悪とはなんであるか


そもそも悪とはなんであるのか。本質的に悪とよべる物はあるのだろうか。悪い物、嫌いな物、危険な物、マイナスな物などなんとよんでもよい。そもそもそういう物がわれわれの心に悪として浮ぶ意味はなんなのか。

ひとまず、誰にとっても悪い物、厭うべき物をピックアップしてみよう。あまりに簡単に思えてしまうから、あえて注意して、ヒトはとてもムツカシイ生き物だということを肝に銘じておこう。生まれが未熟であり何でもかんでも学習してしまう。学んで覚えた悪でも宿命の敵であるかのように、さらにはそれ自体が宇宙の悪であるかのように思い込んでしまう。だからヒトがアプリオリに悪と認識するはずのものを見損なってしまう。

ヒトが万物の霊長として生まれたからには、ヒトが生まれるに足るだけの環境は整っているということになる。その環境は良くなっていることはあっても悪くなっていることはないだろう。ヒトにとって今のこの地球が楽園だ。それゆえ良い物はたくさん見つかる。よく熟れた柿は良い物の一つだろう。良い色、良いかおり、良い味がする。柿でなくとも、糖類、蛋白、脂肪などを含む「食品」は本質的に良い物である。それらは甘い。その甘味は習って覚えるものではない。うまいものはアプリオリに良い物といえそうだ。

では、不味い物はどうか?渋柿のように毒のある食品は我々にとってアプリオリに悪と認識すべきもののようである。

柿の渋みはカテキンとかタンニンとかいうもので食用には適さないものだ。そういう毒を悪いまずいと感じることはとても理にかなっている。まだ熟れていない渋柿は食べてはいけない。一方、柿のほうでもまだ種が熟さないうちに枝からもぎ取られるのは迷惑だろう。播種したい柿と腹を満たしたい人間と、双方の利害が一致して柿のうまい不味いがある。

こうやって考えると、悪を感じる心というものはうまくできていると思う。その機能自体は柿渋の害を避けるという意味で善ですらある。ところが自然界はそうそう割り切れるものではない。

毎年キノコを食って死ぬ人、腹をこわす人が後を絶たない。キノコ取り50年のベテランがキノコの毒にあたったというニュースを聞く。その一因はキノコの毒性が非常に強いこと、毒キノコの分類が極めて難しいことによる。若いうちは毒でないものが途中から毒になってしまうものもある。秋田では毒とされているものが山形では食用になっていたりする。マツタケだって中国では食えないことになっていた。

そして、私が注目しているのは毒キノコが不味くないということだ。もしキノコが渋柿やカメムシのように極めて、少なくともその毒性に応じて、不味いものであったなら、そうそうキノコ毒で死ぬ人は現れないはずだ。

熟れる前の柿やみかんが極めて不味いのに、毒キノコが不味くないというのは不思議ではないか?「毒だから不味い」「悪だから不味い」というのであれば、柿渋も毒茸も等しく不味くなければならないだろう。同じように毒であっても、不味かったりうまかったりするのは奇妙だと思う。

私は毒キノコが必ずしも不味くない原因は、キノコが人類にとって新しい食べ物だというところにあると思う。柿とヒトとの関係は数千万年の歳月を経て培われたものだ。ヒトがヒトである前から、その動物と木の実の関係はあったろう。木の実は、ダーウィンがいうところの、生存競争や選択淘汰の原理がはたらいてうま味や渋味が進化した。よく熟れて栄養のよい実が鳥や動物に選ばれて分布を拡大できる。うまい実を食った動物は元気よく生きることができる。渋い実を食ったものは腹をこわして死んでしまう。植物一般の実の毒や栄養は似たようなものだろうから、実の味や臭いをちゃんと見分けられる動物が生き残っていく。

われわれが生まれつき持っている味覚はそういう歴史を経て鍛えられた。柿(とその以前の植物)と人間(とその以前の動物)の間にどれほどの時間があってそういう進化が起きたのだろうか。

キノコはヒトが人間になってはじめて獲得できた食い物ではないだろうか。人間はより多くのものを食おうとし、食う能力をもった生物である。好奇心もあり、創意もあり、食を文化として継承し、ありとあらゆる物を食う。キノコの一部は煮炊きして食えばたいへんうまいものである。キノコが文明誕生の後に食品リストに加わったのならば、毒キノコによる淘汰は起きない。毒キノコが手当たり次第に食べられることはなく、ごく少数の不運な者が死に、その死体をとり囲む連中は学習によって毒キノコを回避することができる。人間は自然との係わりで起きる進化を超越している種なのだ。

