようか。その大雑把な分類があっているならば、目玉模様の2タイプの起源もはっきりできると思う。

トカゲの時代はターゲット型の目玉模様は発達しない。というのは、トカゲが獲物の目を狙うということがありそうにないからだ。私が好きなカナヘビは動く物に良く反応する。コオロギの小さいのやワラジ虫とはよく「だるまさんが転んだ」をやっている。何か動く物が視界にはいれば、あるいは地面の振動を感知して、対象の方を注視し相手が止まっていれば動かず、動き始めれば電光石火の早業でとらえるというやり方だ。とくに目を狙うとか、そういうことはありそうもない。ひとまず食えるサイズであることだけが問題のようだ。大きい獲物ではミミズが大好きで多少口にあまっても無理して飲み込む。

思うに、目を狙うというのはくちばしという武器に伴って発達する技ではないだろうか。目をつぶせば力の強い相手にも勝つことができる。闘争にも捕食にも応用できる技なのだろう。したがってトカゲ時代には、ターゲット型の蛇の目模様はなかったのだ。

いっぽう、威嚇型はトカゲ時代にもおおいに発達する可能性がある。トカゲ時代にはトカゲだけでなく蛇とかワニとか恐竜までがいたのだ。おもに虫を食うような小型のトカゲは、より大きなトカゲや蛇やワニや恐竜の餌食だったにちがいない。草影からこちらを伺い、幹の後ろからばっと現れる2つの目玉は、まさに生命の危機なのだ。目玉模様が視界に入ったとき反射的に回避の動作をとれないトカゲは生き残れない。そういう反射によって、たまたま目玉のような模様をもった蛾(蝶)がより多く生き残るということはじゅうぶんありえる。それも100年や1000年ではどうってことはないかも知れないが、1億年の余裕があったのだ。山でいえばチョモランマが1回海になってもう1回チョモランマになって、浸食されて平原になってしまうぐらいのスパンだ。虫でいえば4億とか5億世代である。1000年に1粒だけよりよい鱗粉を選んでいったとしても50万粒の鱗粉を使ってデザインするだけの余裕がある。蛾(蝶)の翅に精巧な目玉の一つや二つできてもおかしくはない。

いつもいつも目玉模様を見せびらかすようでは敵も冷静になるだろう。いざというときにバッと見せるのがよい。威嚇型は隠蔽とセットになってより有効だ。隠蔽しているときは休んでいるときだ。蛾が昼間に眠っているとき、いくら葉や幹にそっくりとはいえ、トカゲにぶつかってこられたら一巻の終わりだ。トカゲはそこいらじゅうを歩き回っているのだからいつ踏まれないとも限らない。そういう場合は、弱い蝶は慌てふためく以外にやることがない。あわててばさばさしたときに目玉が見えれば、踏んだトカゲの方も肝を冷やすだろう。そうなると、翅を閉じてとまる蝶は表に目玉があり、翅を開いて止まる蛾には後ろ翅や裏側など、止まっているときに目立たない部分にあるのが効果的だ。

一方、ターゲット型のほうは飛ぶときに誇示する必要がある。蝶は空中戦を意識しているのだ。飛びながら鳥に目玉模様をつつかれたいのだ。しかし、正直言うとターゲット型の誕生についてはよくわからない。そういう蝶がいることは確かなのだが、もともと威嚇型のものが鳥類の繁栄によってターゲット型に変化したといってよいだろうか。

トカゲ時代に昼間活動している蛾(いわゆる蝶)は、鳥の出現によって速く飛ばなければならなくなった。鳥との空中戦に生き残る蛾(いわゆる蝶)は体がシャープになり小型化して敏捷になっていく。もともとはトカゲに対して威嚇的な模様だった後翅の目玉模様は、翅が小型化すると鳥に対するターゲット型に変貌することになった。こういう単純なシナリオは御都合主義のにおいがぷんぷんする。

