ヘビとカエル


どうしてカエルはヘビが天敵だと知っているのだろう。どうしてヘビはカエルを食べ物だと知っているのだろう。この程度の疑問であれば、おそらく人類は私が納得できる解答を見つけることができるだろうと思う。残念ながら、私はその解答を知らない。まだ発明されていないのかもしれないし、私が知らないだけかもしれない。

私がアマガエルをヒバカリに会わせてみたところ、両者は特異な反応を示した。カエルはパニックに陥り全力でヘビから遠ざかろうとする。ヘビは目の色を変えてカエルにねらいを定めている。カエルの反応は、何か危なそうなものから逃げるという程度のものではなかった。野外で捕獲しようとしたり、飼育ケースの中に手を入れたりするときの行動とは明らかにレベルが違う。100倍は強力なはずの私の手足より鉛筆サイズのヘビのほうをより恐れているのだ。

気の毒な私のアマガエルはヘビを見たことがなかったと思う。上陸してから1週間ほどの若者でもあり、ヘビが襲ってくるものだという経験はないはずだ。それなのに、細長い体につぶらな目をしたヘビの恐ろしさを知っているから不思議だ。

どうしたってカエルの中にはヘビのイメージが巣くっていると思わざるを得ない。そのイメージは、いざヘビの実物を目の当たりにしたときに「この顔にピン来たら逃げましょう!」という指名手配書の役割を果たすのだ。むろんカエル自身には、そうした過程は一切意識されない。心の中にあるイメージもおそらく見ることはできないだろう。ヘビを見たら体は逆方向にピョンと跳ね、心はどきどきするという反射ができあがっておればよいのだ。

それでよいのだとしても、ではなぜ一度も見たことのないヘビのイメージを持てるのか、という疑問がわく。オタマジャクシは、彼の意志や経験にかかわらず、自動的に足がにょきにょき伸びてきて、尻尾が縮み、手がにょきにょき生えてくる。骨と肉と神経でできている体がそうやって発生するのであれば、ヘビのイメージも無の状態から形成されると考えればよい。

ヘビの子は卵から出ると同時に自分でエサを探さなければならない。何を食べるべきなのかを教わることがない。ヘビは「こいつは要チェック!」というカエルの人相書き付き手配書を持っているのだ。

私が拾ってきたヒバカリは主に3つの獲物を食べた。カエル、ミミズ、金魚。それぞれ異なる獲物だから、それぞれに対応する手配書があるのだろう。その中で気になるのは金魚だ。ヤツの生息環境には魚がいなかった。小川も沼もない貧相な水世界で、田んぼにはフナやメダカはおろかドジョウすらいない所で生きていた。水の中で捕れるものはオタマジャクシだけだったはずだ。それでも、オタマジャクシとはかなり異なる色と動きの金魚に対してなんの躊躇もなくアタックしたのだ。

地球上の全てのヒバカリはその3タイプ(カエル・ミミズ・オタマと魚)の獲物の手配書を持っていると確信している。そして、生まれてこの方、見たことがない動物でも手配書に合致すれば、獲物だと気付くことができるのだ。その手配書の人相書きはどのようなものか。想像するに、無色だとは思う。動きもインプットされているような気がする。テクスチャはあるのだろうか。子どもが粘土細工で作るような、カエルやオタマジャクシのようなものだろうか。針金細工のようにフレームだけだろうか。もしかして、最近脳科学と称してテレビでやってるような、ドットの集合で描かれているものかもしれない。いずれにしても、外の世界で獲物を見つけたときに「あっこれ!」という反応を起こす元になるイメージを持っているはずだ。

ヘビの中にあるイメージは実験で探ることができるだろう。若いヒバカリにシンプルなカエルホログラムを見せる。CGで作った針金細工状のカエルに反応を示せば、ヘビが生まれ持っているカエルのイメージには面が必要ないという推理ができる。

ヘビの持つ手配書は加筆可能なものだろう。1匹2匹とカエルを仕留めるうちに、新しくカエルのイメージを持つだろう。われわれもやっている記憶学習のレベルだ。仕留めたカエルの色彩や動き生息場所などの記憶は探知力アップにつながるはずだ。ヒトだってカエル捕りはどんどん上達するものだ。きっとヘビにも同じことがあるにちがいない。