水溶液を舌で見分ける能力つまり味覚と、気体を見分ける能力つまり臭覚は似た力でいずれもプリミティブなものだ。体内に直接物質が取り込まれるからプリミティブといった。古来動物にとって音や光などの間接的情報よりも、体に直接入ってくる物質をどうするかが生きるための大問題だったと思う。行動のための情報源として味覚臭覚が発達する。だから、何がどういう味でどういう臭いかということはその生物の辿ってきた歴史の反映になる。

われわれにとっては二酸化炭素は無臭である。ところが、蚊やヒルは人間の出す二酸化炭素を検知して近づいてくるらしい。だとすれば彼らにとっては二酸化炭素は甘い果実にも似た妙なる芳香を漂わせる気体なのだろう。うんこは悪臭を放つが、イヌやハエやセンチコガネにとっては薔薇の香りであろう。腐りかけたミミズの臭いはカマドウマやオサムシにとってはバニラだ。気体自体に臭いの原因はない。硫化水素が臭って二酸化炭素が臭わないということは心理学の問題であって化学の問題ではない。

ある生き物の心が外界の刺戟に対してどのような反応を示すかでその生き物の歴史がわかる。ヒトは二酸化炭素を検知しなくてもよいように進化してきた。酸素が二酸化炭素に置き変わった空気は恐るべき猛毒であるがヒトはそれを感知できない。普通に呼吸し、数分で死に至る。そういう空気の中で生き死にの勝負をしてこなかったため体は異変を察知しているのに心が反応できないのだ。

人間も含めて心の中心機能は善悪判断にある。善と悪と、どちらがさきにこの地球に誕生したかといえば、それは善である。理屈上、善は悪に先んじなければならない。生きることのほうが死なないことよりもずっと大切だからである。善というのは個体の判断が理にかなっていることをいう。生きるために有効な行動には快感がともなう。ヒトでない生き物も同じことだろう。以下そのことに少し説明を加えてみたい。

カマドウマに心があるならば、ミミズの死体の臭いは良いものであろう。カマドウマにとって善という判断は「近づけ」という命令と同義である。私は触角を振り振りミミズに近づいていくカマドウマの行動を見て、そこに善という判断を見出す。そうした感情移入は自然であるが、じつは危険なことである。昆虫を人間的に考えると不可解の泥沼に落ち込む。古来より虫の心は不可知だとされ本能という概念が発明されている。ミミズを食べるカマドウマの気分も不可知からはじめるべきだ。カマドウマには心がなく、ミミズの臭い(たとえば蛋白質からでる芳香気体)を察知すれば自動的に近づくものだと考えても全然かまわない。善悪判断なんて持ち込んではいけない。そのほうがシンプルでいい。私は以前にはそう考えていた。

心の萌芽が下等動物の中にもあるだろう。食べるという行動をとってみても、もし動物がエサの臭いに機械的に引かれるのみであれば、熟れたりんごが万有引力によって地面に落ちるのといっしょだ。それ以外に何もないのだとすれば、いつまでたっても学習というレベルにステップアップすることがない。ヒトに心があるのなら、同じく45億年生きてきた虫けらにも小さな「心」があるだろう。

カマドウマでは心の芽はどのていど育っているのだろう。カマドウマは複雑な環境世界で生きるじゅうぶん立派な虫だ。化学的な臭い(気体)をどれほど心理的な臭い(概念)としてとらえているのか。私は臭いとそれに反応している体のそのただなかで快不快の感情が発生しているぐらいではないかと見当をつけている。

カマドウマのレベルにおいては、「臭う」「体が動く」というのといっしょに「気持ちよい」という感情があるとすればいろいろ説明がつきやすい。無論この3者に前後関係、あるいは因果関係はない。虫の心には原因理由を持ち込んではいけない。人間ならばさしずめ「良い臭いがするから行ってみよう」とでもなるところで、虫もそうなんだろうと思いたいところである。しかし、そういう高級な精神を持ち込まなくてもカマドウマの気持ちはわかるのだ。

どうして、カマドウマが「良い臭いがするから行ってみようと考えている」とみなすことが危険なのか?と疑問に感じる向きもあるだろう。このあたりは抜け出せない誤りに陥るところだからしっかり考えておこう。

