たまたま見聞録
見聞日記 天地無朋 2021

2021.1.1(金)晴れ ウイルス

普通の、しかもうんざりするぐらい憂鬱な夢で目覚めた。反対に天気はすばらしい。窓の外のヒマラヤスギからも澄んで乾いた空気がびんびん伝わってくる。

いまちょうどコロナウイルスのことが世間の関心事だ。普通にテレビを見ているだけで、ウイルスの知識が入ってくる。ウイルスは人体の細胞に入って細胞の機能を使って自分のRNAとかDNAを複製させて増殖させるという。

感染の過程でウイルスの遺伝情報が一部ヒトのDNAに入ることがあるらしい。宇宙人系のテレビ番組情報ではヒトのDNAは8%がウイルス由来とのことだ。

ウイルスもヒトもこの地球に38億年ぐらい生きて共に進化してきた。ヒトというのはよく物思う特殊な動物だが、その特殊性もウイルス由来かもしれない。ウイルスの遺伝子をもらうとしても、肉や骨を作る遺伝子は使いにくいと思う。やつらの体はウニの出来損ないみたいなんで人体を作るのに役立たないのではないか。心のほうなら使い道があるかもしれない。

私はDNAの遺伝子の半分は心の設計図だと思っている。一寸の虫にも五分の魂といわれる。虫の心は1.5cmだ。ヒトのDNAの長さは身長ぐらいあるらしいから、DNAの80cmぐらいが心を作るのだろう。

私が虫の心を考えるときに、念頭に置いているのが「巣の設計図」とか「指名手配写真」だ。ヒトでも虫でも生まれながらにして出会うべきもの、避けるべきものの手配写真を持っている。その対象に接したとき、善悪の感情が起きて近づいたり離れたりする行動を起こす。そうした機能が動物の進化に決定的な役割を果たすはずだ。心の設計図になるDNAがウイルスによって変化すれば、ニンジンを食べるアゲハができたりするんだろう。

もう一つの関心事は生まれかわり、転生というやつだ。それが事実であると認めると仮説をもつことすら難しくなる。そこに遺伝情報をコピペして運ぶウイルスを持ってきたとしても理解が難しい。事のややこしさがぜんぜん減らないからだ。

住所氏名電話番号なんていうパーソナルな記憶はたぶん神経の揮発性メモリだと思う。それがじつは不揮発性メモリということになる。DNAにある記憶子なるものに記述され、記憶子がウイルスに転写され、他人に感染させ記憶として読み出されるという綱渡りを想定しなければならない。ハリガネムシも顔色を失う絶望的な難しさだ。


2021.1.3(日)晴れ キアゲハ

キアゲハの誕生に関してはわかりやすい状況証拠が残っている。どうみてもあれはミカンを食べる普通のアゲハから分かれたものだ。逆は考えにくい。キアゲハからミカンを食べるアゲハが生まれ、アゲハからクロアゲハとかモンキアゲハとかナガサキアゲハとかミカンをたべる黒いやつらが生まれたというのが逆。可能性はゼロではないというレベル。

普通のアゲハは先進的だ。もともと熱帯の常緑帯を住処にしていたアゲハ類の中で、北を目指したのがアゲハだ。落葉広葉樹の林とか草原とかへのあこがれを抱いたアゲハチョウだったと思う。そのアゲハのフロンティアスピリットをより先鋭化したのがキアゲハだろう。あの姿をみればキアゲハの誕生はそれほど古いことでもないだろう。こう推理するのは簡単なことだ。

ただキアゲハはニンジンを食べるというのが問題だ。ミカンとニンジンは違う。レモンとカラスザンショウなんてもんじゃない。ミカンもニンジンも刺激臭があるってところは共通だが、進化的な親戚ではあるまい。キアゲハが生まれるにあたっては何か突拍子もないことがアゲハに起きたはずだ。

進化の根本原因は突然変異だという。ミカン嫌いでニンジン好きなアゲハが突然生まれることはままあるだろう。でもそれが繁栄するのはまずないことじゃないだろうか。ニンジン好きなアゲハが生まれ、ニンジン好きなアゲハと恋に落ち、ニンジン好きな子を産まねばならぬ。それも一回キリ、1匹のメスに起きた突然変異であれば1万個ぐらいは産んでもらわないと子孫は育つまい。

やはり同時多発的な突然変異が欲しい。ニンジンを食べることができるアゲハ群がある世代に誕生するか、またはある地域にミカンの臭いがするニンジン 群が誕生して欲しい。そこにウイルスの活躍を期待してしまうのだ。


2021.1.4(月)晴れ do as I do

「変化するものは生き残れない」というのが生命のセントラルドグマだと私は思う。虫の生活は融通がきかない。そのときどきの決まりきった行動をやってうまくいかなければあっさり死ぬしかない。その行動というのが繊細で複雑怪奇であるにせよ。

ベッコウバチやツチハンミョウを観察したファーブルは、ダーウィンの進化論なんて嘘だと断言した。虫の巧妙繊細な行動が徐々に成立することなど不可能だからだ。ファーブルの気持ちも言い分もよくわかる。ただ、虫が進化していることには全面賛成であるし、その行動もやはり徐々に巧妙になったのだと思っている。綱渡りのようなベッコウバチやツチハンミョウの行動がゆるやかに進化することもあり得ると思う。

ツチハンミョウは半原越にもたくさんいる。大きな腹を重そうに引きずってアスファルトを歩いている。腹の中には大量の卵が入っている。その数の多さは、子どもたちが生き残ることの難しさを暗示している。ツチハンミョウはハナバチの巣に居候してハナバチが貯めた食料を横取りする。ハナバチの巣に入るにはハナバチの体にしがみついて運ばれる必要がある。土の中で生れた幼虫はハナバチの来る花でじっと待機してハナバチが来たらここぞとばかりにしがみつかねばならない。蝶やハエにしがみつこうものなら死が待つのみである。そういう宝くじ目当てのような生き様だから大量の卵がいるというのだ。

私はこういう解説に対していくらかの疑問がある。ツチハンミョウの侵入を許すハナバチの種類は多くあるまい。もし盲滅法に花に登り、手当たり次第に虫にしがみつくようでは、1000や2000の産卵数でも間に合わないのではないか。目的のハナバチがよく訪れる花はけっこう限定的だろう。ツチハンミョウの子どもらは、ヒメジョオンならヒメジョオンで決めて待つほうがいい。ハナバチにはハナバチの特徴があろうから、そいつを選んでしがみつくのが良い。もしベニシジミにとりついたならば、その誤りに気づいて、ベニシジミが再びヒメジョオンの花に降りたときに花に降りて、再スタートをきればよいのだ。それぐらいのことができないわけがないような気がする。

彼らの母親は38億年を生き抜いたスーパーエリートである。母親の生き様をきっかりたどることが子どもたちが生き残る最大の秘訣であろう。腹の大きなツチハンミョウは、do as I do、私のやったようにやりなさいと祈りつつ産卵するのではないだろうか。


2021.1.6(水)くもり アレルギーと記憶

ツチハンミョウの母の願いは届くのだろうか。子が生まれるときに母はいない。ツチハンミョウの子は生れたら独り立ちだ。母もそうだった。育児期間のある動物なら教えることができる。しかし虫だとそうはいかない。かといって虫の子に試行錯誤の時間はない。一度の錯誤は即死であろう。ツチハンミョウの子は本能の命ずるままに草を登る。その草はてっぺんに花をつけていなければならない。花は蜜のあるものでなければならない。蜜はハナバチの好むものでなければならない。

このあたりでもう絶望的に思える。だがきっと子どもは花の蜜の匂いを感じているのだ。彼らの母は蜜のことをよく知っている。彼女は花の蜜を食べて育ったのだ。蜜の種類はいくつかあったろう。いずれもハナバチが好むものに相違ない。それを伝えられればどれほど子どものたちの助けになることだろう。

