コウモリの誕生


コウモリは子どもの頃から親しい動物だ。夕闇がせまると家のまわりをひらひら飛んでいた。捕獲を試みたこともあった。手にとったことも幾度かある。スマトラ島では食用のフルーツバットを買ってペットにした。そのおそろしげな顔に反して手の中にあるコウモリはとても華奢で壊れやすそうだ。骨、皮がとほうもなく細くて薄い。どうしてこんな奇天烈で繊細な動物がこの世に誕生したんだろう?

このテーマはこの10年来手をつけるたび挫折してきた。あの羽はどうやって発達したのか。夜の世界への進出はコウモリがコウモリになる前からなのか。音を懐中電灯のように使って回りを見る技を身につけたのは、飛ぶより先なのか後なのか。それらの一切合切がとりつく島がないというか、インスピレーションが湧いてこない。角度を変え手がかりを探ろうとしても指先は虚しく滑る。

私は大進化を環境のせいにしたくない。環境への適応とすればなんでも説明できてしまう。それは嘘ではないし(きっと)本当でもない。少なくとも意味がないことだけははっきりしている。そういう思考態度を取る学者を内心馬鹿にしてきた。しかしどうしてもコウモリに限っては「環境への適応」と宣言しなければ考えを進めることができなかった。

環境への適応とは言っても、さすがに夜空への適応とするほどの馬鹿ではない。たしかに新生代がはじまった頃の夜には蛾がぶんぶん飛んでいたろう。夜に飛び回って蛾を食えればいいに決まっている。鳥は夜には眠っているからライバルもいない。羽と超音波探知で夜空の覇者になれるはずだ。実際それをやったのがコウモリであるという説明は屁理屈でしかないのだ。

いまでもある環境でコウモリが誕生できるか? 可能ならばどんな所なのか? というようにしばらく考えていた。たとえば森林であればどういう樹木がどれほど育って、コウモリの餌になる虫がどれほどいて、コウモリの捕食者にどんなものがいて―――と妄想たくましくしてもピンと来るようなアイデアは浮かばなかった。森林であれ砂漠であれ高山であれ、そこにコウモリが生まれる必然性がない。前コウモリがコウモリになる素質十分であったとしてもその才能が爆発的に開花する場所があると信じられないのだ。

結局私にはコウモリが洞窟で誕生したと結論づけるしか手がなかった。中生代終焉の天変地異で陸上の大型動物は死滅した。そのとき哺乳類はみな小型で、現在の夜行性齧歯類のような穴蔵生活をやっていたらしい。そんな地獄を生き延びた哺乳類ならば自然に洞窟に適応できるだろう。ただし今の地球上にある洞窟ではだめだ。とにかく洞窟は窮屈だ。暗く陰気で狭く生命感に乏しいから。コウモリが生まれた洞窟は東京都ぐらいの面積があって、虫なんかがぶんぶん飛んでがさごそ這いまわっていなければならない。それこそ全生物のふるさとである海のような感じだ。

私はその洞窟が深海に似ていた―――と比喩ばかりでなく思いたい。深海は光合成に依存しない生態系である。食べ物が上から降ってくる。海底には有機物が溜まっていくし海中で有機物を拾い食いすることができる。コウモリ洞窟も、どういう加減か、光合成に依存しなくてもよい生態系があったのだ。大元は光合成であってもよいけれど、有機物がどんどん洞窟の奥まで深く厚く入っていくような巨大な洞窟が100万年にわたって存在していたことにしないと考えをはじめられなかった。

ひとたび特殊な洞窟環境というものを仮定すればあとは簡単だ。コウモリのよく知られた姿は洞窟の天井に逆さまにぶら下がっているものだ。もともとそういうのが得意な哺乳類ならば、羽を持って夜空に飛び立つに至る経緯を想像できる。