現在の動物は複雑な精神を持ち複雑な行動をしているけれども、元々は食べる動くなどの行動は自動であったと考えなければならない。息をしようとしてする必要がなく、消化しようとして消化する必要がないのと同じだ。

昆虫は一種の自動機械とみなさないとさまざまな不都合が生じてくる。「飛んで火に入る夏の虫」なんてのは典型だ。明かりに向かう意味がないのに蛾は火で翅を焼く。その一方で、昆虫を完全な自動機械とみなすならば同じくらいの不都合が生まれる。死の危険を回避できないことについては、彼らが単に死に無頓着だからという簡単明瞭な理由がある。逆に彼らの行動がうまくいって複雑な作業をこなしているとき、たとえばクロアナバチが巣を掘っているとき、セミが鳴いているとき、カマドウマがメスに擦り寄っているとき、一瞬考え込んで自分の作業を確認するような様子が見られる。私の考えすぎかもしれないが、そこに心の芽を感じてしまうのだ。

生き続ける努力の始まりは「臭いに近づく」ということだ。近づいていく対象が臭うものかどうかすらわからなくてよい。食べ物が発する特定の気体に近づければよいのだ。カマドウマにはとほうもなく長い触角がありすばらしい6本の脚がある。しきりに触角を振り回して臭いを検知し、脚をつかって速やかにあるいはゆっくり近づいて行くことができる。

発達した感覚器はそれを使いこなすだけの精神がなければ機能しない。触角が伸びる過程ではいろいろな臭いをかぎわけ、微細な臭いも検知できるようになっただろう。あれだけの長さがあり、3次元の空間を自由自在に振り回せるということは、臭いの方向と距離までも感覚できるということだ。私はあの触角できっと人間には無臭の水蒸気の臭いだって感覚していると思う。2本をぶんぶん振り回してより臭いの濃いほうがその発生源なのだ。かくてカマドウマは闇の中でも乾燥したところと湿ったところを見分け速やかに目標に到達できるわけだ。

その素敵な感覚器をもつ虫にとってそれなりの精神とはいかなるものか?人と同じようにミミズの臭いをかいで「良い臭いがするから...」と思うことは、外界に対象物の観念を持てるということだ。思考力をもって行動をシミュレーションできるレベルにあるということだ。それは身体の維持に間接的に有効な機能だと思う。プリミティブな生き物にはもっと根本的な心が必要だ。

カマドウマにふさわしい心は自分の行動が正しいことを自覚する力だと思う。それこそがもっとも単純で基本的な心の機能だ。腹の減ったカマドウマにとって大事なのは、より臭いの強いほうに触角を向けること。臭いの強くなる方向に歩くことだ。ミミズの臭いを検知すれば考えなく自動的に体が動き出して良い。ただ、そのとき脚の動きと感覚器の情報をシンクロさせる能力は絶対に必要になる。体が臭いの方向に進んでいるかどうかは1秒ごとに判断できなければならない。触角が臭いの強いほうを向き、脚が臭いの来る方向に向かっているならば快を感じればよい。自分が正しいという自覚はカマドウマクラスの虫が積極的に生きる上で必要だ。生命を維持する上で必要不可欠な行動に伴う快感こそが地球上の生命に最初に宿った心だと思う。その一連の感覚、判断、行動をひっくるめて善という。

カマドウマにしばらく水をやるのを忘れていると、心身がずいぶん乾くらしい。水を与えたときいっせいに隠れ家から出て来て、触角でつんつんと水を確かめて飲み始める。その様子をみて、私はカマドウマは触角で水蒸気の臭いをかいでいることを確信した。

彼らはそもそも水が好きだ。好きというよりも体が乾燥に耐えないのでたえず水が必要なのかもしれない。去年の夏、生まれたばかりの非常に小さなカマドウマを手に入れた。今飼育しているやつらの親にあたる。そのときはプラケースの底に土を敷かずに飼育していた。カマドウマに水が必要なのは知っていたので、ペットボトルのふたを水飲み場にしておいた。3ミリの子どもだったので、「もしかしたら水死するかもしれない」という恐れはあったけれども、怠慢してそのままにしておいた。最初の犠牲者が出たのは早くもその夜のことだ。

