不安の誕生


アカガエル

写真は2007年頃に庭に住み着いていたアカガエル♂である。夏頃からこいつの姿は庭にセットしたスイレン鉢やプラケースの池で見かけていた。その表情は自信まんまんに見えるけれど彼の将来は絶望的であった。

この住宅地はもともと林でありアカガエルの生息には適した環境だった。しかし、2007年当時にはカエルが発生できるような水場は近所になかった。せいぜいが500mほど離れたゴルフ場の池ぐらいのものだ。だからこそ貧相な私の庭に住み着くことにもなったのだろう。

晩秋になるとそのアカガエルは庭で鳴くようになった。その鳴き声は年を越しても断続的に続いていた。鳴き声が聞こえるのは比較的暖かい日の夜である。「ココココ」と4音鳴いて、10秒程度休むのが基本の型だ。家の中からだとよくよく耳をすませないと聞き取れないぐらいの声だ。夜通し鳴くこともあった。日中にはどうしているのかと探し回ったが見つからなかった。物陰に潜んでいるのか、土にでももぐっているのだろうか。ようやくそいつの姿が確認できたのは2008年の1月のある暖かい夜のことだった。いつになくよく鳴いている声を聞きつけて庭に出るとやつはスイレン鉢に浸かっていた。その後の次男の観察では、鳴くときは必ずスイレン鉢の中だったという。

図鑑によるとアカガエルの産卵期はとても短いらしい。2月ごろに産卵をすませばすぐに再冬眠し、5月頃まで息をひそめているのだそうだ。2月の雨降る夜なら立派なオスガエルとしては鳴かないわけには行くまい。思わず歌もでる気持ちの良い日のはずだ。しかも歌えばもっと気持ちよく、夜明けまで歌い続けるだろう。

暖かい小雨の夜にカエルの声を聞くのは気持ちが良く贅沢なことである。ただその楽しみは手放しで享受できるものではなかった。私には彼が孤独であることがわかっていたからだ。わが家で確認できているアカガエルはその1匹だけで、近くに腹をふくらませたメスが息を潜めているとは思えなかった。彼の声が恋人に届く可能性は極めて小さいのだ。真冬にはエサをとるのも難しい。毎日のように隠れ家から出入りをしてココココと恋の歌を続けるのは身体に負荷もかかるだろう。

蛙の声を聞きながら、私には一つの疑問が浮かんできた。やつは自分が鳴く理由や目的をどれほど自覚しているのだろうか。ヒトである私にはその理由がわかっている。その声に引かれて恋人がやってくるのだ。彼女はえもいわれぬ暖かく優しい声に引かれて彼の元にやってくる。そして出会った二人は、自分たちが生きてきたことの意味を知り、浅い水たまりで産卵することになる。というように(間違いかも知れないが)私は彼の行為を理解できる。知っててもできないことがあり、知らずともできることがある。カエルは自分の行いに無知であっても必要な全行為をまっとうすることができる。

そもそもカエルは自分の行動の意味など知らなくても良いはずである。もし私のアカガエルが、冬の雨の夜に鳴いている理由を「メスを呼び交尾をして自分の子孫を繁栄させるため」などと自覚してしまったらもう破滅だ。

もう1か月以上も鳴いているのに、ちっともメスが来ない。
もしかしたら、近くにメスがいないんじゃないか。
この水たまりは産卵に不適なのではないか?
もっと良い産卵場所があって
みんなはそこに集まっているんじゃないだろうか。
第一、
この水たまりでは私の子どもたちがすくすく育つ保証がない。
ここは捨てて他の水たまりを探すべきだろう。

2か月3か月と何事も起きないのだから必然さような結論になる。そうして彼がこの神奈川の住宅地で、よりよい水たまりを探してさまようならば、数日後にぺしゃんこになった蛙の死体がアスファルトで発見されるだろう。または、どこかの塀の下に蛙のひからびた死体が横たわるか、蛙を食ってちょっと腹がふくれたカラスかタヌキが見つかることだろう。

自然の山野でもその状況はあまり変わらないかもしれない。アカガエルの移動能力、探索力、視野からすれば、自分が生まれた水辺か直感が教える産卵に適当な水場があればそこで待ち続け、静かな雨の夜に澄んだ声で鳴き続けるのが、おそらくは最適な方法である。彼は自分の目的を知らないからこそ、この貧相な庭に一冬中居座って鳴き続けられるのだ。

洞察力をもって行動するには人間のように多様な情報を収集できフレキシブルに動ける体が必要である。身の丈に応じた洞察力は生き残りにはたいへん役に立つ。この地球上でヒトは圧倒的な存在感を示している。だからといって地球の生物の中で群を抜いて幸福に生きているかどうかは疑問である。洞察力だってやみくもな進化のトライアルの一結果にすぎないことを認識しておいたほうがいい。

私は、洞察力こそが不安の起源であり動物進化にかけられた最も悪質な罠だと思う。蛙やタヌキを出し抜いて生き残る能力としての洞察力は副作用を伴っている。不安と後悔と希望の出生地は洞察力である。冬の雨が気持ちよくて鳴いている。鳴くことが気持ちよくて鳴き続ける。そうすれば、芋づる式に春になると子どもがすくすく育っている。そんな幸福はもう人間にはない。私のアカガエルは絶望的な状況に置かれているのに自信満々の顔ができる。ヒトはあのようには生きられない。誰もが常にありもせぬことに不安を感じ、悔いてあせって生きている。裏返して言えば、豊かな未来を信じて日々切磋琢磨し充実している。どっちにしてもカエルの目には同じに写るはずだ。


カタバミ  テトラ  ナゾノクサ
たまたま見聞録→