ナスカの地上絵


自転車のよいところは空を飛ぶ感覚を手軽に味わえることだ。それも、自力でがんばって高速飛行しているあの夢の感覚である。手軽とはいっても、自転車が体になじんでいたり、ペダリングに違和感がなかったり、路面も風もよかったり、精神がよく集中できていたりと、条件はある。

山道を行くとけっこう長い真っ暗なトンネルにたまに出くわす。空を飛ぶチャンスの到来だ。手がかりといえば、ぼおっと白く光っている出口。路面は入射光を反射して、ところどころに黒いくぼみがみえる。タイヤも手足も見えない。「まさか穴なんかあるまいな」とたかをくくってすっとばす。その5秒後、ふうっと飛行する感覚が訪れる。あれはなかなか楽しいものだ。ゆっくり気をつけて走ればよいのに先を急ぐのはわけがある。一生懸命走っていないと闇の中へ落ちていくような錯覚があるからだ。船外作業のために漆黒の宙に出ていく宇宙飛行士もああいう感覚になるのだろうか。彼らも最初の一歩を踏み出すときには「落ちるのでは?」と躊躇するらしいのだ。

ナスカの地上絵にはよく知られている謎がある。飛行機からしか見えないものをなぜ2000年も前の人間が作ったのか? という疑問だ。私にはその問いが幼稚なものに思える。そもそも人類には飛行機械の発明にともなって大地に画を描く習性がない。かといって空からしか見えないモニュメントが作られているからといって驚くようなことでもない。あの巨大な地上絵は飛行機あるいは宇宙人のUFOとは無縁のものと考えて問題ないのだ。

空から見物されることだけを意図したモニュメントはグーグルアースによってようやく誕生している。かつては、その手の落書きとして知られたものはイギリスのミステリーサークルだった。あれは空から撮影されることを意図して制作されている。マスコミやマニアに作品を撮影してもらって、その写真を自分でも鑑賞して出来栄えを確認する。愉快犯のいたずらである。

ナスカの地上絵の面白味は、作った者が見物するわけではないのに、空から見ることを意図して真剣に制作されていることにある。私はその制作者の気持ちがよくわかる。

私は自力で一度も飛行したことがないにもかかわらず、空を飛ぶということがどういうことかを知っている。飛行機に乗る前から飛行夢を見ているからだ。夢の中では風景を電線や木を乗り越え、山のはるか高いところまで一気に飛ぶことができる。そのとき良く知っている地域を鳥瞰して見ていることに気づく。

良く知っているものを未知の角度から想像して思い描く能力が人間にはあるらしい。飛行夢は幼児も見る。子どもでも「地図」という形で風景の鳥瞰図をつくることができる。あらためて考えてみると、地図を描くことはけっして簡単なことではない。その心的に高度な力はあらかじめ人間に備わっているようなのだ。

生活圏の風景を夢で鳥瞰できることを認めるならば、ナスカの地上絵が描かれたわけをしることはたやすい。

あの奇妙な地上絵は死者のために描かれたものだ。いま死んでいる人か、もしくは未来に死体になるべく生きている自分か、そのいずれか双方か。私はナスカの地上絵は死者に向けたモニュメントあるいはメッセージと断言する。

私はときどき死者の夢を見る。とうの昔に死んだ肉親であったり、天災で命を落としてしまったらしい人たちであったり。そういう死者のイメージはいつも浮遊している。手の届くほど近いこともあれば、雲に達するかと思えるぐらい高空にいるときもある。いっしょに風景を楽しみながら途中まで飛行することもある。また、自分の死体を見ることもある。水死したり、轢死していたり。そういう自分の死体をいつも空中から見ている。逆に夢の中の自分が地に足をつけて、死んでしまった自分を空中に見ることはない。

ナスカの地上絵は空にいるはずの死者たちのために描かれているのだ。お盆か何かで帰ってくるときの目印かもしれないし、単に楽しませるためかもしれない。その理由まではわからないけれども、意図は死後にある。

ただし、その絵を描いた人たちも生きているときに自分達の絵を夢で空中から見ているはずだ。巨大な絵を描くために設計図もあったろうし、イメージスケッチも作るだろう。それこそ、完成形と死者が見て喜んでいる場面を想像しながら嫌というほど下書きを見るのだ。そういう執念がこもった絵が夢に現れないわけがない。そして、死者といっしょに飛行しながら夢で見て、ますます自分たちの仕事の意義を深く感じいることになるだろう。