これは威嚇型、あれはターゲット型ときっかりと線が引けるものでもない。おおむねフクロウチョウなら威嚇型、スカシジャノメならターゲット型とはいえる。その区別は敵との大きさの相関関係によるのだ。そもそも、点・円・同心円というデザインは昆虫が作りやすいもののような気がする。大小無数の蝶蛾がいて、大小もっと無数の目玉模様があるのだ。各種の蝶蛾の目玉模様は生存に大きな役割をもっていたり、現代ではほんとに単なる模様に過ぎなかったり、意外にも生きるのに不利な邪魔ものだったり、いろいろ入り乱れているのだと思う。

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虫の擬態がすばらしければすばらしいほど、少年の疑問は大きくなる。「では、ふつーの虫はなんなんだろう?」 生きるために、とりわけ鳥の捕食を逃れることができるように、尋常ならざる技があるのはすばらしいことだ。蝶の目玉模様は安い言葉でいえば自然の叡智といえよう。ならば、その辺をふつーに飛んでいるモンシロチョウには叡智がないのだろうか。モンシロチョウには目玉模様がない。毒もない。速度もない。何かに似ているわけでもない。それなのに弱肉強食のはずの野生界でどうして生き残れるのか。生き残るどころか、どの蝶よりも繁栄しているように見える。モンシロチョウという普通の生き方があり、それが成功しているならば、なにを好きこのんで奇天烈な生き方を選ぶ必要があるのか。無理せず普通に生きられるなら、それこそ叡智ではないか。

モンシロチョウはもともと日本にはいなかった帰化動物だとされている。大陸からアブラナの栽培に伴って入ってきたらしい。近年では沖縄にもキャベツといっしょに入って定着しているという。同じ調子で南北アメリカ大陸にも進出し、いまやコスモポリタンになっている。

やつらが、生き残るために特別な技を持っているとは考えにくい。幼虫は青虫でキャベツにそっくりの色をしているけど、隠蔽のレベルとしては中の下といったところだ。しかもコマユバチにはめっぽう弱く、夏の青虫にはほとんどハチが入っている。アシナガバチにもよくやられるようだ。

モンシロチョウは鳥に対してはどうなんだろうか。成虫の飛び方はちり紙にしか見えない、ということもないだろう。餌はキャベツだから体に毒はない。ためしに鶏にやってみるとうまそうに食う。もしムクドリあたりがキャベツの青虫に目をつければいっぺんにやられそうだ。だのに、モンシロチョウは最も一般的な蝶として春を謳歌している。食われる以上に増えることができるのか。無尽蔵の食料をたすけにして、鳥が食う以上に増えているのか。私にはそれだけでは説明がつかないような気がする。

ふだんにも増して妄想たくましく断言するならば、鳥たちはモンシロチョウにまだ気づいていないのだ。もちろん成虫の蝶は見えても、キャベツにあの青虫がいることを知らないかもしれない。

鳥が餌をとることの巧みさはよく知っている。サボテンの針を使って穴からカミキリを掘り出したり、牛乳瓶のふたを開けて牛乳を飲んだり、ルアーを使って魚をおびき寄せたり、人を招いて蜂の巣のありかを教えたり、ガラス窓を叩いて餌を要求したり、いくらでもその知恵を列挙することができる。

その一方で意外と食べ物に無知だったりするものだ。スズメが桜の花を食べ始めたのはごく最近のことだという。たしかに今では桜を食い散らかすスズメは普通に見られるが、私が子どもの頃にはそれを見た覚えがない。スズメが梅の花を食べるところはまだ一度しか見たことがない。梅の方が桜より蜜が多いだろうから、桜のあの要領で食べればよさそうなものなのに、あまりやらない。桜よりも頑丈な梅の花の構造があのスズメの乱暴なやり方にあってないのかもしれない。シジュウカラはヒマワリの種を上手に割って食うが、スズメはできない。物欲しそうにそばで見ている。くちばし他、体の構造にシジュウカラとスズメで決定的な違いはないと思うのに、なぜかスズメはヒマワリが食えない。かといってスズメが不器用というものでもない。稲が熟す直前、穂の中でミルクのようになっている米をちゅうちゅう吸うのはスズメの独壇場だ。