幼虫とはいえペットボトルのふたで水死するのでは昆虫としても水泳が下手な部類だ。ふたを登って水を飲む甲斐性があるのだから、水に落ちないように気をつけたり、落ちてもちょっとぐらい泳いで登って出てくればよいと思う。何かが狂っている。彼らはいつも水を飲み湿り気の多いところで過ごすのに、水に入る経験はないようなのだ。

カマドウマが水死している姿を見たことのある人は多いと思う。生きて動いている姿よりも目にする機会は多いかもしれない。わが家ではカマドウマは犬の水入れでよく水死する。カマドウマが水が好きで、しかも水泳が苦手ということから彼らがこれまで生き抜いてきた環境が想像できる。熱帯の定期的に水没する森はだめだ。スコールで水溜りができるようなところでもまずいだろう。乾燥しすぎるところもだめだ。適度に雨が降る落ち葉の堆積している森が最適な生息環境だと思う。温帯の森か熱帯なら山の森林だ。

カマドウマにとって脚がつかないほどのサイズの水溜りは全く未知のものにちがいない。すくなくとも、水溜りから生還することは彼らが地球で生き抜いてくることに何の助けにもならなかったはずだ。水は彼らにとって絶対の善で、のどが乾いているときには無防備に水に近づいていく。「水がもしかしたら危険なものかもしれない」というようなことは思いもよらぬのだろう。

水蒸気をかいで「いい臭いだ」と判断することは高次元の能力だ。それは水の存在と自分の存在を分けることになる。もはや、推理とか経験というようなものの芽ですらあるだろう。水が危険なものであることに思いもよらぬと同様に、水がどれほど良い物であるかもカマドウマは知らないだろう。水とカマドウマの身体の良い関係はカマドウマに心が宿る前から続いている。あくまで彼らが感知しているのは水に近づいているときの快感なのだ。

断言するまでの自信はないが、もしかしたら、喉が渇いているカマドウマは水から遠のくことを不快感として感じているかもしれない。まちがって水から離れるように歩いてしまったら気分が悪くなるのかもしれない。そういうことなら、この世には善に引き続いて悪も生まれることになる。

そうでなくても、カマドウマにはもっとちゃんとしたアプリオリな悪がある。振動だ。そのことを考える前に昆虫にとって悪とは何かを定義しておこう。善悪はあくまで個体と環境世界との関係から発生する価値判断である。端的には昆虫の外にあって不快感を与える存在が概念化されたとき悪と呼ばれる。

であれば意外にも虫の悪は多くない。昆虫類は生きることはがんばっても死なないことにはがんばらないものだ。保護色とか毒とか警戒色とか複雑怪奇な工夫をして事故死がないようにがんばっているように見えるかもしれない。しかし、そういうものの大半は鳥が創作したもので、虫たち自身は無自覚なのだ。我々の判断はどうあれ当人に自覚できない危険は悪とはよべない。

アゲハが角を出したり、ある種の毛虫が草を激しく揺する行動によって私はかすかな悪の芽生えを知る。「フクラスズメはカラムシを食べる。」といったら、どいつが虫だか分からないぐらい紛らわしい名前であるが、フクラスズメは雀ではなく蛾の仲間で虫、カラムシは虫の仲間ではなく草だ。フクラスズメは成虫も幼虫も私と親しい。成虫はよく窓硝子のところでつぶれて死んでいる。夏休みには無数の幼虫が道路でつぶれて死んでいる。幼虫は大型で黒・赤・黄・白のよく目立つ色をしており、おまけに毛虫でおまけにつぶれると緑の液体を吐く。嫌でも目立ち、いやおうなく記憶される生き物だ。

私がいまここでフクラスズメを持ってきたのは、草を揺する毛虫というのがそいつだからだ。毛虫は毎夏、道端に大量にあるカラムシに群れて大量に育っていた。いまでも多い虫だが、40年ほど前の当時はもっと多かったろう。カラムシが大ブレーク中だったのか、フクラスズメだけでなくラミーカミキリも多かった。フクラスズメの毛虫はちょっと刺激すると草を食うのをやめ、頭をもたげて思いっ切り左右に振る。それはそれはものすごい勢いで。しかもけっこう長く続く。振り方が尋常ではないから毛虫の体だけでなく草全体がぶるぶる震えることになる。こどもの私にはその姿が滑稽であり、意味がわからずそら恐ろしくもあった。