いまの地球では洞窟の天井を利用できるような哺乳類は少ない。足場として悪いからだ。猿やリスは樹木をするすると歩き回れる。崖だってらくらく登っていく。ただ洞窟の天井のような岩場ではヤモリのように吸盤みたいな張り付く足を持たねばならない。節足動物の虫は爪でも可だ。数多い足と爪と軽量な体があれば岩の天井を歩くことも造作ない。たとえばゲジゲジは少年であった私たちの探検ポイントである素掘りの防空壕にたくさんいた。天井にもいて、いきなり目の前に現れぎょっとさせられたものだ。

私が仮定するコウモリ洞窟は「豊か」である。暗闇なのに有機物豊富でゲジゲジっぽいのや蛾っぽいのやヤモリっぽいのがうじゃうじゃ生息している。哺乳類ではネズミ、モグラっぽいものがいるけれど、天井を動き回れる哺乳類は前コウモリだけだった。

前コウモリが天井を這うことができたのは、哺乳類の弱点である4本足を克服していたからだ。4本足で天井を走ろうとすると体の軸がぶれる。最低でも3点で支持しなければ体の重心の軌跡は大きく波打つのだ。前コウモリも哺乳類で立派な4足歩行動物であったが、手足の指を伸ばすことで4足の弱点を克服していた。先に鋭い爪がある指を伸ばせば立派に20本足の哺乳類ができあがる。前コウモリは指の骨を細く長くし体を徹底的に平たく軽量化したゲジゲジのような姿の哺乳類だったのだ。

現在のコウモリの膝が逆に曲がっているのは前コウモリ時代の名残だと考えられる。岩壁を自在にすばやく動き回るには節足動物タイプの関節のほうが合理的だ。ボルダリングをする人は気づいているかもしれないが、我々のような膝は蹴って走るには良いけれど、体を支えて岩壁を登り下りするには不向きなのだ。洞窟生活者の後ろ足の脚は逆に曲がっているほうがよい。とりわけ天井を使いこなすには必須と言えよう。

禅者はよく「悟っても肘は外に曲がらぬ」などという。悟りは所詮一代限りの獲得形質で遺伝的な蓄積はないという諦念ととれる発言だ。ともあれ、前コウモリは脚の曲げ方すらも変えて、ゲジゲジ哺乳類として洞窟生態系の主役となったのだ。

機能面での大きな進化に反響定位の獲得がある。音で世界を見ることは動物界では珍しくないと思う。水中であれば光を頼りに目で見るよりも、音を頼ったほうが世界ははっきり見えるだろう。音で見ることは想像に難い。それは単に我々が音波を視覚信号として利用できないからだ。水の中の動物にとっては光に頼るほうがずっと危ういことに違いない。海であれば200mも潜れば暗黒なのだ。浅くても水の透明度は不安定である。

音で見ることに長けていれば、懐中電灯で闇を照らすように自ら音声を発して周囲を見ることも難しくない。鯨類は水中でその技を極めているというし、魚類でもそれをやっているやつは多いだろう。あいにくどの魚がそうだということは知らないけれど。

洞窟は水中に並んで反響定位に絶好の環境である。洞窟は暗くて光が使えない。静かである。壁が近くこだまがよく返ってくる。

反響定位は洞窟内を歩き回って他の生き物を食い漁るハンターに必須のテクに違いない。ドップラー効果が使えるのも有利だ。動いている物は赤や青に見え、動きも距離感もつかみやすい。音の伝達速度は地球の動物の生活感にマッチしているのだ。光を視覚とする動物でドップラー効果を使えるのはUFOで恒星間飛行をしている宇宙人ぐらいのものだろう。

洞窟で反響定位を身につけるには飛行は必須ではない。前コウモリがゲジゲジのように歩きまわっているとき、すでにその技は完成していたことだろう。逆に考えて、もしコウモリが洞窟外で進化したというのなら反響定位を極めるに至った経緯が想像できない。複雑に入り組んで、騒々しくて、夜ですらけっこう明るくて、様々な敵も獲物もひしめく森林のような環境でどうやって反響定位の技が極められるというのだろう。