ムクドリは草むらで虫を捕まえるのが得意だ。冬には多摩川でスズメとムクドリの混群をよくみた。100羽ぐらいが集まってぎゃあぎゃあさわぎながらしきりに土手の草むらをつついている。けっこうな確率で虫を引き当て争って食っていた。多摩川の土手で虫を見つけるのはそれほどやさしいことではない。コガネムシの幼虫やミミズ、ワラジ、ゲジなどが生息し、モグラも多いことは確認していたけれど、人間がそれらを見つけるには結構な労力が必要だった。あの短いくちばしがよく届くものだ。

プロの鳥の目をもってすれば、モンシロチョウの幼虫もすぐに見つかってよさそうだ。しかしながら、その道のプロである鳥は得意分野ではすばらしい技を披露してくれるに、他のことになると驚くほど疎いものだ。ムクドリにとって、餌である虫の住処は草の根っことか、枝葉だろう。ツバメと違って飛んでいる虫は目に入らないのかもしれない。クマゲラのまねをして大木の中に巣くっているアリやカミキリを食おうなんて思いもよらないだろう。カワゲラを食うカワガラスが水に潜って何をやっているのか想像もできないだろう。

というようなことを色々考えていると、畑に生えているまあるいキャベツは虫の生息地として鳥に認知されていないのではないか? という気がしたのだ。キャベツは不自然な形状をしている。イモムシ毛虫が這っていそうな形状ではない。キャベツは雑多な虫食い鳥にとっては岩も同然で、そこに虫はいないはずですから、と無視されている可能性がある。日本でキャベツが栽培されるようになってまだ100年程度のものだろう。100年は青虫が鳥の目から逃れるのに長い時間ではないと思う。

モンシロチョウの幼虫はこの日本で農地という人工環境を手に入れ鳥の目から透明になることで、たまさかの繁栄を得ているのだろうか。それが本当なら、今世紀の終わり頃にはいくらかの鳥が青虫に気づくだろうから、すっかり珍蝶になっているかもしれない。

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蝶蛾の特徴は翅に鱗粉があることだ。それで、鱗翅目という。鱗粉というのはただ者ではない。蝶の翅を拡大して、その鱗粉の整然とした配列を眺めているとめまいをおぼえる。さらに鱗粉のひとつひとつを電子顕微鏡で見るならば、その精巧さはあきれるばかりだ。しかも蝶の種類によって別物であるかのように構造が異なっている。

そもそも鱗翅目の鱗粉は鳥やトカゲの目くらましのために生まれたわけではあるまい。なにか積極的な利点を探さねばならない。

昆虫がただ生きることに鱗粉が必要ないことは明らかだ。それは過半数の昆虫が鱗粉のないつるつるの翅を持っていることが証明している。それにも関わらず鱗粉を持つというアイデアは大成功だった。鱗翅目は昆虫類の中でも巨大な1グループを形成している。その数たるや人類の1万倍ではきかないだろう。彼らにとって鱗粉とは何なのだろう?

鱗粉はもともと毛だったと言われる。昆虫の翅に毛があるのは普通だ。つんつるてんに見えるカブトムシの翅にだって細かい毛がびっしりとならんでいる。しかもその毛がけっこう敏感で、そうっと触っただけでびくっと反応する。昆虫の毛はいわば感覚器でもあるようだ。そんな毛が鱗粉に変化することの優位さを挙げるとなるとかなりの難問だ。とにかく鱗粉の構造、数、並び方はただ事ではないのだ。あれがたまたまの無意味な産物なら、この世に意味ある物なんてないと結論して良いと思う。

鱗粉は翅という広いキャンバスに精巧な絵を描くことができる。アゲハの翅はさながら山下清の花火のようだ。これまでさんざん考えてきた猫やフクロウや蛇の目を思わせるデザインも鱗粉の点描によるものだ。枯れ葉やコケ、木の幹に擬態するにしても細密で繊細なグラデーションをつけることもできる。鱗粉にはそんなデザイン的な機能以前の切実な役割があるだろう。

蝶や蛾は人間ではないのだから、死なないように気遣うやつはいない。びくびくしててもしょうがない。自然界では――ダーウィンがいう進化という点では特に――勝ち組とは多く子を残したものである。強い弱い、食う食われる、寿命の長短は勝ち負けに一切関係ない。1回交尾して1日で死ぬほうが、交尾せずに100日生きるよりも有意義だ。1個も卵を産まずに他の生き物を食いまくるよりも、1個卵を産んだだけで食い殺されるヤツが偉い。それがヒト以外の自然を統べる掟だ。蝶は羽化すれば数日か数週間の命だ。防御は追われたらちょい逃げる程度で良い。彼らの全パッションは繁殖に向けられる。鱗粉も交尾と産卵に関わっているはずだ。