ただし、元々の手配書が経験によって失われるとは思わない。カエルとミミズと魚と、3種類の手配書を持って生まれたヒバカリでも、たまたまその生息地にはミミズしかいないかもしれない。使われなくともカエルや魚の手配書を消す必要はない。魚のいない場所で育ったヒバカリもすみやかに金魚を食った。手配書と獲物の記憶は、きっと格納されている領域が違っている。ヒトであれば記憶の領域にあるものは、意識して思い出すことができる。ヘビはどうだろうか。

記憶の像は個々の経験に応じて作られ、より使いやすいように変えられる。ヘビの行動範囲には、少数の種類のカエルしか生息していないだろうが、環境の中でカエルの見え方も変わるはずだ。カエルはカムフラージュの名手でもある。アマガエルだって、一つの個体が、白、黒、緑、茶色、それらのまだら模様に色を変える。カエルは緑だと思いこんでいるようでは茶色いアマガエルを見過ごすかもしれない。経験にあわせて柔軟に探索イメージは変わるのが自然だ。一方、手配書の像は一個体の生涯においてきっと変化しない。体の外見が変化しないのと同じレベルで不変だと思う。

ヘビがもっている、アプリオリな手配写真とアポステリオリな記憶像の2つのイメージの関係には解かねばならず解けるかもしれないいくつかの謎が含まれている。問題のややこしさが表面化したものの一例として被捕食者の擬態がある。中南米にはヤドクガエルと一括される毒ガエルがいる。皮膚に強い毒を持つというから、捕食者であるヘビや鳥にはやっかいなカエルだろう。私はコロンビアの山中でいくつか見かけたことがある。模様の毒々しさ以外はトコトコ歩きピョンピョン跳ねる普通のカエルだった。ヤドクガエルの模様は無数といってよいバリエーションがあるようだ。しかし皆なんとなくよく似ていて、1匹見れば全部がわかる。ミュラー型なりベーツ型なりの擬態関係になっていると思う。その正しさは視覚的捕食者であるヒトの私がそう感じることで保証される。ヤドクガエルの毒々しさは、カエルの身体能力と捕食者であるヘビの目の協調の賜だ。いくらヤドクガエルたちが創造性を発揮してサイケデリックに体を飾っても、鳥やヘビがそいつらをやばいと感じて見逃さなければ擬態は生まれない。

ヤドクガエルの擬態の成因はおそらく解けない謎だ。それがいつごろどのようにして成立したのかを語る証拠は永遠に失われているように思う。ただし、どんな力関係が働きどのような過程でできあがったのかを計算することは難しくはない。この世界には事実は不明でも数学的な問題に落とせば解決可能になることは星の数ほどある。

さて、ヤドクガエルの模様は手配写真としてヘビの間に出回っているのだろうか。

擬態者であるヤドクガエル群とそれを忌避するヘビという関係が一発で生じたことはありえない。その関係はじょじょにできあがったはずである。その過程はいくつか考えられる。まずはヤドクガエルがこの世に誕生する以前に、ヘビが赤黒、黄黒、白黒、青黒の縞やブチからなるいわゆる警戒色を手配書として持っていればどうだろう。この場合は、カエルのなかで芸術性を発揮して警戒色っぽい体を作ったものが生き残ることになる。ヘビにお目こぼしをもらえるグループは大繁栄してヤドクガエルグループが成立するだろう。実力(毒)はともかく見た目の第一印象で勝負だ。

そうした「食べるな危険」という警戒色を手配書に持つためには、ヘビはヤドクガエル以前に同じような模様の被捕食者との関係を地質時代の長きにわたって築かねばならない。たとえばヤドクサンショウウオ、ヤドクトビハゼ、ヤドクキュウセンみたいなものを仮定することになる。それはそれで面白いが無限遡及するだけで掴みどころがなくなる。

上記の仮説はヤドクガエル全体をベーツ型の擬態者とみなしている。事実としては、ヤドクガエル群は本物の毒ガエルだ。ミュラー型の場合、毒が毒として機能することが擬態の肝だ。つまり、一度はヤドクガエルを食おうとして痛い目にあうことが擬態発達の必要条件らしいのだ。

