卵子の記憶


さて、モナーク(和名:オオカバマダラ)というか弱い蝶は何を指針としてカナダからメキシコの山まで4000キロもの距離を飛んでいるのか、その仕掛けを解くための作業仮説をたててみよう。

まずモナークの生態のおさらい。メキシコの山で越冬に成功したモナークは春に飛び立って、北アメリカ全土に広がりながら北上していく。最終的には五大湖のほとりに達するグループもでてくる。その間に数回の世代交代を遂げる。そして夏の終わりに生れる個体は一気に南下してメキシコのある一点に集結して越冬することになる。以降、繰り返し。

モナークの渡りは見かけ上はサケやウナギよりも複雑である。サケやウナギは一個体が長距離旅行を遂げるのにたいして、モナークの渡りは数世代をかけた北アメリカ往復である。しかし、このことがかえって探求をやさしくしていると思う。個体の記憶というやっかいなものを考慮する必要がないからだ。

もう少し詳しく説明すると、モナークは自分のたどる道を全く意識していないにもかかわらず、メキシコのある地点にピンポイントに到達できることになる。彼らの体の器官レベルでは方向も距離も記憶されていないはずだ。器官というのは細胞が集まることで特定の機能をはたしている骨肉のひとかたまりだ。地図を記憶する器官といえばその代表は脳だろう。サケやウナギならば「もしかしたら彼らの脳には若かりし頃にたどってきたコースが記憶されているかもしれない」などと疑わねばならない。魚と話ができる人間はいない。もし、脳の中にある記憶を客観的に明らめようとすると研究は絶望的にややこしくなる。

モナークがもし自分の到達すべき場所の地図をもっているとすれば、それは卵細胞で伝達できるものでなくてはならない。最近話題のDNAの暗号のような微小で単純な物で伝えられねばならない。むろんDNAがその役をになうというのは誤りだろう。春から夏のモナークがどう飛んだか、どれほどメキシコの越冬地から離れたか、などという記憶は完全に個体のオリジナルなものだ。遺伝学では、獲得形質は親から子に伝わらないとされている。ましてや記憶のような無形のものが世代を経て伝わることはないだろう。

卵細胞のレベルでそうした地図を運ぶことは可能なんだろうか。私はできると思うし、じっさいにモナークはやっていると思う。

人間は可視光をうまくとらえることができる。そのために目という器官を発達させている。いっぽう磁気のほうはうまくとらえることができない。地磁気なんかはあるやらないやらさっぱりわからない。磁気をとらえる器官がないからだ。モナークに磁気を関知したり、記録したりする器官があるならいまの機械をもってすれば見つけることができるだろう。でも、きっとないと思う。あるのは器官ではなく細胞の中にある分子レベルの微小体だ。モナークがもし地磁気を細胞の中にうまく記録しているなら、驚異の大移動が可能になる。方位磁石は敏感に地磁気を関知するように、細胞の中の磁化された鉄は器官を通さずダイレクトに地球上の位置をとらえられないだろうか。絶対的な位置ではなく、相対的に北に何キロ、西に何キロというのでもよい。

私はモナークの細胞の中に鉄を含む分子のヒモがクモの巣状にでき上がっていて、それがモナークの移動に応じてゆがむ様子を想像している。オンタリオ湖のほとりのモナークは、日が短くなったことを関知すると、そわそわし、南に向かう衝動にとらわれる。なぜ、南に向かうのか、行く先に何があるのか、それはわからない。ただ、ある方向に飛ぶと気持ちが良いのだ。解放感と自分の存在する意味と快感が見事に一致するのだ。それは、母親から引き継いだ磁気的なクモの巣のゆがみを戻す方向なのだ。

以上は科学的な根拠のない空想にすぎない。しかし、モナークのDNAや脳をむなしく探求するよりも卵細胞の中のクモの巣を探すほうが、ずっと勝ち負けが容易で面白いと思う。


カタバミ  テトラ  ナゾノクサ
たまたま見聞録→