母からの伝達があれば子どもは自らの信じる「良い匂い」が来るところを目指して歩いていけばいい。もし良い匂いが母から子へ伝えられなければ、子は未更新の古い情報を手がかりにすることにもなる。明治の開国以来、日本の里には続々と植物が帰化している。その中にはハナバチの蜜源として大歓迎されるものもあるだろう。100年前の新参者のヒメジョオンなんてのはエース格ではないだろうか。ハナバチはすぐにヒメジョオンを蜜源にできる。ハナバチの親子には蜜情報が確実に伝わっている。その一方でツチハンミョウはヒメジョオンに気づかず置いてきぼりになる危険がある。周囲にはびこって良い蜜を出しているヒメジョオンを知らず、ハナバチがあまり来なくなった花で待ちぼうけをくらってるなんて寂しいことではないか。そんな状況を見れば天国の母は落涙するだろう。

母が食べて育ったヒメジョオンの匂いが子どもに伝わればとってもいいに決まってるんだが、さてどうやってそれを伝えよう。テレビから聞きかじった情報では、COVID-19のワクチンはRNAワクチンだということだ。スパイクを作っている蛋白質のmRNAを使って、ヒトのリボゾームで蛋白質を作らせ、アレルギー反応を起こさせ抗体ができるのだという。そういう仕組みがあるのなら、DNAを使わずともともヒメジョオンの蜜の記憶が遺伝できるのではないだろうか。蜜そのものがどんなものかは伝わらずとも、母親の卵細胞がヒメジョオンの情報を持てるならば、子はそれを手がかりに蜜源に向かえるかもしれない。


2021.1.8(金)晴れ 不揮発性記憶

私が確実と思っていることを整理すると、生まれつき動物の心は決まっている。虫もヒトも決まっている。ちょうど体の色形が決まっていると同程度には決まっている。どういう物が善で悪で必要で忌避すべき物でであるか、そういうことは学習なしで知っている。そして複雑な動物になるほど、そこに学習が乗ってくる。学習とは記憶と反射である。強固に決定している心に揮発性メモリとしての記憶が乗っかり、記憶と同時に反射が生じる。そうした心のアポステリオリな機能は、あくまで個々の中に留まり、画餅よろしく記号的にしか伝達しない。

それに相容れない現象が、転生であり移植による人格変容である。その他もろもろ眉唾物の中にも事実として考察すべき対象のものがあまたある。そして何よりも虫に見られる複雑怪奇な生態である。あれが私が考える程度の単純なしかけで進化しているとはとうてい思えない。

そこで命題となりうるものが、記憶とは触ることが可能な実体、端的にはタンパク質のかたまりとして存在しているのかということだ。脳の奥にそんなものがあるという噂を聞きかじったことがある。ただ私の情報源は宇宙人とかUFOとかのテレビ番組である。真に受けてばかりはいられないが、転生なんかを事実と前提すれば、不揮発の記憶を措定せざるをえない。不揮発性記憶なんかないというのが私の信念であるけれど。

さらに、その肉塊に記録されているデータはコピペによる移動が可能だ。ヒトが生まれ持った人格と経験による記憶がミックスされ保存されているデータが移動することを受け入れなければならない。移植による人格変容は、データが心臓、肝臓にもあることを示している。転生は体外に出て再び人体に入って行く必要がある。

昨今のウイルス騒動でウイルス様のものが記憶に働いていればどうかと思いついた。記憶が人体をめぐったり、ヒトからヒトへ移ることだってウイルス状のものを持って来れば説明がつく。不揮発性メモリが核酸の配列に変形され、ウイルスによって体内を回り生殖細胞にすら入り込み、挙げ句の果てには他人の細胞にも入り込み、脳内奥にある記憶塊に書き写され、脳神経によって読み出され、記憶と反射を作るのだ。

こう書いてる間は楽しいが、一方でジョルジョ・ツォカロスみたいじゃないかと眉に唾つける自分がいる。不揮発性記憶なんてものにたよらずに説明する方法はないものか。


2021.1.11(月)くもり オオカワヂシャにあらずんば

堰堤

昼頃から群青で境川。写真は境川にある宮久保橋の堰堤。もうおなじみだ。いまオオカワヂシャの繁茂が著しい。秋から冬にかけて大水がなかったせいだろう。まさに望月の欠けたることなし、オオカワヂシャにあらずんば水草にあらず、という様相ではある。しかし私はこの栄華がはかないものだということを知っている。オオカワヂシャは根ばりが弱いのだ。その危険を彼らは自覚していない。

現にしばらく眺めていると2つばかり根付きの株がぷかぷか流下していった。堰堤ではカモたちが盛んに採餌している。オオカワヂシャを直接食べているのではないのかもしれないが、引っ張られたり蹴られたりして抜けることもあるのだろう。

むろんこれは他人事ではない。人類の繁栄も1万年余の安定した気候のものだねだ。境川で夕立に相当する異変は地球に起きるだろう。いま地球が温暖化している。小惑星が衝突するかもしれない。銀河で起きたガンマ線バーストが直撃するかもしれない。それはきっと境川に豪雨が来るとおなじく地球に確実に起きることだ。

この堰堤にはオオカワヂシャの他に細い水草が毎年安定的に根付いている。何かの間違いで生えた水稲かと疑ったこともあるが、もっとポピュラーな水草のようだ。神奈川県の河川では同種らしいのがはびこっている。去年の夏に見物してきた綾瀬の蓼川では、オオカワヂシャよりも威勢がよかった。浅いところでは流れにたなびきながらアシカキのような水上葉を広げていた。こいつも堰堤に生えているからには謎の草に昇格だな。

今日は朝から雲が厚かった。雲が高いせいで放射冷却があったかもしれない。この寒波で凍っているスイレン鉢の氷は厚く正拳突きでは割れなかった。本気で叩いたわけではないけれど。

湘南とはいえ寒気のただ中だ。日がないとけっこう寒い。境川からは富士山がはっきり見えた。これほどよく見えたのは記憶にない。やはりくもりの日の山は近く大きく見える。富士山は4000mぐらいあるから、高層雲の高さも4000mぐらいなのだろう。富士山の高度までは湿度が低く冷たい空気が居座っている。その上に温暖前線手前の湿った暖かい空気が乗っかって雲を作っているのだろう。明日は確実に雨か雪だ。


2021.1.15(金)くもり 虫の短期記憶

虫の体はDNAの設計図に基づいて魔術のようにできあがっていく。卵の中で刻々と体が形になり幼虫がはい出してくる。幼虫は脱皮で姿を変え、変態して翅ができる。虫の体は繊細で精緻かつ力強い。あれだけすばらしい造形なのだからそれに見合うだけの心があるだろう。

心というものは多細胞生物の発生に伴って形成されたものだと思う。むろん単細胞でも感覚と行動を結びつける働きはある。体の中に入れるべき化学物質も分かるし、明るい暗いも分かる。だけどそれは純粋な反射というべきで、心があるようには見えない。

虫ぐらいになるともう心を認めざるをえない。虫の体には本能の核になるものがあるはずだ。それはきっとDNAの設計通りに作られる。感覚器が受け取った情報をもとに運動神経が手足を動かして生きていく。そしてプラスアルファがある。

クロアナバチは硬い砂地に巣を作る。どれだけの大きさの巣を作るかは、体の中にある設計図でわかっている。細かい砂、ちょっと大きい砂粒、それらをどう処理すべきかも知っている。もくもくと穴掘りを続ける。ヒトの子が近くでじっと観察してるのはちょっとだけ気になっている。穴掘りの途中で腹が減って蜜をなめたくなる。そのとき製造途中の巣をいったん埋めて、花に向かって飛んでいく。巣から離れるときにジグザグに飛んで埋めた巣穴の入り口を記憶する。ジグザグの振れ幅はだんだん大きくなって、ハチは花壇の方に消えていく。帰って来たときには巣の入り口でジグザグ飛行をする。ジグザグの振れ幅はだんだん小さくなって入り口近くに降りる。50年ほど前の千丈小学校での観察記だ。