蛾と違って蝶には性差の大きいものがいる。翅のデザインはもともとは雌雄のセックスアピールのためだろうと思う。ミドリシジミのメスなんかはずいぶん地味だけど、オスはちゃんと同種のメスに向かって飛んで行く。モンシロチョウの雄雌は紫外線の目で見れば白黒はっきりする。愛すべきか戦うべきかが一目瞭然というのは便利だ。

現状、鱗粉は蝶の繁殖に大いに関わっている。鱗粉がないと不自由だろう。だからといって最初からその手の不自由があったとは思えない。2億年前には確実に鱗粉がただの毛だった時代があった。毛でも満足に繁殖できていた。そんな中から、毛が鱗粉に変わった方が有利な一群が生まれ育ってきたのだ。端的には鱗粉の多い奴の方がより多く子孫を残せるような、そういう時代があったのだと思う。

日本屈指の鱗翅目の大家、それも鱗粉の専門家から「蛾はことごとく鱗粉に臭い袋を持っている」と聞いたとき、うかつにも目から鱗が落ちなかった。なにやらぞくぞくするものを感じたけれど、当時はその意味がよくわからなかったのだ。臭い袋について耳にしたのはあれが最初で最後だ。鱗粉の臭い袋のことはまだ良く研究されていないかもしれない。

蛾の性フェロモンについては小学生のとき昆虫記を読んで大きな感銘を受けた。自分の目でその効果を目の当たりにもした。性フェロモンの効果は劇的で、1立方センチあたり数千個の分子があればオスはそれを感知できるという。蝶と蛾の見分け方の一つに触角の構造の違いがある。蝶はこん棒状、蛾は羽毛状でとくにオスの発達が著しい。ヤママユガが遠方のメスを感知するためにはあの立派な触角が必要なのだ。いまでは触角の微細な構造やフェロモン分子の生化学的な挙動など驚くべきことが数々発見されている。

触角

話の流れからいうと、蛾の触角か鱗粉かの画像を持ってこなければならないところだが、ユスリカの写真になってしまった。私のささやかな庭には蛾がほとんどいない。灯火に飛来するものも極めて少ない。ゆいいつ買い置きの米からメイガが大量に発生するのが自慢だ。そういう言い訳はおいといても、この触角は十分尊敬に値すると思う。体長わずか2センチほどの小さな虫にこれほど美しく繊細な触角ができたのはただの酔狂ではあるまい。

メスの性フェロモンについて理解できても、それだけではまだ半分だ。昆虫だってオスがメスを口説くには人間の男と同程度の技術がいる。メス虫に何かがえらい剣幕で近づいてきたならば、10のうち9までは敵である。それらはたいていメスを食らいにきた捕食者なのだ。メスはとりあえず逃げなければならない。逃げるメスをオスは追わなければならない。追いかけながら敵意がないこと、愛されるべき存在であることをアピールしなければならない。その辺の段取りは人間といっしょである。メスはそういうオスのセックスアピールを正しく認識して受け入れ態勢を整えて行かなければならない。そこも人間といっしょである。

蛾のメスが最強の媚薬でもってオスを呼び寄せた。オスはすっかりその気でやってきた。そこまではよいとして、その後、夜の闇の中でどうやってメスは近づいてきたものがコウモリやネズミや猿やムカデでなく、愛すべき彼氏であることを知るのだろう。いまだかつて何がオスなのかを見たことも聞いたこともないメスをその気にさせるにはオスはどういう手段をとれるのだろう。

オスがはばたくことで自分のフェロモンをメスに浴びせることができるのなら、良い効果を期待できるだろう。闇夜の森ではきれいな翅も相手に見えず歌を歌おうにも口がない。メスがフェロモンで自分を呼ぶのならフェロモンで応えるのが自然だ。はばたく翅の鱗粉に臭いを仕込んでおけば、メスに近づけば近づくほどメスも欲情するだろう。鱗粉の誕生に積極的な意味を見出そうとすれば、こういうことしか思いつかない。

