ハナグモの擬態


アズチグモ

アズチグモらしいクモが、菊の花(たぶんユリオプス)にいた。この体でこの花で待機するのは合理的である。この花にはシジミチョウやアブがけっこうやってくる。花の色や形はクモの身を隠すのに好適である。その合理性をどうやって手に入れたのか?


ハナグモ

オオアレチノギクの花に止まっているクモ。おそらくハナグモと呼ばれているものの一種だ。じつは、数日にわたってクモがいることに気づかず、オオアレチノギクを撮っていた。写真を見ていると、この種のクモが頻繁に写り込んでいることに気がついた。偶然ではない頻度だ。この姿勢では花を訪れる虫を反転して捕まえる必要があるのだから、なんらかの不自然な力がクモの意識に働かないとこうはならないだろう。


赤まんまのクモ2

花はアカマンマ、その花穂の最下にクモがしがみついていた。ハナグモの一種と思われる。アカマンマは地味な花だが、これでけっこう虫が寄る。毎朝、「今日は何がいるかな」と注意していると、このクモに気がついた。この体勢ならばクモはアカマンマのつぼみの1つに見える。このクモは2週間ほどもこの状態を維持していた。


ハナグモ

庭のヒナタイノコズチにクモがいた。ヒナタイノコズチの花は地味だがよい蜜が出るらしく各種の虫がやって来る。このクモがこの花にこの姿勢で待つのは理にかなっている。いかにも「擬態しています!」という表情がなんともユーモラスであるけれど、クモにしてみれば大まじめでこういうポーズをとっているのにちがいない。


これらの意味するところは人間的には簡単に説明できる。「花には獲物がけっこう寄ってくるし、私のこの体でこうしてしがみついておれば、獲物もまさかクモが潜んでいようとは思うまい。それに天敵のトカゲや鳥の目からも逃れられる。一石三鳥」ということになる。それは結果から見れば間違いではないだろう。しかし、それですましていてはクモの気持ちをちっとも理解できないことになる。

このクモは絶対にそんなことは考えていないのだ。このはかない生き物は花に虫が来ることを知ることができるのか。こいつはトカゲや鳥などの天敵を認識できるのか。うまく自分の体を隠せていることを判断できるのか。そうした一切合切のことが無理に思える。因果も目的も考えない虫たちなのに、その行動が極めて合理的な結果をもたらしている。ここに不自然であるけど自然な自然界に入っていく扉がある。

ハナグモが隠蔽擬態をやっていることは明らかである。天敵の一種である私がうまいことやってるなと感じることがそのことを保証する。人間に対して効果的なら、同じく視覚的ハンターである鳥やトカゲ(私の庭ではカナヘビやカマキリ)にも効果があるだろう。その一方で、チョウやアブなどの餌食に対して効果的かどうかは疑問が残る。クモがいることに気づかず虫が花にやってきてまんまと捕まるようなことがあるのか、一歩進んで、クモを花の蜜標とかんちがいしたチョウやアブが能動的にクモに近づくようなことがあるのか。私が観察するかぎりでは、チョウやアブがクモに気づいているようには見えない。それが隠蔽擬態のせいなのか、そもそもハナグモが敵だと知らないのか。そこに一考の余地があるけれども、餌食に対しての効果はあってもなくてもよさそうである。

いずれにしてもハナグモは自分が擬態していることを知らなくてかまわないし、おそらく知らない。知らなければならないのは、自分がいる場所が花だということだ。チョウやアブが花にひかれるのと同じように、花を意識する必要がある。花にいれば葉で待つよりも格段に稼ぎがよくなるはずだ。それは私にも経験がある。

アオスジアゲハなんて捕虫網をもって追いかけまわしてもまず捕まらない。アオスジアゲハが欲しければ午前10時にヤブガラシで待つことだ。ヤブガラシを訪れるアオスジアゲハは捕虫網を持った少年に無頓着だ。息を殺して機会をうかがい最初の一振りで仕留めればよい。熟練の虫取り少年には可能だ。少年の敵は用事を言いつけようとしている母親である。夏休みの炎天下、花のかたわらで息を殺してアオスジアゲハを待っているとき、母親に見つからないことが唯一の必要条件になる。カナヘビの目に怯えつつ、花に来るヤマトシジミを待つハナグモの境遇が私にはよくわかる。

ハナグモは花やつぼみによく似ている。その擬態は待ち伏せ戦略をとることから生じた。隠蔽擬態は天敵の選択淘汰によって発達する。ハエトリグモやハシリグモみたいに動き回る虫にはめざましい擬態は発達しない。ある場所に固執するからこそ、そこに似てくる。似れば似るほど鳥、トカゲの目をくらますことができるようになる。ひとたびその方向に進めば後戻りは難しいかもしれない。いま現在、ハナグモが見事な擬態を見せていることは、無数のハナグモが鳥やトカゲに食べられ続けたことを示している。そして、食べられてもなお花で待機する戦略が有効だったという証明だ。私はアオスジアゲハがヤブガラシに来ることを経験して知った。文化的に書物などを通して学んだ。ハナグモは経験も学習もなく本能で花を知り花で待っている。