実際は、離れていくことのジグザグ飛行の意味はすぐにはわからなかった。帰宅時の飛び方をみて合点がいった。ためしに目立つ目印を巣口のそばに置いて、ハチが留守をしているあいだに目印をずらしておくとハチは迷うことになった。それを見て、あのジグザグ飛行は場所を記憶するためだと確信したのだった。ちなみに、ちょっと目印をずらすぐらいだと簡単に見破られた。なかなか侮り難い。風で何かが飛んできたりとか、砂地の環境は変わるものだから、生半可な記憶力ではだめなんだろうと思った。

こうした短期記憶力は虫に普通に備わっているのだろう。クロアナバチのようにわかりやすくないとしても、それは多かれすくなかれ、存在しているはずだ。


2021.1.16(土)晴れ 脳

多細胞生物に神経の中枢ができたとき、もともと呼吸や消化のリズムをとっていた部分が本能行動を司るように進化した。感覚器と運動器官は直結され、その中心に神経中枢があった。やがて感覚器と中枢神経の間に脳ができた。脳は感覚器が捉えたデータを処理できる。記憶することもできる。

虫はほとんど中枢神経がつかさどる本能だけ生きているかのように見える。神経中枢が担っている反射を変えるのは簡単ではないだろう。それこそ本物の進化を待たねばならない。外見でいうと触覚の長さを2倍にして、4枚の翅を2枚にするようなものだ。虫はほとんど本能で生きているようだが、多機能な体をもち行動に柔軟さを持つことができれば、よりよく生きられる。私はヒトとして無反省にそう思う。

危機を回避する反射は古来から受け継がれている。善明川のハヤは私の影を感じてぱっと逃げる。なのに水槽の魚は私の影を感じて水面に寄ってくる。餌をもらえるからだ。もともと有していた反射を克服して条件反射を獲得し、より早く餌にありつけるようになる。さすがに魚類ともなるとたいしたものだと感心する。そういう柔軟な生き方ができるためには新しいことを記憶できる脳が必要だ。

ヒトぐらいになるともうわけがわからない。梅干しを想像して口が酸っぱくなるのは条件反射だ。もともと酸味は危険な化学物質が体に入ったことを意味したのだと思う。未熟な果実とか腐敗とか。元来の反射は酸っぱいものを避けることだった。それがヒトレベルになると、梅干しと酸味を連結し、食べて酸っぱかった梅干しを見ただけで酸っぱくなる。何度かその体験を積めば、梅干しを思っただけで酸っぱくなる。そのころには梅干しが危険なものではなくうまいものになっている。酸味にたいして唾液をだすのは純粋な反射であるけれど。


2021.1.18(月)くもりときどき晴れ 本質直観

神経中枢はDNAの設計図通りにできあがっていく。きっとタンパク質の小さなかたまりだ。そのかたまりは決まりにしたがって信号を伝達する。

クロアナバチが巣を完成させると、獲物探索スイッチがONになる。そのとき中枢はクロアナバチに飛行を促す。クロアナバチは飛行するうちに、草むらを視界に捉える。草むらは中枢にある草むらイメージと合致し、その一致によって草むらへハチを誘導する。

クロアナバチは苦もなく草むらに到達する。しかしその目的とか動因は意識していないだろう。無意識でも行動に差し障りがない。草むらに降りたとき、ツユムシ探索スイッチがONになる。視界にツユムシが入ってくると、ツユムシの視覚像は中枢にあるツユムシイメージと合致し、その一致によってハチはツユムシを狩る。

というようにクロアナバチの体には1億年にわたってエラーなく反復されている回路が組み込まれているにちがいない。それゆえクロアナバチは行動に迷いも誤りもない。なにしろその回路は感覚器と筋肉が直結しているのだから。

本能はヒトにも備わっている。哲学では本質直観とか純粋経験などとよばれる。ただし哲学は制度とか歴史とか文化とか、進化のふるいにかかってないものを問題にして袋小路に迷いこんでしまう。袋小路に入り込めることがまたヒトのいいところでもあるが。

クロアナバチは生まれながらにしてツユムシの本質を把握している。本質が分かっているから迷いがない。クビキリギスとアオマツムシはけっこう違う虫に見える人がいるかもしれない。クビキリギス褐色型とショウリョウバッタ褐色型とアオマツムシの3者で仲間外れを探せばアオマツムシを選ぶ人が多いかもしれない。それはツユムシの本質が分かってないからだ。みかけに囚われて本質が見えていない。30年修行して出直さねばならない。

じゃあヒトよりもクロアナバチのほうが圧倒的にツユムシ採りがうまいのかというと、そうでもない。アダムとイブ以来人類が地球にはびこっている事実が示すように、知恵ってのはなかなかバカにできない。そんないいものを使わない手はない。

クロアナバチにだって知恵の萌芽はあるはずだ。巣の場所を覚えるクロアナバチには脳がある。中枢神経の出先機関として記憶と判断をつかさどる器官だ。感覚と運動が直結する中枢神経は正確だけど堅苦しさは否めない。ツユムシ探しに経験と学習が加われば鬼に金棒だ。たとえば、クロアナバチにツユムシの鳴き声がわかる耳があるとする。1匹目のツユムシが見つかった草むらではツユムシの声がしていた。2匹目も3匹目もツユムシの声がする草むらでツユムシが見つかった。鳴き声のしない草むらではぼうずだとなると、4匹目は同じ草むらでもツユムシの声がするあたりで探すべきだ。というぐらいの知恵はあるんじゃなかろうか。すくなくともヤナギの下でツユムシが見つかれば、次にもその近くを探すだろう。

中枢神経には僥倖目当ての回路はないと思う。真昼のハンタークロアナバチはきっとツユムシの鳴き声の本質を知らない。脳ができてはじめて、視覚と聴覚を連携させて狩りの効率アップをはかれるのだ。


2021.1.20(水)晴れ 数

神経の中枢と脳は根本的には同じ材料で同じように作られていると思う。きっと見た目同じだろう。

脳はどうやって生れたのだろう。生物を取り巻く環境は複雑になってきている。5億年前にはその環境は海でしかなかったが、川ができ湿地ができ草原ができ砂漠ができ山ができ空ができた。そこに多種多様な植物があり、多種多様な動物が生まれる。まわりが複雑になれば、感覚器は高性能になり複雑な情報処理が必要になる。そういう加減で感覚の処理器官として脳が生じ発達してきたのだろう。

ただしヒトの脳ぐらいになると、それは環境への適応から逸脱したものだ。かつてキリンが長く伸びる首となんとかおりあいをつけて繁栄したように、ヒトも肥大化する脳となんとかおりあいをつけて繁栄しているのだろう。脳の肥大はおそるべき副作用を持っていた。文学的には、ヘビにそそのかされて知恵の実を食ったと表現されている。

古来仏教では5感に加えて第6感の「意」を立てる。そのへんが仏教のすごいところ。とことんまで人間のことを考えている証拠だ。「意」が見るのは自分だ。脳は中枢神経から生れたものであるけれど、中枢神経を見ることができる。長期記憶ができるようになる。反省があり見通しができて、持続的な自我というものが生れる。

数は本質直観として神経中枢に刻み込まれているのだろうか。きっと虫にはないと思う。私が見ている宇宙自然から自然数を見出すことができない。カントの言う分析判断に数はないだろう。数はありとあらゆる存在にとって本質ではないのだ。

たぶん動物は、中枢神経の回路の構造からはみ出だしてものを認識できない。それはヒトとて例外ではあるまい。なのにヒトの場合は数を扱うことができる。数学では目がくらむほど難しい数列を扱っている。その能力の根本を探ると、ヒトが本能として有しているのは1から5までの自然数と1/2、すなわち真っ二つということ、そして足し算という技術ぐらいだと思う。それだけ持っていれば、可能的に0も無限大も理解できるし、無理数も複素数も発明して、ありとあらゆる数列を発明できる。そこは脳の機能だ。中枢神経が複雑化する過程でなにやら不自然なことが起きたのだ。数は外の世界の物に入っておらず、脳は自己から数を発見したのである。