私はナスカの地上絵にこめられている思念をそのように読んだ。むろんそれが完全に正しかったとしても、ナスカの地上絵が作られた理由については何ものべていない。なぜなら、特殊な事象を一般論に還元しているだけだからだ。非常に特異で人の目を引く巨大な地上絵の作られた理由を死者は空にいるもんだとか、だれでも空を飛ぶ夢を見るものだとか言っても説明にはならない。人類普遍の心情から特殊な地上絵は生まれない。

異常なことの説明を普遍なことに求めるのは、思考力を有する者の間でもっとも恥ずかしいことだとされている。事象は疑いようのない事実としてあり、誰もがよく認知している理由を持ちだせば絶対に間違ったことにはならない。その説明に意味はないが過ちを指摘される危険はない。つまり相手にされないのだ。

テレビによく出るたぐいの解説者はそれを重々承知してあえてその愚をおかす。それはテレビというものの性格上、過激なことや容易に理解できないことは言えないからだ。つまらぬ矜恃を捨てて収入になればそれが何よりだ。彼らは小学生が殺人事件を起こしたりすると、子どもは命の重みを知らないとか個人と社会との軋轢とか埋もれがちな個々人の暗部であるとかそういう解説しかできない。これまでの歴史上、子どもが経験豊かな大人より命の重みを知っていたことはないし、サルの時代から個人にとって社会が安穏としたユートピアであったためしもないのに。

特別なことを説明するには特別な原因がなくてはならない。で、その特別なことの原因の原因も特別である。ただし、それがどこまでも続くようではいけない。どこでか普通のことに落ち着かなければならない。でなければ説明したことにならない。

水利農耕のための施設が制作者の思いもよらぬほど美しい幾何学図形を描くことがある。三瓶や八幡浜のみかん畑、能登の千枚田なんてかなりのものだ。星や月や太陽の観測のために引いた線分は必然的にきれいなリズムをもった図形になる。私はナスカの地上絵はそうした功利的なものが出発点だったと思っている。

あそこにある多数の絵は千年かけて、さまざまなレベルの複数の文明人によって作られたものらしい。最初は単なる競技コースだったかもしれない。マラソンとか競馬用に整備した道だ。飲料や農耕用の水路だったかもしれない。それが地震で水源が消失したり、都市が滅んだりすれば水がなくなって溝だけが残る。水を引いて作物を作り豊かになった都市では春分を決めたり、次の日食月食を計算するために天体観測を行ってデータを集めるようになる。地面に引かれた放射状やマス目の直線は天体観測の施設だ。そうした設備もデータが集まり暦ができたり、その意味を知る科学者がいなくなれば、当初の制作意図が失われてしまう。

文明は数百〜千年周期ぐらいで栄え滅ぶのが常らしい。もともとは科学的に意味のあった地面の溝も後世の人々にとっては何かよくわからぬ魔術的なものに見えるものだ。文明の滅亡と共に意味を失ったナスカの溝は、300年後の人々に謎の地上絵として受け取られるようになる。いまから2000年ほど前に溝を再発見した人々も、現代人と同じように悩んだに違いない。「この奇妙で巨大な地上図は誰が何のためにつくったのだろう?」

わけのわからない建造物をいぶかしがるのは今の人間も昔の人間も変わらない。昔の人はだだっ広い荒野に描かれた幾何学図形を見て、不思議に思っただろう。それをなぞって手元の紙に描き写したとき、意味深な模様が浮かび驚嘆したことだろう。それは空にいる者へのメッセージだと素直に思い至ったはずだ。そういう図形がある所は聖地に決まっている。あの世との接点であればメッセージを送りたいと思う。古人が描いた直線や放射線のかすれた痕をなぞってみれば、鳥とか虫とかが浮かんできた。自分達も「昔の」人間にならって、もっと愉快で美しい模様を作ろう。そう決心したに違いない。ひとたびそういう決意の元で何かが描かれたならば、いろいろな御利益や禍がその行為に付随して起こるだろう。そしてますます描画は盛んになる。

うわさはうわさをよんで、ナスカの近郊に住む人だけではなく、アマゾンや大平洋岸の住人もやってきたろう。なかには相当富貴な王もいて、死後の自分のためにひときわ美しい鳥を描かせたかもしれない。そういう文化は1000年にわたって南米に栄えたのである。


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