警戒色を学んでいないヘビは、ヤドクガエルに出会ったときに、ぱくっと噛み付く。そしてヤドクガエルの毒に当てられてひどい目にあう。かつて試しにカメムシを口にふくんだことのある私は、その哀れなヘビの気持がちょっとわかる。ヤドクガエルはヘビの一撃で致命傷を負うだろう。相打ちになるヘビもいるかもしれないが、ヘビの多くは生き残る。そして、二度と同じ色目のカエルには手を出さないのだ。自分は死んで仲間を助ける。人間では自己犠牲の死が種の保存にまで功を奏すことはないが、動物には死んで花実が咲くやつがけっこう多い。

ちなみに有毒無毒が混じり合うベーツ型であれば、○○○○●○○●×××××××××・・・・という理由で、ベーツ型が多ければ1匹のヘビが警戒色を学ぶまでに8匹ものヤドクガエルが犠牲になってしまう(当社比)。「○=食べられる無毒ヤドクガエル(ベーツ型) ●犠牲になる有毒ヤドクガエル(ミュラー型) ×=見逃される無毒有毒ヤドクガエル」

この辺は擬態の説明として一般に普及しているものだ。ヤドクガエルのこともうまく説明できると思う。では、ミュラー型の方向でもう一歩考えを進めてみよう。ミュラー型の擬態が成立しているからには、ヘビは少ない経験でヤドクガエル色のパターンを学んでいることになる。つまりヘビは色彩のパターンを学習する能力を生得的に持っているということだ。ある種の模様のカエルを美味しい獲物だと記憶して探索でき、一方では、けばい色合いの縞や斑をもったカエルを忌避できる。経験した模様がカテゴリー化されるときに、経験した感情が付加され条件反射が形成されるのだろう。

学習は世代を越えて伝わらない。進化論には「獲得形質は遺伝しない」というセントラルドグマがある。それに対する反証は見つかっていない。私もそれに逆らうつもりはない。形質といっても、肉体ばかりでなく心にもそれは適用されるはずだ。記憶も条件反射も絶対遺伝しない、と言い聞かせながらヘビとカエルを考えるといろいろ難しい問題が出てくる。

ヘビが生まれながらにして、カエルを獲物だと知っているなら、その条件反射の起源を問わなければならない。

ヘビということで思い出したが、北海道にある動物園のヒグマがヘビを恐れるという事実はよく知られている。ヒグマがアオダイショウごときを恐がるのはこっけいで、テレビ放送されたりする。ヘビなんてどう考えてもヒグマの餌だ。噛み付かれても丈夫な毛皮には牙が通らず痛くも痒くもないはずだ。学習によってヘビを恐れるということはあるまい。

あの行動は動物園のヒグマの文化としても継承されている可能性がある。獣や鳥などは、親に保護されている間に敵を学ぶ。親元を離れた後にも仲間から様々なことを学べるかもしれない。あるヒグマがたまたまヘビがいるときにパニック発作を起こし、その空気が子どもたちに伝染して残っている可能性もある。本能だと思える反射も、じつは文化的な所産に過ぎないということはよくあるのだ。

文化的なものではなくて、ヒグマが本能的にヘビを恐れるのならば、それはそれでたいへん面白い問題になる。現状のヘビとヒグマの関係ならば、ヘビが恐れられる理由はない。どうしたって両者の立場を逆転させなければならない。実際に6500万年ぐらい前には両者の立場は逆転していたと思われる。中生代には、ほ乳類は皆小型で、は虫類や恐竜のほうが羽振りが良かった。今のヘビの祖先はウワバミ、ヒグマの祖先はネズミみたいなものだろう。ネズミグマはウワバミのエサで、カエルとヘビのような関係が1億年にわたって続いたと考えられる。

中生代の終わりには陸上動物で大型のものは死滅した。恐竜が消えた跡の空間はほ乳類が占めていくことになる。ネズミグマは北に生息地を拡大しつつ急速に巨大化して今のヒグマになる。その間、生き残ったウワバミの仲間は赤道付近で細々と命をつないでいた。新生代もたけなわの現代になってようやく地球も温暖化、ヘビもヒグマの生息地にまで生息地を広げることができた。5000万年にわたって絶交していたヒグマはヘビと再会することになる。驚くべきことに、中生代に刻み込まれてたヘビのイメージはヒグマの心中に残っていた。かくて、今だにヒグマはヘビを恐れるのである。というようなお伽話が生まれる。