ヒトの心にはいつの間にか数が入っている。体の中にある数に照らして、外の物に数を当てはめることになる。数は数学という例外のない体系によって計算されるから、数によって現象の解釈が行われる。ヒトの神経には数のみならず、円や直線などの図形、言語としての記号が入っている。中枢にある基本の図形や記号はわずかであろう。もとはDNAの設計の中に組み込まれているはずだ。そのわずかな記号を頼りに無限といっていい記号を発明し扱える。

世界が複雑になり、認知が複雑になり、ヒトの神経が複雑になる。脳はもともと感覚をより便利に処理する器官だった。それが自己を感覚するようになって怪しげなことになった。心が太る過程で入り組んだ神経の回路に記号が滑り込んだのだ。


2021.1.23(土)雨 記憶

長期記憶はいわゆる脳ではなく神経中枢にあるのだと思う。脳にあるのはきっと短期記憶だ。短期記憶は揮発性ですぐに書き換えられ消滅しする。長期記憶のほうは消えない。コンピューターのアナロジーでいうとDVD-Rみたいなものか。そして記憶の領域は発生時に割り当てられていると思う。発生につれて神経中枢が形になって、大半が生命活動と反射をつかさどっているけれど、一部白紙の領域があり、そこが記憶領域だと想像する。

記憶領域の回路はできあがっている。構造はその動物固有の反射と同じだ。そこに何を対象として割り当て、どういう反応を起こすのかが経験的に決定される。鍵になる刺激と信号の流れかたが経験で決まるのだ。梅干しー唾液がひとたび条件反射となれば、その記憶領域は固定される。その部位にはその他もろもろの条件反射や習い性が記憶されている。消すのは容易ではないが、使われず放置されることもある。変更する場合は他の部分に新しい条件反射を作ることになる。癖を直すのが難しいのはこのためだ。

記憶領域のアナロジーがDVDと異なっているのは、常に読み出されていることだ。その動物は意識していなくてもいつも記憶は読まれている。生まれてこのかたの長期記憶は仏教の単位である刹那の間に読み出されるのだろう。

条件反射、習い性とはいっても、自動的に体や感情を動かすものだけではない。電話番号もそこにある。神経中枢の対象はもともとは見る、聞くなどの五感であるけれど、仏教でいう六感の意も対象だ。意が内包するものに記号がある。記号というのは、神経中枢に生まれつき書き込まれている、基本的断片が元になっている。直線の線分、曲線の線分、折れ曲がった線分、閉じた曲線、閉じた多角形という基本を組み合わせて視覚的記号ができる。その無限といっていい記号をつむぐのは脳である。脳で記号の組み合わせに意味を持たせる。記号を表象し、あるいは想起し、その意味を反芻し反復すると長期記憶として神経中枢に書き込まれる。電話番号もその一つだ。

脳は五感を通して外界を見るし、意で自分を見る。視覚を認知するというのは目に写った像と神経中枢の反射、条件反射、習い性、記号的な記憶なんかを一瞬のうちにごちゃまぜにして意識することだ。梅干しを食べても、見ても、聞いても、読んでも、想像しても唾液反射が起きる。


2021.1.24(日)雨のちくもり 春を感じた日

スズメガ

積雪の予報もあったが雨。夜明けに雨粒は小さくなっていた。それならと群青で境川にでかける。

ひさびさの本降りで境川は濁っていた。水量は普段の倍ぐらいだろうと、例の宮久保橋の堰堤をチェックすれば、オオカワヂシャの数がずいぶん減っているようだ。

小雨でも北風がありけっこう冷え込む。このぐあいだと道路にでる虫はいるまいと走っていると、左目の端にスズメガの幼虫が映った。いや、騙されてはいけない。犬糞だろう。蛾擬態とはいえただの犬糞ならスルーだ。しかし記憶像では体のシワが規則正しく、枝豆のような頭部もあった。ねんのために引き返しチェックすると、はたしてそれはスズメガの幼虫だった。

長く伸びて横向きに転がっている。完璧ではないが犬糞擬態といっていいだろう。死んでいるのかとよくよく見れば息はあった。歩くだけの気力はもうないと見える。蛾の種類はよくわからない。じつは境川でちょくちょく見ているスズメガではある。早春に見た記憶もある。エビガラスズメとかセスジスズメなんかとちょっとちがうライフサイクルのスズメガかもしれない。

それにしてもどうして冷たい雨の中を歩くことになったのか。昨日からの雨で隠れ家が水没して溺死を免れようとしたのか。

うまいこと犬糞に擬態して、カラスの目から逃れられる可能性は高いが、見つかればいちころだ。カラスといえば風切り羽に白い帯があるカラスを2頭見かけた。1頭は白がはっきりして滑空するとき白い点線がぱっと広がってなかなか素敵だった。見た感じ老成した個体だった。

2時間ばかり走っていると雨が止んだ。薄くなった雨雲の間から日が入ってきた。影を作るほどではなく1分ほどではあったが、はっきりと暖かさを感じた。短い冬が終わるんだと思った。この冬はずっと三寒四温だ。異常に暖かかった金曜日にはモンキチョウが飛んだ。あいつは昨日今日どうしてるんだろう。

帰路、オオカワヂシャを撮影してやろうと宮久保橋に寄ると川の真ん中にこんもりと緑の草があった。流下してひっかかったオオカワヂシャである。秋から冬にかけて隆盛の極みに達したもののちょいとした雨が命取りになる。祇園精舎の鐘の音が聞こえたような気がした。それを聞いたことはないんだけど。横浜市水防災のホームページで高鎌橋の増水データをみれば最大で50cmに満たなかったようだ。


2021.1.24(日)雨のちくもり 人格の移植

アメリカ製の宇宙人的テレビ番組で臓器移植を取り上げていた。ミステリーの調子で、心臓とともに人格も移植されたと騒いでいた。移植を受けたのは若いきれいな女性である。彼女は移植後になぜかDIYに目覚めたのだそうだ。それまで大工仕事なんか全く興味がなかったのに、移植後は棚を自作し、床の張り替えまでやってしまう。

彼女の中に入っている心臓はある中年男性のものだったという。警察官をやっており、趣味がDIYだった。その趣味が彼女に移ったのだ。番組では臓器移植で人格が移ることはしばしばあるといっている。

臓器移植に伴う人格のコピペは私にとってはそれほどミステリアスなことではない。俗な概念での心とか魂なんてものを引き合いにだせば不可思議かもしれない。二祖慧可は達磨に「不安な心をここに持ってこい」と言われ「見つかりません」とこたえるしかなかった。それいらい仏教徒は心という概念をふわふわとは扱わない。私は仏教徒である。しかも仏教徒である前に科学者である。

ヒトの表象にはなんらかの対象が必要だ。物を見るには目で光をキャッチしなければならない。同じくドキドキするにはドキドキする何物かからの信号をキャッチしなければならない。心臓は神経中枢からの特定の信号をキャッチしたときドキドキする。神経中枢から送られた信号は、目で見た物、耳で聞いた音、鼻でかいだ臭い、手の感触、脳の妄想などが契機となる。その信号が心臓をドキドキさせる。心臓は血液を運ぶとともに情動の臓器でもある。

そうして、ここからが仏教徒でない者には難しいのだが、人がドキドキするためには、まず心臓からのドキドキ信号を神経中枢が受け取らなければならない。そして中枢神経はその情報を脳にも送るのだ。中枢がドキドキ信号をキャッチし、その情報が脳に返ってきてはじめて、人は今見ている物は素敵なんだ、やばいんだと自覚する。ドキドキ信号を送るのは心臓である。意識されるまでに脳と中枢と心臓とのやりとりは何度か繰り返されるのかもしれない。こうやってテキストにすると長いが10刹那ぐらいのことである。