「意味」は常識的には対捕食作戦に落ち着く。たとえば鳥が毛虫を食おうとしてやってきたとき、急に草が揺れるので驚いて逃げるとか、そういう効果が予想できる。もともと鳥というのは空飛ぶトカゲで、より大きなトカゲやヘビ、恐竜などのライバルを飛行によって地上に置き去りにしてきたグループだと思う。鳥は飛ぶことで爬虫類の攻撃をかわすことができたはずだ。逆にいえば、原始鳥は捕食の危険にさらされ続けた一派で、捕食をかわす方法が敏捷さ、身軽さにあったはずだ。鳥類が恐れる蛇の目模様は一億年前にあびていた捕食者の視線の名残だと思う。そして、これが今回のテーマなのだが、不自然に揺れる草は捕食者の接近を予測させるものとして鳥の心に刻み込まれているかもしれないのだ。そうであれば、フクラスズメのふりふり攻撃も功を奏するというものだ。

草の色形に体がにているから鳥の攻撃をまぬかれることができるということと、体を揺すって鳥の攻撃をまぬかれることができるということは効果は同じかもしれない。しかし、いま私が考えている善悪という点ではまったく意味が違ってくる。

むろん、毛虫が体を揺するのは反射行動で、原因や効果についての意識はないのだろう。鳥が来たから揺すって追い払おうとか、揺すったので安全が保たれたのだとか、そういう認識は露ほどもないに相違ない。あるかもしれないが「ない」と言い切って問題は起きない。

ただ、私は毛虫が体を揺すっているその最中には何かを感じていると思っている。自分がなぜ体を揺すっているのか、揺すったからどうだということは気づかなくとも、揺すっているということ自体がなにかの感覚を毛虫に与えるかもしれない。そこに何かあると思われる第一の理由は、揺する時間が長いことにある。反射で体が動くということは我々だってある。しかし、所詮反射は一瞬だ。反射行動が1分も続くことはない。第二の理由は、揺する行為がなんらかの快感、あるいは不快感を伴うものだと思われるからだ。我々が泣いたり、激怒したりすることは一種の反射と考えられる。そして、泣くことそのものが原因で悲しくなったり、怒ることそのものが原因でより怒りが増す。そして、泣き続け、怒り続ける。1分にもわたって体を振り続けるために、毛虫も何かを感じているのではないか。

体を振っている毛虫がバーサクあるいはメダパニにかかっているとして、その異常の自覚があるならば悪の種となりうる。この世には原因結果から無縁の悪はない。それは虫も人間も変わらない。もし、毛虫にでかいものの接近という感覚があり、自分の異常行動に伴う違和感を感じていれば、その両者が結びつくことがありえる。でかいもの→揺する→不快という流れが短絡されて、でかいものは不愉快という判断が生まれる。つまり、大きな者がぶつかったとき、その対象は何か嫌なヤツ、つまり悪の類になる可能性がある。

フクラスズメは振動によって狂ったように体を揺する。カマドウマは振動を与えるとびゅんっと跳躍するか死んだように静止する。その静止行動は数分も続く。そのとき彼らは漠然とした不快感を持っているかもしれない。私はその不快感のなかに人間が有している悪の概念の萌芽を見る。

ヒトが昆虫みたいに行動できる場合は限られている。たとえば男女の恋愛が数少ない例の一つである。ヒトだって快感=善、不愉快=悪と単純に決めることができる。しかし、それよりも、人間には「良い物を善・悪い物を悪」と決めつける不気味な能力のほうが優勢だ。それがいわゆる理性とよばれるものだ。

人間はありとあらゆる対象を、良い物か悪い物かあるいは無関係な物かに分類できる。その結果本末転倒が起きる。虫レベルでは快不快の感覚でしか善悪を決られなかったのを、ひっくり返して善悪の概念に照らして快不快を感じる。どんなに快いものでも悪かもしれないと用心し、どんなに苦しいことでも良いことかもしれないと辛抱したりする。そういういびつな精神は死なない工夫から発達したようである。そして、死なない工夫こそが人間的苦悩の根源だとおもう。

どんな生き物でも死ぬのは嫌だろう。ただ、死ぬことを知らなければ、その嫌なこと自体がない。そいつは生きることに専念している。食べること走ること泳ぐこと。生きる工夫は3つか4つでよい。おっかない敵から逃れるのは死なないためでなく、それが単に敵として意識できるからだ。死なない工夫をしない者は幸福である。たとえその工夫がないことで早死することがあったとしてもだ。