赤まんまのクモ3

花に執着するためには2つの能力が必須である。1つは、その場所が花であることを認識できること。人間ならば、オオアレチノギクもヒメジョオンもサルビアもアカマンマもその花は「花」だとわかる。ハナグモも自分が待機すべき場所の特徴はわかっているはずだ。正確なところは実験するなりしてクモに聞いてみるほかはないけれど、花は植物体の先端にあって放射状、回転対称など不自然な幾何学パターンをもっている。黄色、白、赤など鮮やかで目立つ。紫外線下で浮かぶ蜜標がある・・・というような特徴がある。もしかしたらハナグモは蜜の匂いも感知できるかもしれない。そして花がわかるだけではいけない。自らの姿勢を整えなければ写真のような状況にはならない。花の形状に応じて頭の方向を決め、脚の伸ばし方を工夫しているはずだ。

2つめの条件は、その場所にしがみつくこと自体が人生の目的になっていること。気にめした場所が確保できれば、花が枯れたりして状況が変わるまではそこに居続けること。いっぱんにクモ類の辛抱強さ絶食に耐える力は驚嘆に値する。人生の目的は虫を捕まえることではなく、花に居続けること。虫媒花には虫が来るという法則はまったく知る必要がない。虫が来ればはっと気づいて虫を捕まえればよい。「ここはどこ?」「私はだれ?」なんて自問は無用だ。

虫媒花は中生代に誕生したらしい。恐竜の天下であり、まさに鳥類が昆虫を追って空に羽ばたこうとしている時代だ。虫媒花はおそらく風媒花から進化したものだと思う。風媒という方法はいまでも盛んだ。杉は風媒花、イネも風媒花、花粉症を起こす植物は風媒花だ。杉のように抜きん出た巨木や風吹き渡る茫漠とした乾燥地を埋めるイネ科のような植物は風媒が向いているのかもしれない。しかし、数千種の植物がひしめく熱帯雨林ではそうもいかない。熱帯雨林の中は風が吹かず雨が多い。同種は百メートルも離れた所に立っている。ありあまる水と光があり、植物にとってありとあらゆる生き方が保証されている自由な大地、花粉の受け渡しさえうまく行けば非力な植物でもうまくやっていかれる、そういう環境で虫媒という戦略が進化したはずだ。

植物にとって蜜を作るのは造作もない。光合成でじゃかすか糖を作る。それを呼吸の原料にしたり澱粉にして貯蔵したりセルロースにして植物体を作ったりしている。糖は植物体の中をぐるぐる回っている。糖をちょっと加工して染み出させれば蜜の完成だ。

やがて虫の餌になる花蜜はめしべの柱頭にあたる部分のネバネバが元祖だと思う。めしべに花粉をつけるには粘液があったほうが都合がいい。花粉のつく粘液は花粉や種子という繊細なものを製造する過程で生じる廃棄物の再利用かもしれない。非力な風媒花は蜜を分泌してせいぜい受粉の効率を高めていた。昆虫に与えるつもりはなく受粉の便で蜜を分泌していた。その花蜜に昆虫類が目をつける。高エネルギー食の蜜にひかれて花から花へと飛び回る。蜜の中には花粉が入っており近くにはおしべもある。昆虫の採餌行動は受粉を促進させ共進化への道を開くことになる。餌のすべてを花蜜にたよる虫が増えれば、それらを目当てに花で待機する捕食者も進化してくる。

虫が集まる花には虫を狙う鳥やトカゲも集まる。鳥やトカゲはクモも食べる。花を利用するクモは虫がたくさん食べられるけれどトカゲや鳥に狙われるというアポリアに直面することになる。クモにとってはなかなか難しい状況に見えるが、そこには食物連鎖のエアーポケットがある。その空隙がクモ類の中からハナグモが進化する余地になった。

花を訪れる昆虫はせわしない。数秒蜜を吸っては次の花に移るということを繰り返す。昆虫を狙うほうもそういうもんだと思い込んでいる。鳥やトカゲは視覚的捕食者で、素早く動く虫をイメージして花を訪れるから、じっと動かずにいれば見逃される率が高い。もともと動かないことが得意なクモは、その一芸を極めていけばよかったのである。

クモは多才である。糸を使うという比類ない技がある。糸を使って卵を保護し、糸を編んで住処を作り、糸を張って罠をしかける。獲物にしている虫だって一筋縄ではいかず、飛んだり跳ねたり走ったりするから、それに応じてハンティングの技も多種多彩だ。ハナグモはそんな才能豊かなクモ類のなかでただじっと待って襲うという無芸無策に見える技を極めた。無芸は無芸なりに花との呼吸がぴったり合う必要がある。

ハナグモの隠蔽擬態にはある種の目的意識を感じる。明日は花になろうという意思が強く働かないと写真のような見事な隠蔽はできないはずだ。いうまでもなく、ハナグモは隠れようと思っていない。食べられたくないとすら思っていない。花に似ていればトカゲに食べられないですむというのは人間的なあまりに人間的な安直発想である。花になろうと思わずして花になる意思をもっていると考えなければならない。

ハナグモは花を、おそらくシンボリックに、知って花に止まる。ただ止まるだけでなくできうる限り自分を花に似せようとしている。体の色模様に合う花とその姿勢。効果的な脚の伸ばし方にたたみ方。それらを十全に工夫している。彼らの目は360°にわたって自分の体と周囲を見渡せる。腹や脚と花弁、萼など花の容姿がなるべく連続的になるように姿勢をただすことは可能だ。むろんそのことがどういう結果を生むのか、ただした姿勢は成功しているのか失敗しているのか、そのような推理はハナグモには無用で、本人にフィードバックされることもない。ただ気のおもむくままに自己満足を追求するのみである。そんな心もちが、隠蔽擬態を作り上げる原動力だと思う。


カタバミ  テトラ  ナゾノクサ
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