条件反射は筋肉だけでなく心臓にも働く。木材やペンキの臭い、電動ノコギリの音、釘を打つ感触、大工道具屋に並ぶ工具や板、そういうものが好ましいという条件反射のある心臓を移植すれば、同じ刺激に対して喜び興奮するのではあるまいか。それぐらいのことは想像に難くない。

妄想ではあっても臓器を移植すれば心も移植されると信じることはできる。問題は、同じような番組シリーズでやってた転生である。古代エジプト人がイギリス人として生まれ変わった。太平洋戦争時に小笠原で戦死した若い兵士がアメリカ人として生まれ変わった。そういう確からしい事例を事実として認めると事は絶望的にややこしい。物理的なコピペが見あたらないから。


2021.1.25(月)晴れ トビイロスズメ

スズメガ

写真はきのう見つけた犬糞擬態のイモムシ。種名を調べてみた。どうやらくすんだ色のトビイロスズメらしい。トビイロスズメは幾度か見ているスズメガだった。

2007年の夏には部屋で成虫が羽化している。それは玄関で拾ったサナギだった。過去の記録をひもとけば、いずれもひょんなところで出くわしている。

原色日本蛾類幼虫図鑑(上)を参照してみると、トビイロスズメは秋に幼虫が土にもぐり、そのまま越冬。夏に蛹化し夏に羽化するとある。幼虫越冬はスズメガとして特異らしい。

この情報は2007年に図鑑の同じか所を読んで得ていた。そのときは蛾の同定で、クチバスズメとトビイロスズメで迷ってトビイロスズメのほうが近そうだというところに落ち着いている。

鮮やかなグリーンが本来の体色だそうで、それなら夏に半原越と玄関先でみている。こうなると、昨日の出会いとか、3月に道路で幼虫を拾い、7月に玄関でサナギを拾うのもアリだと思う。ただ、なんであなたがいまここに?という謎は残る。


2021.1.27(水)くもりのち晴れ 生まれつきの条件反射

転生の問題は心の移植ほど簡単には解けない。電話番号ほかの個人情報を覚えているからだ。そのての記憶はささいなものである。ヒトが生きる必然と結びつかない。どんなヒトにとってもアポステリオリに獲得した条件反射に過ぎない。その条件反射は生まれつき覚えられる事だけが、脚色されて神経中枢のある決まった所に保存される。

いやいやながらも、記憶が保存されることを認めれば人から人に移せる可能性もゼロではない。しかし、電話番号の記憶の実体は何か? どうやって運ばれ、どうやって何年か後に生まれる少女の中に入るのか? というような難問が壁のように立ちふさがっている。

電話番号に類する条件反射を生まれ持っている人はいないはずである。生まれつき知っていることは反射だ。ただ虫ならばアポステリオリなはずの条件反射をアプリオリに身につけていると思われる行動を見ることができる。クロアナバチには寄生バエがいる。私もそれらしいのを2種類見ている。クロアナバチの寄生バエに対する反応が変なのだ。

ハエはクロアナバチのつかまえたツユムシを幼虫の餌にする。いわば横取りだ。ハエはツユムシを巣に運んできたクロアナバチにつかず離れずつきまとう。そうしてツユムシへの産卵機会をうかがうのだ。

クロアナバチは寄生バエを嫌がる。イライラした様子が私にもわかる。小さいハエに気づかないことはあるが、クロアナバチの態度をみればそいつが近くにいることが分かる。ハエがいると準備が整ってもツユムシから離れようとしない。クロアナバチはつきまとうハエに攻撃を仕掛ける。巣にツユムシを引き込むのも明らかに急いでいる。クロアナバチはツユムシを運び入れるにあたっていったん巣の中に入り、反転してから後ろ向きにツユムシを引き入れる。ハエはその隙に産卵したり、ツユムシといっしょに巣に入ったりする。

クロアナバチは寄生バエにつきまとわれると、一瞬の隙が命取りになることを知っているように振る舞う。その行動が私には謎だ。どうしてクロアナバチはハエが天敵だと知っているのだろう。知らないにしてもどうして防御行動をとれるのだろう。そんなことをいつ覚えるのだろう。


2021.1.28(木)くもりのち雨雪 

クロアナバチが寄生バエを嫌うのは本能としても一段高いレベルにある。寄生バエの脅威が間接的だからだ。捕食者の認知、獲物の認知なら直接的である。出会いは次の瞬間に命を落とすか命を拾うかになる。初めて出会う寄生バエを脅威と感じるためには、推論が必要である。ハエがつきまとっている→ツユムシを狙っている→産卵して横取りするつもりだ。しかしクロアナアナバチはこんな推理はぜったいにできない。

推理なしでも行動のアルゴリズムが動き出すのなら、その契機となる認知されあればよい。純粋な反射であれば、契機となる表象は「大きく速く近づいてくる物」などとはっきりしている。条件反射は心の構造は反射と等しいけれど、経験に応じて契機となる表象が育っていくという違いがある。私はクロアナバチは寄生バエに対する条件反射を獲得できると踏んでいる。クロアナバチの心にはもともと○○は避けろ、攻撃しろというアルゴリズムが書き込まれているはずだ。そして○○の中に寄生バエが入っている。問題は寄生バエがどうやって入ったかだ。

通常の条件反射であれば、寄生バエに接してなんらかの攻撃を受け「こいつはやばい」となる。そうした強く継続的な刺激をもとに記憶ができる。しかし、クロアナバチと寄生バエの様子は、生まれつきの仇敵にみえるのだ。

クロアナバチが寄生バエを警戒するのは、人間なら転生レベルの不可解だと思う。私が見ているクロアナバチが皆、寄生バエに獲物を盗られて死んでしまった誰かの生まれかわりというなら、そこに不可解はない。

クロアナバチは転生すると結論してもよいけれど、もっと心躍る解釈をしたい。きっとクロアナバチと寄生バエの間には犬猿の仲を築き上げた進化の歴史があるはずだ。それが電話番号を覚えて生まれてきた少女の謎を解く手がかりになるかもしれない。

もしかしたらクロアナバチが寄生バエを嫌うのはアポステリオリかもしれない。私が見ていたクロアナバチは寄生バエの臭いを記憶していた可能性がある。それなら寄生バエに接近されたクロアナバチは速やかに寄生バエに気づき警戒するだろう。そしてハエの臭いに伴う、姿、動き、音を知覚して、条件反射をより洗練させることができる。

寄生バエの臭いをファクターXとしてあげたのはクロアナバチが幼虫時代に寄生バエに会っている可能性がゼロではないからだ。同じツユムシに両者が産卵するので、2種のイモムシはツユムシ内で同居し喧嘩し仲良くサナギになる可能性もある。もっとも残念な観察者である私は、寄生バエの産卵したツユムシの成り行きを見ていないから、そういうことが本当にあるかどうかは知らないのだが。


2021.1.29(金)晴れ 

これら2種のハチとハエの共通点はツユムシを好むことだ。ツユムシとその類しか食べない。虫たちには偏食する者が多い。気の赴くままに何も考えずに生きていくことを信条としているかのようだ。成虫になって、いざ子どもの食べ物を探すときに自分の食べてきたものを探るようになっているのかもしれない。たしかに周辺にツユムシが多ければ、ツユムシと決めたほうが狩りも食べ方も安定できる。そしてますます偏食から逃げられなくなる。

私は寄生バエがクロアナバチの獲物を横取りしていると思っているけど、それは正しくないかもしれない。ちょっと歴史を遡って古生代ぐらいになると、今とは全然環境がちがっていたろう。虫を取り巻く環境はかなりシンプルだったはずだ。

おそらくそのときに寄生バエもいた。横取り専門家ではなく一途にツユムシを追いかけて卵を貼り付けていたかもしれない。すでにクロアナバチに産卵されているツユムシに卵を貼り付けたかもしれないし、逆にハエの卵がついたツユムシをクロアナバチが狩ったかもしれない。