ならば、鱗翅目はもともと蛾、つまり夜行性の昆虫だったのだろうか。蛾の方が圧倒的に種類が多く数も多く生活史も波瀾万丈だから、単純に考えるならば蝶は蛾の一種にすぎない。勇猛果敢に昼の世界に飛び出したまでは良かったが、1億年後には鳥類の総攻撃を受け、絶滅の危機にひんしながらも一部が鳥の攻撃をやり過ごす術を身につけ現在に至っている。このように素直に考えて良いものだろうか。

蛾の種類の多さは夜行性ということと無縁ではないと思う。蛾が自分のこと恋人のことを臭いで識別するならば、それはかなり厳密なものになりそうだ。臭いの正体は空中を漂う分子だ。分子の構造はほんのちょっと変わっても性質がぜんぜん別物になってしまうことがある。「あいつはちょっとくさいからやだ」という程度のことで、がまんしてヤレば元気な子ができるのに男女が敬遠しあってしまうことになりかねない。また、メスが空中にふりまく臭いがその存在の便りなら、繁殖地の地形や気象の影響で出会いが偏りそうだ。そんなところから、種群が分断されて蛾の種類はごまんとできたのだろう。

「蛾の種類は多いから、蝶は蛾の一種だろう」という考えはあまり気分の良いものではない。華やかで機敏な蝶は陰気なものばかりの蛾よりも進歩しているように見えるから、新しい虫のように見えるかもしれないけれど、そういう感覚もまゆつばだ。ベーシックな生き様では蝶と蛾には差がない。むしろ蝶のほうがプリミティブ感があるくらいだ。

宵闇に生きる蛾にくらべると、昼の明るい世界で生きる蝶は分化しにくいと思う。翅の色模様、動きで異性を確認するならば、許容範囲が広いと思われるからだ。鱗粉の模様のできかたはデリケートなものらしく、変化も多い。幼虫時の温度や日照などの影響か、同種でも季節や地域でずいぶん模様が違うものがいる。視覚上のサムシングXを第一のサインとしている彼らには人間にわかるような模様の違いがあっても戸惑いはないのだろう。人間ならば、スッチーもナースも婦警もいっぱつで女だとわかるようなものか。姿は目から入ってくる刺激だから、一度心のフィルターを通すことになる。そのぶん、表現的な揺れは吸収されて分化も小さくなると思う。

夜の世界にうごめき、性フェロモンで心が動く蛾はより分化しやすいのではないだろうか。フェロモンは、いわば外からホルモンが入ってくるようなもので直接的だ。化学反応がそのまま男女の相性を決めてしまう。環境的な圧力がなくても、内面の化学物質の変化で種が分かれることになるだろう。虫とはいえ性交の段階は単純ではないはずだけど、肝心の出会いの所で分かれるのだ。もしかしたら、鳥類の目をのがれ夜の世界に新天地を求めた一握りの蝶が、闇に適応しつつ蛾という多彩で巨大なグループを形成したのかもしれない。

今のところ、蛾と蝶とどちらが先かという件の判定にはよい手がかりが得られていない。鱗翅目が誕生したとき、鱗粉の役割が匂い袋であり、昼間の世界に進出するにあたって臭いの機能が退化し、光を利用するように色鮮やかになったと考えることもができる。一方で、鱗翅目が誕生したとき、鱗粉の役割は明るい日の下で性差をはっきりさせることにあり、やがて夜の世界に進出するにあたって臭い袋を手に入れたと考えることができる。さらに、鱗翅目が誕生したとき、鱗粉は匂い袋でもあり色彩でもあった。その両者が別々の道を歩んで蛾と蝶になったとも言えるのだ。

鱗翅目という昆虫界の巨大なグループがどう生まれてどうやって発展してきたのかということは手強い謎だ。その謎もいつか解かれることだろう。願わくばその日に立ち会い「ああそうでしょう、前からそうじゃないかと思ってましたよ」などとしたり顔をしたいものだ。


カタバミ  テトラ  ナゾノクサ
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