動物を食べるのはよい生き方とはいえない。食べられることを避けて食べた者が生き残る、という方法は愚かだ。数からいうと、食べられる方が多いに決まっているのだから、地上の楽園は原理的に存在しないことになる。動物はこの世の中で出会うべき者の手配書をご祖先から引き継いでいる。

動物界を見渡してみると、食物連鎖にも漠然と秩序がみられる。Aが食うのはB、Bが食うのはC、Cが食うのはDというように、だいたいきまっている。行動を見ると、食べるにもルールがあるようだ。なぜか動物は自分のサイズとスピードを知っており、大きな影から逃げる。高速で近づいてくるものから離れる。追いかける対象は遅くて小さいもの。というような基本ルールがある。この秩序は何十億年かの間に無秩序の中から生まれてきたのだろう。

生物だってもともとは無機物から合成されたというから、最初の食物連鎖は化学反応だったにちがいない。アミノ酸や核酸から単細胞になり、多細胞生物になっても食べることは最終的には化学反応である。味も臭いも化学反応である。どんな捕食者にとっても、被捕食者はいい臭いのする旨い物に違いない。そうした経緯に思いを馳せるならば、生物の心にはまず味のイメージが有り、次に臭いのイメージが有り、うまいから食べる、いい臭いがするから近づき食べるという行動が発達する。光を感知する目という器官が発達すれば、いい臭いがして食べたらうまい物の姿が見えるようになる。臭いがわからない距離でも、そいつが見えたならば襲えばよい。それをベースに視覚像のイメージが誕生し、より獲物の発見に巧みな捕食者が生き残っていく。虫けらたちが生まれつき持っている手配書はそんなこんなを10億年続けてできあがったはずだ。進化論の文脈ではそうなる。

ヒバカリは姿形の異なる対象を獲物としている。カエル、ミミズ、金魚。コオロギは全く相手にしない。ナメクジもだ。これらの共通項を見るだけでも、どうやって獲物を認識しているのかがわかる。水中の金魚では臭いに頼れないだろう。金魚でも動いてないものは獲物と認識しない。視覚が重要な役割をはたすらしい。カエルと同サイズのコオロギは全く相手にしない。体の上に登ってもピクリとも反応しない。私の目では、カエルとコオロギは似ている。少なくともカエルとミミズよりは似ていると思うから、カエルとミミズは何がしかの特徴で別種の獲物として認識されているのだと思う。そうしたカテゴリーはどうやって成立するのだろう。

ヒバカリはミミズの特徴は読み取れるけど、コオロギの特徴は読み取れない。カナヘビの目には、ミミズの特徴もコオロギの特徴も獲物として読み取れる。でも、金魚は読み取れない。そして私の目には、ヘビもトカゲもひっくるめて、かれら虫けらは「いざとなったら食えるかもしれないけれど、いざとはなりたくないな」という対象として写る。ヒトはおそらく草食基本の雑食系であること、また高い学習能力が本能的にとって変わり、捕食すべき対象を自動的に判定する能力は薄れている。

こうした対応関係は、両者が出会ってはじめて発現するものである。飼育環境では速やかに茶碗の金魚に餌付くから、ヒバカリの心のなかに魚の手配書があるはずだ。しかしながらその辺の山里環境をみれば、一生魚に出会うことがないヒバカリも少なくないと思う。魚の手配書はいつの日か魚に出会うまで交番の掲示板に張り出されたままだ。もしかして、魚を食べたことのないヒバカリが魚の夢を見るようなことがあるのだろうか。食ったらうまそうだけど、思い当たる対象がない。なにやら運命を感じる不思議な生き物。水中をゆらゆら漂う魚を夢に見て、よだれをたらして目が覚めて、はてあれはなんだろうといぶかしがることがあるのだろうか。

ヒトの中にも1億年前の天敵や獲物の手配書が残っているかもしれない。本来は、そのものに出会って心と体が動き宿命に気付くものだけれども、何かの拍子にひょこっと意識に上ってくることもあるはずだ。ヒトは創作力があるから、そうした衝撃的なイメージを絵画彫刻として表すこともあるだろう。龍やリバイアサンの出生地もそこかもしれない。