クロアナバチには、ツユムシを入れる穴をもたない時期があったと思う。クロアナバチの行動は少しずつ複雑巧妙になったはずだから。もしかしたら麻酔もせずにツユムシの体内に産卵していたときもあったかもしれない。動かずごろんとしているツユムシはハエにとってもよい食べ物だ。そんなこんなでクロアナバチは獲物を奪い合う寄生バエのことを意識しはじめたろう。まだ鳥もおらず虫たちが虫の都合だけで生きていたころだ。


2021.1.30(土)晴れ リュウノヒゲ

リュウノヒゲ

すごくかっこいい群青で神奈川中流河川の旅。西に向かって走り出すとすぐに丹沢の峰が目に入ってくる。新雪が積もっている。このあたりからみれば大山が一番高く見える。しかし高いのは右手奥の山のほうだ。ふだんは霞みの感じなんかで何となくその標高差を感じるけれど、今日は雪の積もりぐあいで一目瞭然だった。

いつもの荻野川べりで昼飯。先週に草刈りが入ったようで、センダングサやクズがきれいさっぱり刈られている。私の指定席は青々した細い草が頼りなげに茂っている。ああ、こいつがここにあったのかと冬の草刈りで初めて気づいた。腰をおろすと2つばかり写真の青い実が転がっていた。

リュウノヒゲの実とはずいぶん親しい。最初に意識したのは50年以上前になる。裏の川と呼んでいた樽井川の土手で見つけた。当時樽井川の脇は水田だった。その水田の畦と土手が私の遊び場だった。土手の斜面はリュウノヒゲが密生し、気持ちよく転がることができた。子どもの目にもその青い実がとってもきれいに映った。そしてリュウノヒゲの茂みには、群青のハムシがいた。いつもいるから、その虫はリュウノヒゲを住処にしているんだと思っていた。青い実に負けないきれいな虫だった。

荻野川縁でセブンイレブンのおにぎりを食べながら50年前のことを懐かしく思い出した。アポロ11号が月に行った頃のことだ。50年後の私は、火星あたりの宇宙基地で働いているはずだったが、実際は東京の会社に通うしがないサラリーマンである。ちょっとばかり予定がくるったと苦笑するも、当時からすれば信じられないぐらい出世したのである。


2021.1.31(日)晴れ 条件反射の遺伝

得体の知れない何者かが触れて来た場合、びくっと回避行動をとるのは動物のさだめだ。これは10億年前の単細胞生物のころから引きずっている反射だ。

ツユムシの体の中は密だろうから、クロアナバチの幼虫は他のウジ虫と接するにちがいない。それは同種であったりハエであったりするだろう。いずれにしてもびくっとする。そして触れてきたものが必ずある臭いをもっているならば、それをファクターXとして条件反射にできるだろう。触れる前に回避するか攻撃するか、びくっとしたときの反射を接触以前に行うことができる。

問題になるのはその条件反射が遺伝してクロアナバチ全体に広まりうるかどうかだ。100万年後のクロアナバチが寄生バエが近づいてきただけで、その宿敵を認知できるまでに、条件反射が進化していけるかどうかだ。

触れてびくっとする反射と臭いを感じてびくっとする反射は構造的には同じである。表象が触覚であるか嗅覚であるか、どちらかを契機にするかの違いだ。反射の構造が生まれつきできているように、条件反射の構造も生まれつきできている。つまるところは経験でしか得られないファクターXの表象を生まれつき持てるかどうかだ。

その進化が突然変異によってしか得られないとすれば、どうしようもなくもどかしい。反射行動の鍵刺激となる表象はなんらかの未知な機構によって親から子へ伝わると思いたい。そこは私の希望的仮説だ。

さて、ヒトであるけれど、ヒトの表象は奇妙奇天烈である。ヒトには記号があり、その記号を脳が読み、ほかの表象とか記号とかまでミックスして条件反射を作る。簡単にいうと「梅干し」という字を見て口の中が酸っぱくなるようなことが起きる。

電話番号の記憶も、早い話が条件反射である。数字が表象として反射の契機として神経中枢に保存されている。神経中枢の回路はDNAの設計に基づいて自動的にできあがっているから、アポステリオリな表象はその回路にどう信号を通わせるかで決まると考えられる。もしそうであれば、記憶は遺伝しないし、ましてや赤の他人にスマホも電話帳もなしに転送されることはない。

転生を事実として認めるならば、表象を記憶子に転写し、記憶子が体外に出て、別の個体の発生に組み込まれてるとしなければならない。RNAウイルスみたいなものなら可能性はあるのだろうか。


2021.2.2(火)雨のち晴れ 昆虫の転生

昆虫にも転生、いわゆる生まれかわりが起きているのではないかと思いたくなる。そういう事例がアリや社会性のハチにある。

ミツバチの働きバチは花粉採集マシーンとしてものすごく良くできているという。NHKの番組からの知識でしかないが、体の構造から社会性からなにからなにまで、巣を作り、花粉を集め、幼虫を育てるのに最適化されているというのだ。そういう進化が適者生存とか自然選択とかで起きるとは思えないのだが、専門家には何か考えがあるのだろうか。

ミツバチは社会を持っている。女王は産卵、オスは交尾に特化している。そういう生態は数千万年続いているのではないだろうか。その間、花粉を集めているのは働きバチだ。働きバチの体や生態が、数千万年にわたって変わっていないというのは考えにくい。完璧な花粉採集マシーンになっているからには、それに見合った進化があったはずだ。

花粉集めに長けたハチが長生きし、繁栄し、その形質が子孫に引き継がれるというのは良く理解できる。ただし、ミツバチの場合では子を産むのは女王だけである。新女王も花粉集めをしないという。突然変異で花粉集めに適した体の働きバチが生まれることはあるだろう。しかしだからといって形質がうまく種の中に広がっていけるとは思えない。社会をもっているのだからビッグな突然変異なら行けそうだが、小さな体の構造変化なんて環境や運の中に埋もれ積み重ならないように思う。

ミツバチの例は、卵子精子を持つ者の獲得形質は子どもに伝わらないという進化論のセントラルドグマを補強するものだろう。しかるに働きバチが見事な進化をとげているのは、働きバチが働きバチへ時空を越えて転生したがためとしか思えないのである。


2021.2.4(木)晴れ 立春のクロナガアリ

クロナガアリ

今年はずっと春先のような天候だ。低気圧が次々に通過していって冬型が安定しない。最高気温が10℃を越える日が多い。

立春をすぎた今日は早朝に氷も張らず、日影になる地面も5℃以上になっていた。こういうときにはクロナガアリは地上活動をしている。けっこう働きアリが出てたものだから、セイバンモロコシの種をまくとすぐに運びはじめた。例年2月の終わりぐらいまでは巣の中に引きこもらない。

こうしてアリを撮ってみれば、そのまわりの雑草が目覚めたことに気づく。ドクダミの芽はずっと出ているし、ホトケノザやハコベ、タネツケバナなどの春に種をつける雑草も小さいながら芽は出していた。ただし12月から1月にかけて、その芽は動く気配がない。今朝は雑草の緑が増し大きくなっていることに気づいた。ささやかな庭の短い冬は終わっている。


2021.2.7(日)晴れ 春の半原越

半原越

河川が掘った崖に切られた急坂を登ると視界がぱっと開けた。写真は相模川から中津川に渡る丘からのぞむ半原越。工業団地と住宅地の中にぽっかり畑地がある。神奈川のこの辺はどこを走ってもうんざりする道ばかりなんで、こういうところが妙にうれしい。