寄生虫に体を食い破られている虫は、見た目けっこうおぞましい。生きながらにして体の中身をウジ虫に食われており、薄い体表を透かしてその様子がみえる。子どもの頃はそういう光景は嫌なものだと感じていた。いまはそれがごくごく普通のことであって、その両者が幸福ですらあるということを確信している。食うほうも食われるほうもなんら不都合なく自分の生きる道を淡々と歩いているだろう。幸福というものが我が道を進むことであれば、彼らは幸福である。そしてそこには快感すらある。

日常さまざまな恐れをもち、寄生虫がついたイモムシはおろか、カマドウマにすら怖気を抱く人間は哀れである。嫌わなくてもよいものを嫌ったり、心配してもしょうがないことをくよくよ思い悩んだりするのは人間の性である。そういう性向のない者は人間ではない。肉体からのフィードバックである快不快以上の判断をもったとき、小さな悪夢の芽がふいてしまった。人間が知恵の実を食ってしまってありとあらゆる苦悩が始まったというのは真理だとおもう。それさえなければ身体中をウジ虫に食い荒らされながらもえへらえへらとうすら笑いを浮べて生きていられたはずだ。知恵の実は「そんなものは本当の幸福ではない!」と人間に告げたのである。

ウジ虫に体を食われるのは苦痛である。アマゾンに行ったとき現地の友人にいきなり腕をはたかれた。まさに寄生バエが私に卵を産みつけようとしていたのだ。体の中で孵化したウジ虫に食われるとものすごく痛いらしい。摘出手術の跡を見せてもらったとき、できればそういう目にはあいたくないと思った。

ウジ虫に食われる苦痛は、ウジ虫に食われることを防御できるにつれて発達したものだろう。食われるままなす術もないのなら、痛みなんて必要ない。事実、サナダムシなどの寄生虫は人に痛みを与えないという。巨大なものに寄生されてどんどん痩せていってもチクチクズキズキ痛むということがないらしいのだ。サナダムシは人間と上手に共存してきた虫だ。

苦痛は苦痛を克服することによってより強くなると思う。一個人のことではなく、動物の進化の上での話だ。痛みは体の異常のサインであり、小さな傷のうちに的確に対処できるなら、痛みを感じることは生存に有利だ。生き残るに有利なことは世代から世代へ伝えられて行くだろう。敏感に痛みを感じ早期治療に成功したものが生き残り、敏感なタイプの子どもを残していくという理屈だ。人間は他の動物とは比較にならないほど怪我や病気を克服できる。かくて、生き長らえることの代償として痛みも多く強く感じるようになる。

残念なのは傷みを選べないことだ。単なるサインとしての役割、体に大事をとらせるという目的のためであれば、対処できることだけが痛くて治療をすればすぐに痛みも止んで欲しいものだ。現実はそううまくは運んでいない。痛くても治せない病気がある。痛みの半分ぐらいは人の能力を越えた理不尽なものである。純粋に悪といってよい。そういう痛みに対しては試練だとか辛抱だとかいわずに素直に理不尽と叫ぶのがよいだろう。人間は死なない工夫に伴う不条理を山のように抱え込む気の毒な生物だ。厄介千万なことであるけれども、生きることと死なないことは、根本的に別ものなのだ。

カマドウマのように「快感=善」と信じて生きていかれるなら苦労はないだろう。幸福への道はたった1本で、道行きに必要なことは3つぐらいしかない。それにひきかえ、不幸への道は無数にあり、不幸を防ぐため必要なことは数限りなくある。つまり悩みの種は無尽蔵だということ。ヒトは次から次へときりなく死なない工夫をする。その工夫によって死をまぬかれた者はいない。その工夫があだとなって死を早めた者もいる。あまつさえ死んだ後のことを心配する者すら少なくない。

「気持ちはいいけど悪いことかもしれない」「つらいけど良いことに違いない」などという矛盾に囚われている存在は、カマドウマからは自分を見失っている哀れな生物に見えることであろう。肉体のみならず観念にすら快不快や善悪を感じてしまう動物として、生まれてから死ぬまでまったき幸福のまどろみのなかで過ごす、というわけにはいかなくなった。総じてその工夫は功を奏し、人類総体としては繁栄を続け、カマドウマを見下しているのだけれど。


カタバミ  テトラ  ナゾノクサ
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