動物が種ごとに持っているそうした手配書が進化をうながすことになると思う。

種の進化は事実であり化石記録や状況証拠ならいろいろある。孤島や洞穴など、隔離された所では固有種とよばれる独特な種がいる。ガラパゴス島では、一種の小鳥がさまざまなエサに応じて分化し数種の鳥になっていることをダーウィンが見つけている。密林に蜜壺までがやたらと長いランの花があれば、彼の予言通りにやたらと長い口の蛾が見つかる。

そうした数々の事例は目を引く。しかし、それが本流ではないとやはり思える。環境の変化に対応するように、あるいは他の動物に打ち勝つように、という理由で進化するというのはどこか嘘くさい。

たしかに淘汰圧という一定の力が加わり続けると種は劇的に変化する。イヌは人の手で改良されて100〜1000世代しかたっていないと思う。その時間は地質時代では無だ。それなのに、各品種の見かけの姿は、タヌキとキツネ以上に異なっている

では、ゴリラとヒトを分けるほどの淘汰圧とは何だったのか。あのすばらしい翼をトカゲに与え鳥に変えた淘汰圧とは何だったのか。クロアナバチにツユムシだけを食べるべしと旧約聖書の神のような命令を下した淘汰圧とは何だったのか。それがわからないうちは種の起源がわからない。生命を進化させるのはきっと外圧ではない。私の回りにいる生物はどれもこれも創造的で画期的な産物としか思えないのに淘汰圧はいつまでたっても画期的なことをやってくれそうにない。

生物は1世代ごとに、微少だけど、進化している。親からみれば子はほんのちょっと進化しているはずだ。それは確かだ。とりわけ有性生殖するものは顕著だろう。5000万年ぐらいでコガネムシの角がにょきにょき伸びて5センチになってカブトムシが誕生する。その場合、1世代では 0.000001 mmだけ伸びれば良いことになる。きっと細胞1個分よりも小さい変化だろう。いま生きているカブトムシは画期的だが、それは突然現れたものではなく、ぜんぜん気付かない変化の積み重ねなのだ。その調子でやれば、翼だってヒレだって人間精神だって、何だってできるという論調もある。

種分化の直接の原因は突然変異だというのは全面的に賛成だ。がんばって変われるはずがない。努力でなんとかなるのは個人の幸福とか社会の平和とか、そういう些細なことだけだ。実体はあくまで個体だ。生き物はなんとか生きて子を残すだけだ。種だの進化だのの出る幕は現実世界にはない。一瞬の寿命しかもたぬ個体がごっそり死ぬというなら種もあっさり滅べばいい。

1世代あたりでは、いかなる変異も 0.000001 mm伸びた角程度のものだろう。そこんとこのコツコツ100円貯金は大事だと思う。ただし、角だのヒレだのを伸ばす原動力は適応とか適者生存とか、歯切れの悪いトートロジーふうの説明になっている。冷静にみれば角を伸ばさない方向でうまくやっているコガネムシの方が多く、どちらかというとそっちのほうが繁栄している。地球に生き残れるよう、という視点ではカブトムシという種が生まれる必然性は見あたらない。

一寸の虫にも五分の魂というように、虫けらの半分は心でできているはずだ。「ヒバカリは生まれつきアマガエルが大好物で、見つけると一飲みにして食べる」という記述の半分は心でできている。そして進化の直接原因である突然変異は心と体の双方に起きるはずで、心を抜きには進化の研究はできない。心、魂というのはここでいう手配書のことにほかならない。もう少し大きくは手配書を元に雪崩式に起きる反射も含めて心という。

突然変異が手配書に起きるとして、実際に何が変わるのだろう。その何かがあることを想定すれば、その効果はありありと見える。ヒバカリは魚とカエルとミミズに対して劇的な反応を見せる。カナヘビはミミズとコオロギに劇的な反応を見せる。水中で活動しないカナヘビには魚が見えず(試してないけど)、視界に入っても石ころぐらいにしか見えてない。

DNAの暗号には何をコードしているか不明の部分が大量にあるらしい。心の遺伝子はそうした部分であるかもしれない。生まれながらにして持っている心、ヘビがカエルを襲う条件反射はじゅうぶん複雑なしかけであり、それなりの設計図が親から渡されなければならないはずである。その仕組みを遺伝暗号やタンパク質で解き明かせられれば愉快だろう。