さて、洞窟を自由自在に歩ける体は手に入れた。小型軽量で手足の長い体を持ち、耳がよく聞こえ、超音波の声を反響させて周囲を見る脳も手に入れた。

そこから今のコウモリに至るのは簡単なようでもあり、無理のようでもある。簡単というのは、長い手と指に膜を張って腹とつなげるだけでグライダーになれるからだ。

私は前コウモリの洞窟を途方もなく豊かだと仮定している。虫は岩壁をごそごそ這い、昆虫類は洞窟内をぶんぶん飛んでいた。あるときには水中からカゲロウのようなものが羽化してきて、雪のように舞い飛んで降り積もることもあったろう。虫がいれば虫を食うものもいて、トカゲなんかもいたろう。前コウモリを捕食する者もいたに違いない。

そういう環境であれば、グライダーとして天井から飛び降りるだけで相当有利にちがいない。洞窟は風が吹かず、初心者のグライダーパイロットでも飛行着地が容易だ。飛んでいれば安全と思いこんでいる虫はいきなり空中で襲われることになる。捕食者にとっては獲物が突然目前から消え失せて闇の中に消えるのだ。洞窟は環境は整っているのだから、コウモリに皮膜を作る才能があったかどうかだけのことである。

コウモリは単系統らしい。きっと才能に恵まれたたった一種類の前コウモリがいたのだろう。皮膜を持って滑空する哺乳類は枚挙にいとまがない。ムササビもモモンガもヒヨケザルもいる。皮膜の形成は哺乳類に多発的に起きることであれば前コウモリにその進化が起きたとするのは可だろう。もしコウモリ洞窟が100万年間も存続したのなら、前コウモリの仲間は1000種類に分化したはずである。その中の一種がグライダーになったのだ。

そしてグライダーとしての一歩を踏み出したならば、軽量な体と風のない環境を利用して羽ばたきはじめるだろう。

コウモリ洞窟の覇者の誕生だ。コウモリは夜空に飛び出すこともできる。そこは魅力的なフロンティアである。強力なライバルであるはずの鳥は夜にはおとなしくしている。鳥の目を逃れて宵闇に活路を求めた蛾なんかの昆虫がぱたぱた飛んでいる。新生代の夜の森はまさしくコウモリを迎え入れるために準備された世界だった。

こうした夢のような物語もコウモリ洞窟あっての物種だ。東京都ぐらいの面積の大洞窟があったのだろうか。まずそれはどのようにできたものか。

中生代を終わらせたのは、今でいうユカタン半島あたりに落下した小惑星らしい。6500万年前の天変地異は地上の世界を一変させた。コウモリ洞窟を作ったのもその天変地異だろうか。

つぎに私はその洞窟が深海に比喩されるような豊かさがあったと仮定している。有機物がどっかから降って湧くのだ。そんぐらいでないとコウモリは進化できないだろう。海か川の流れだろうか。岩壁から有機物が染み出すのだろうか。現代では、逆にコウモリが運び入れる有機物を起点とする洞窟生態系もあるらしい。当時、そのコウモリの役をこなす動物がいたのだろうか。

じゃあいまその洞窟はどこにあるんだ?というのは当然の疑問だ。コウモリが空を飛び始めたのはせいぜい5000万年ぐらい前のことだろう。飛翔力はそれほど高くないことと合わせれば、遺伝子を調べることでルーツを追えるかもしれない。コウモリが地球上の1点で誕生したというのはまず確かだろうから、5000万年前に原初のコウモリが生息していたところが手がかりになる。コウモリの進化の足跡はそこにすっかりその洞窟に収められている。それでも洞窟が見つからなければ「どっかの海の底に沈んでるのさ(笑)」と逃げてしまおう。本当にコウモリ洞窟があって、住人たちが化石になって、それが見つかった暁には・・・という夢ぐらいは見てもいいじゃないか。にんげんだもの。


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