半原越が通行止めになって1年以上。半年は崩れたまま放置され、半年かけて工事が行われ、工事完了から2か月が過ぎた。そろそろ開通しているかと、出かけることにした。

例の棚田脇に寄ってみれば、冬枯れの芝から赤い草が立ち上がっている。ギシギシかスイバか。春が来たんだと思う。山腹の杉は赤い。半原越に入るとニホンザルの群れがいた。道路脇の木に登って皮か冬芽を食べている。山のほうは餌が乏しくて里に下りているんだろうか。あと3週間もすれば、もっと柔らかくてうまいものがたらふく食える。もうちょっとのしんぼうだ。写真を撮ってやろうとカメラを持って近づくと警戒して木を下りた。半原越は保護区だが、ニホンザルは駆除の対象になっている。人間のことは警戒している。野生動物の正しい行動だ。

ゆっくり走って中間のゲートにつけば、相変わらず通行止めだった。いよいよその理由がわからない。行政の怠慢か請負業者の水増しか。つまらぬ勘ぐりまでしてしまう。そもそも今回の崩落は伐採のやり方を誤ったのではないか。かといって林道を自転車で走ったり山歩きで使ったりするのは筋違いだ。通るなということなら行くまいと引き返した。


2021.2.12(金)晴れ 虫と感情

一般的には鳥自身は飛べることなんて面白くもおかしくもないと思っていると考えられているだろう。飛行は生まれつきの能力で鳥ならば自動的にできることだから。飛ぶことそのものよりも飛んでやらねばならぬことが多いから。ちょっとでも体調を崩して飛べなくなったら俄に死んでしまうから。鳥にとって飛行はある意味無理強いみたいなものだろう。飛べずに生きていけるのならどの鳥も飛ばないに違いない。

こういう発想は人として普通かもしれないが、私はいくぶん違うんじゃないかと思っている。

鳥は飛べることがわかったときすごくうれしいんじゃないだろうか。彼らはヒナのとき飛ぶ親を見て育つが、やがて自らも飛行をするってことには気づけないだろう。月が満ちてうずうずしてあがいたらふわっとからだが浮く。もっとあがけばもっと浮く。そのとき鳥はどんな気分がするんだろう。サイボーグ009として生まれ変わったときの島村ジョーみたいな感覚だろうと想像する。

純粋な快楽とは、生物が身の丈に沿ったナチュラルな行動をしたときのご褒美だ。それは生きとし生けるものが神からタダでもらっているご褒美だ。それは人も鳥も虫も変わるまい。サナギに入っている虫が羽化したときはやっぱりぞくぞくしてるんだろうと思う。


2021.2.14(日)晴れ 水草鑑定力

謎の草

最近の荻野川はお年寄りで混雑している。川辺を歩く楽しさが浸透しているみたいだ。川辺の散歩と言えば魚の観察だろう。残念荻野川ではまだハヤの姿が見えない。もうちょっと暖かくならないとダメだろう。この季節には小魚も深みにひそむのだろうか。この辺でハヤが見つかるのは善明川の水路だけだ。善明川は豊富な湧水が作る川で水温が高いことが予想される。

写真は荻野川の支流にあたる水路。200mほどの短い溝にすぎないが、水源は崖の湧水が100%である。わき出し口は親水公園的なものになって水芭蕉?みたいな枯れ花もあった。いろいろ手を入れてるんだろう。梅雨時にはゲンジボタルがわくらしい。

この水路のことは以前から知っていたが、観察することはなかった。荻野川が混雑するもんで少し逃げたのが幸いした。水路を覗いてみれば、ほうぼうで見かけるけれど名称がわからない水草が3つ4つあった。こういう溝でも湧水ってのはたいしたものだ。

今日の写真で水上に茂るのは元祖謎の草である。こいつがでんとあるのはちょっとうれしい。その手前の水上草はクレソン。思えば多摩川の堰堤で謎の草を発見してから20年以上が過ぎている。その間にずいぶんいろいろな水を覗いて水草を調べたつもりでも水草鑑定力はついてない。そもそも謎の草がまだ謎の草なのである。


2021.2.16(火)晴れ 夢のような夢

夢みたいな夢を見た。青春恋愛ミステリー冒険物である。

私の映画がクランクアップの日を迎えた。主演は私と広瀬すず。すずちゃんはとっても素敵な女の子だ。こんなに気分良く芝居ができた経験はなかった。だが、撮影が全部終わって、じゃさよならとわかれるとき私は彼女の異変を見逃さなかった。「そんな足だと、立っているだけでつらいだろう?」と声をかけた。彼女の両足が水ぶくれのように赤く腫れ上がっていたのである。それでも彼女は「ぜんぜん、たいしたことない」と軽くこたえて確かな足取りで歩いていった。その後ろ姿がプロのオーラをまとって力強く美しかった。

撮影も終わったってことで古い友だち連中に合流してちょいとした冒険。謎を追い求めて枯れ野を駆け回る。一度は罠にかかって崖から500mほど転落するところだった。映画じゃないんだから転落はまずい。ただそこは勝手知ったる八幡浜の山中のこと、抜け道は先刻ご承知なのであった。

映画の編集が終わって試写会が開催されるらしい。夜の電車に乗ってガールフレンド同伴で会場に向かった。「いまちょっと終電早いから乗り次も要チェックだよね」とにこやかに話しかける相手はガッキー、新垣結衣である。かわいくてもうかわいくて。試写会がはじまっても愉快で楽しく彼女のそばに寝ころんでけらけら笑っていた。

まさに脳天気ここに極まれりといった長い夢だった。私はこういう夢みたいな夢はまずみない。これまでで3回もないと思う。今朝ほどの高揚感も覚えがない。目を覚まして狭い窓から見る空のその青さだけで快晴だとわかった。7時半にもなるともう陽は高い。


2021.2.18(木)晴れ クワガタ動く

クワガタ

今朝はまた冷え込んでスイレン鉢には厚い氷がはっている。過去には2月中ずっと氷が解けなかった冬もあった。今年は冷え込みが不安定だ。週末はまた春の陽気になるらしい。本格的な三寒四温か。

夢はいつもどおりの不愉快なものだった。中東の戦争に傭兵として加わり自動小銃を撃ちまくったり、専門学校か大学に入学したものの、あそびほうけて勉強が全然できてない。優秀な学生に試験問題を見せてもらったが、解答どころか問いすら読み取れなくて途方にくれた。

とりとめなくも殺伐とした気分で目を覚まし、まだ明けやらぬ空を見た。

寒い日もあるけれど、ペットのクワガタは2週間ほど前には動き始めている。この部屋は午後には西日がはいってけっこう暖かくなる。それでクワガタの目覚めが早かったのだろう。黒砂糖をやることにした。

いま飼育しているのはコクワガタのペアだ。去年の夏に連れてきてそのままになっている。このまま夏まで生きれば卵をとってやろうか。最近ではクワガタの産卵床まで市販され、通販で買える。しいたけのほだ木の終わったやつでいいんだが、つてがなく入手は難しい。25年ほど前になるか、オオクワガタを孵化させたものの、サナギまで育てることができなかった。当時は幼虫の餌なんて売ってなかった。


2021.2.21(日)晴れ 八瀬川

八瀬川

気温が高い。風もない。群青で相模中流河川の旅。

昨日も気温こそ高かったが風が強く虫はあまり見あたらなかった。今日はチョウが多い。キタテハがやたらと目立つ。目立たないのはウラギンシジミとかテングチョウ。モンキチョウはけっこういた。「トンボ池」というすてきな名前がついている残念な池を見物しているとキチョウがいた。

相模川の支流にあたる小鮎川わきの畑にモンシロチョウがいた。私にとってはちょうちょといえばモンシロチョウ。キングオブちょうちょといって過言ではない。とりわけ2月のモンシロチョウには心が躍る。

自転車をとめ畑の小道に入ってTG-5で撮影を試みた。遠目にもモンシロチョウという確信はあったが、もしかしたらモンキチョウかもしれないのだから。畑にはちらほらキャベツや菜の花がある。その蝶はちょっと見慣れない作物に執着をしめしている。モンシロチョウが執着するならきっと収穫後に捨て置かれているブロッコリーだろう。メスなんだろうか。撮影はうまくいかなかった。遠いことにくわえ元気が良すぎる。羽化したて、20℃無風とくれば心躍るだろう。こっちもそうだ。