心も体も、どちらも同じように突然変異が起こるとする。次に、そのどっちがより進化に有効か、ということを考える。

心の突然変異について考えてみる。心は変わりやすいもの、というのは意識・記憶の方の心。そっちは全然無視して、そうめったには変わらないはずの手配書で考えてみる。ヒバカリはカエルの手配書を持っており、その人相書きにしたがって誰にも教わることなくカエルを食べる。コオロギを無視するのはその人相書きを持っていないからだ。

私がみるかぎり、カエルとコオロギはよく似ている。丸っこくて地べたをとことこ歩きぴょんと跳ぶ。カエルの人相書きをちょっと変えれば、コオロギになる気がする。人相書きの突然変異によってコオロギも食うヒバカリができあがるとしよう。昆虫食のヒバカリなら水辺から離れても生きていかれるかもしれない。それら0.01%ぐらいのヒバカリは餌の多い乾燥したところでも生きられるようになる。生息地が分かれれば、島に新種が生まれるように、ムシクイヒバカリという種が誕生する。

おそらく突然変異ってのは99.99%ダメなことなんだろうと思う。生物はどれも精巧にできていて40億年も生き続けているのだ。それだけの歴史にはそれなりの重みがある。極端な突然変異はだめだというのは想像に易い。突然、背中に目ができても困る。体の各器官は相互に補完しているのだから、勝手なことをする器官は使い物にならない。腹筋だけがやたら丈夫でも人としてどうだろう。肉体では、ゆるされる突然変異はほんのちょっとしたことか、皮肉なことに、役立たずだけど邪魔にはならないものだったりする。

心の突然変異は、体の変異に比べて有利である。第一に失敗の危険が小さい。コオロギもカエルにみえる人相書きであれば、コオロギのいないところではカエルを食えばよい。そのヒバカリは全く通常のヒバカリとして生きる。カエルがカビ病なんかで絶滅して、本来はヒバカリも一蓮托生になるところをコオロギを食えるグループは生き残るかもしれない。また、不幸にしてコオロギが口に合わない場合も中毒死の危険は回避できるはずだ。ヤドクガエルを学べるのなら、コオロギもその一種だとみなせる。コオロギをある種の毒ガエルだと学んで避ければ良いからだ。人相書きが変わるというのは、人でいうところの好奇心の芽生えみたいなものだろう。翼がどんどん発達していくトカゲは、空への野心もぐんぐん大きくなっていくのだ。私は進化の本当の原動力を心変わりだと思っている。

唯物論者の私はどうやれば手配書の人相書きが書き変わるのかを知りたい。イメージとはいえ、それに対応する器官があるはずだ。発生のとき、脳の神経の何かが変わればよいのだろうか。いずれにしても、それは大きな変化ではないと思う。少なくとも外から観察して違いがわかるようなものではないはずだ。肉体の変化が小さいほど突然変異も起こりやすいのじゃないだろうか。個体に起きた変異が原因で寿命が縮まなければ、その心変わりは子孫に伝わる。それこそ変な変化があったとしてもそれは発現しないまま延々と引き継がれ、100万年間、運命の出会いを待ち続けるのかもしれない。

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いまはだいたいこんな所かなと思う。ちょっと気になったのはヘビの起源だ。ヘビのことを考えるたびにヘビの起源が気になる。あのさっぱりと美しいデザインはどうやってできたのか。どうして手足を捨て去ることができたのか。ひとたび発達させた手足を捨てることの難しさから、ヘビはトカゲから分かれたものではないと結論したこともある。トカゲのレゾンデートルは手足だといってもいいぐらいだからだ。さらに今回では、昆虫を食うヘビが見あたらない(当社比)ことから、いっそうトカゲ祖先説の疑問符が大きくなった。

トカゲというヤツはとにかく昆虫を食う代物である。コモドドラゴンのように巨大なものはどうか知らないけれど、昆虫を食えるサイズの口を持ったトカゲは等しく昆虫を食うものである。ワニはトカゲではないけれど、ワニだって生まれたばかりの小さいやつは昆虫を食う。ヘビがトカゲから分かれたならば、ヘビも昆虫を食っていいはずだ。そういうことを考慮してなおかつヘビはトカゲの一種なのだとするならば、よほど手足が不要で昆虫のいないところに入り込んで行ったトカゲを想定しなければならない。以下私は妄想の世界に入る。

こう来れば、答えは一つ。海だ。中生代の、珊瑚が群生し無数の魚が群れていた美しく澄んで暖かい海だ。トカゲは両生類から進化して乾燥に耐えるすべを身につけながら昆虫を追って陸の深いところに進出していったはずだ。敵なしで手当たり次第に虫が食える大陸というフロンティア。当時のトカゲの心はそっちに向かっていたはずだ。ところが、その一派がもう一度ふるさとの海を目指すことになる。遠い祖先が海から川へ遡上しやっとこさ手足をゲットし、乾燥に耐える卵を得て、ようやく上陸を果たしたというのに、あるトカゲは海に帰ったのだ。

海では手足はなくてもよい。珊瑚や岩場の隙を動き回るにはない方が好都合だろう。現在でも珊瑚礁にはウミヘビがいる。海には昆虫はいないかわり、珊瑚礁にはうんざりするぐらい魚がいる。しかも夜には珊瑚のかげで眠っているから、食い放題だ。だからこそトカゲはもう一度海に入ったのだ。そうこうすること1千万年。ウミヘビの中から、もう一度陸を目指すものが現れ、それがいまのヘビになった。

中生代の当時、トカゲがヘビになった経緯についてもう少し妄想してみよう。ヘビになったトカゲは1種類である。その名をヘビモトトカゲとしよう。いまのヘビの大成功を思えば同時多発的にいろいろなトカゲからヘビが誕生したように直感するけれど、それはきっとまちがいだ。さらに、1種類が1か所でヘビになったと考えるべきである。

さて、その場所であるが、大陸辺縁の熱帯にある島嶼だと思う。大陸棚に珊瑚が作った島々だ。どの島にも高い山はなく砂漠のような荒れ地に背丈の低い植物が生い茂っていた。海は遠浅で珊瑚礁が発達している。空から見れば、コバルトブルーの海に白い砂と緑に覆われた島々が点々と浮かぶのが見える。島の大きなものには、恐竜やワニのような大型の爬虫類もいたけれど、たいていの島で支配的な動物は小型のトカゲであった。

そのころ、地球は温暖化をはじめていた。極の氷が溶けて海進が起きる。ヘビモトトカゲの島は最も標高の高いところで50mぐらいしかない。1000万年続いた温暖化の結果、島の90%は海に沈み、無数にいたトカゲたちは小型の数種が生き残っているだけだ。その中でヘビモトトカゲだけは元気だった。海進に歩調を合わせて海に進出することに成功し、珊瑚礁を新たな住処として繁栄を築いたのだ。

やがて地球は寒冷化し海退がおきる。同時にヘビモトトカゲの島がある大陸棚は隆起が起こっていた。100万年後、島は大陸と完全に地続きになる。ヘビモトトカゲは海沿いに広がる珊瑚礁をたどって、南へ西へ広く大陸全体に進出していった。中には川を遡上して大陸の奥をめざすものが現れる。かつて大陸棚であったところは広大な湿地になって無数の川が蛇行している。そこはヘビモトトカゲにとって極めて好都合な場所だった。泥や水苔、浅い水辺はトカゲにはそれほど住みやすい所ではなかったのだ。トカゲは泳ぎが得意ではなく、手足がじゃまして泥や水苔に潜るのも上手ではない。

陸と水の狭間はトカゲが過去の遺物と馬鹿にしている両生類の天下だった。そこにヘビが現れた。オタマジャクシ、カエル、サンショウウオは食べ放題だ。ヘビを丸呑みする体長1mの巨大ガエルもいた。しかしながら巨大ガエルは成長が遅く、オタマジャクシや幼ガエルのときは格好の獲物にすぎなかった。彼らはほどなくして地球上から絶滅するのだが、ヘビの進出がその一因であったといわれている。

ヘビの中にはさらに内陸へ進出するものも現れる。本来は海への適応だったが、そのシンプルでしなやかな体は陸の上でも有効だった。静かに確実にあらゆる獲物をしとめることができた。地面に穴を掘ってうまく隠れるものも、木の上に住むものも、新たな脅威を迎えることになったのである。ヘビにはスピードがないことが他の動物にとって唯一の幸いだった。


カタバミ  テトラ  ナゾノクサ
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