きまぐれに相模川にそそぐ八瀬川を訪ねてみた。変哲もない小河川であるが、知る人ぞ知る清流らしく原生林を流れる自然河川・・・という噂がある。確かに相模川の崖は開発の値打ちがなくて放置されている。崖からは地下水がわき出してくる。根も葉もないほらばなしではない。

八瀬川を渡る橋にはこの20年ぐらいで100回は通った。川を覗いてカナダモとかクレソンが茂っている透明度の高い流れだと知っていた。それだけといえばそれだけなんで定点観察はしてこなかった。自転車だと近づくのがちょっと面倒だから。

未舗装で泥と小石と雑草の道をよたよた走りながら、八瀬川のよどみを覗くとけっこうな数のハヤがいた。その姿からウグイの若魚かと思う。1頭だけカワムツも確認できた。川幅と水深があるところでは、なにやら水面に波紋が広がっている。ハヤがジャンプしているのだ。跳んだ先に小さな虫がいた。ユスリカだろうか。どうもそれを狙っているようだ。魚がつぎつぎに水面から跳びだして波紋ができる。運良く虫の羽化のタイミングにあたったようだ。


2021.2.27(土)晴れ お花畑

ホトケノザ

朝、わりと遅めに目を覚ました。日はすでに昇って窓の外のヒマラヤスギを黄色く染めている。布団の中で音を聞いているだけでもかなりの風が吹いていることがわかった。ヒマラヤスギの枝は台風時のようにごうごうと激しく揺さぶられている。

この風なら境川だなとツーリング仕様のナカガワで出かけることにした。良く日は照って寒くはないが、風が強い。空気が霞んでいる。まとまった雨の日があったからオオカワヂシャはもうあるまいと、宮久保橋から覗けば、堰堤にはオオカワヂシャのおの字もなかった。ヤナギゴケもはがれてコンクリがむき出しだ。

空気は霞んでも富士山はよく見えた。見える範囲全部が冠雪している。一年で一番雪が多い季節だ。富士山ポイントを少し過ぎたところに赤紫のバンドがあった。2枚の畑がホトケノザの花に覆い尽くされているのだ。壮観さにときめいて撮ったのが今日の写真。ホトケノザはこうして畑を全体を覆うことがある。これまでに二度ばかり近所の畑で見てきた。

ホトケノザはそこかしこで真冬も花をつける一般の雑草で、赤紫の絨毯は貴重な早春の彩りだ。普通は畑を覆う雑草ではない。この畑はなにがしかの条件がホトケノザにマッチしたんだろう。その条件の見当はつかない。手をかけてやろうとしても難しいはずだ。まさかレンゲのように種を蒔いて肥料にするわけではあるまい。この畑が耕作放棄地でないことだけは分かっている。写真を撮ったときに背の高い雑草がないことを確認した。しかも、午後に再び通りかかったときにはこのお花畑は跡形もなかった。耕耘機が入ったらしくホトケノザは褐色の土に鋤込まれていたのである。


2021.2.28(日)晴れ 半原越のブナ

ブナ

そろそろ木の花が咲く頃で、早春の半原越を見ておきたいとナカガワででかけた。

31分!かけてゆっくり登り、何回かハーフをやった。さすがに半原越の春はまだ浅く、鮮やかな木の花はフサザクラぐらいのものだ。ハンノキも咲いているけどキブシはまだだ。緑の芽吹きはちょろちょろ。林床の芽吹きはなくスミレなんてぜんぜん期待できない。

葉をすっかり落とした広葉樹の中で枯葉をびっしりつけている木があった。ブナ科の木はけっこう葉を残す。半原越でもコナラなんかで枯葉がいっぱい落ち残っている木がポツポツと見つかる。その木がコナラではないことは遠目にもわかった。樹勢も葉もブナかイヌブナなんだが、半原越でブナは見つけていない。峠を越えた所にある厚木高校の広場のブナは植栽されたものだろう。もし写真の木がブナならかなりうれしい。

自然森の散策は最高の遊び、キングオブ遊びである。地球上の森で最高にきれいなのは東北のブナ林だ。5月の連休のころ、ブナは残雪深いなかでいち早く新緑に萌える。東北で遊びまわっていた45年ほど前の私は、スマトラやアマゾンならもっときれいな森があるだろうと思っていた。いま思えば東北の山々のあの美しさはただものではなかった。ただしああいう場は近寄りがたい。技術的にも体力的にも厳しいのだ。もう訪れることはかなわないだろう。

私の生活圏で見物できるブナは半原越からはるか数キロ先にある丹沢の斜面の数本だ。新緑になるのはまもなく、3月の終わりころだろう。


2021.3.1(月)晴れ アオジ

アオジ

庭にスイレン鉢を置いてマコモやセリを栽培している。収穫が終わった今は雨水が貯まるままに放置して野鳥の水浴び場になっている。

写真のアオジはキジバト、ヒヨドリに並んで庭の常連だ。庭で種をつつくほか水浴びをしていく。人への警戒心は小さく、12月にはクロナガアリを撮っているそばに近づいてきていた。

クロナガアリは地上活動をやめて、庭の観察は早朝に2階の窓から覗くだけになっている。それでもかなりの頻度で鳥の水浴びを見る。アオジが2頭で来たのはこの冬はじめてだ。

彼らは北帰行をはじめるころだ。こいつらは一冬このあたりに居座った連中だろうか。もっと南まで行ってたのが生まれ育った大陸に帰りゆく途中だろうか。2頭で仲良く現れたところを見るとカップルなのかもしれない。


2021.3.6(土)くもりのち晴れ 花盛り

水路

天気予報ではくもりで雨もあるかもしれないといってたので群青で境川。人出が少なかろうと思ったのだ。

写真は継続観察しているセブンイレブン裏の水路。ちょうど四季で最高の花盛りを迎えている。ホトケノザ、ムラサキケマン、ナズナ、ハコベ、カラスノエンドウ、セイヨウタンポポなどの早春を彩る雑草たちだ。どこにでもいるんでここにもいる。

カラスノエンドウにはすでにアブラムシがびっしりたかっている。ならばとヒラタアブもテントウムシもやってくる。緑濃くなったギシギシにコガタルリハムシが20匹ほどいる。メスの腹ははち切れんばかりだ。卵もいっぱい産み付けられている。ベニシジミも来た。春のベニシジミはとってもきれいだ。モンシロチョウはタンポポで吸蜜している。タンポポがいちばんいいらしい。そこにもう一頭のモンシロチョウがからんできた。やってきたのはオスか。ぐるぐると低く回ってあっけなく交尾が成立した。うまいこと枯葉の上に止まったのを撮影。「何撮ってんだよ」っていう写真になった。そのあとカップルはホトケノザの茂みに移り10分以上交尾を続けていた。

この場所は季節が進んでもこれ以上華やかになることはない。花の種類が変わるだけだ。いずれ地味な花ばかりである。

自転車は回す練習。うまい案配に北からの風がゆるく吹いて回す練習に好都合だった。(1)甲、(2)足裏、(3)踵の3つのポイントに同じ感触で力がかかるように。左右の足がばらばらにならないように。これはとっても難しいプロの技だ。

帰宅するとサンショウが葉を広げようとしている。まもなくアゲハとの熾烈な戦いが始まるのか。


2021.3.12(金)くもりのち雨 自転車靴

ビンディングシューズ

ツーリング仕様ナカガワにはMTB用のペダルをつけている。シマノの古いXTRだ。それをルック式のビンディングシューズにはめるためにアダプターを使っている。SH-SH41っていう、まあ三角形の鉄板だ。これがまたツーリングには具合がよくて、本家のルックはいらないんじゃないかと思える。コンパクトではめやすくて外しやすくて歩きやすくて安い。自転車パーツ界の吉野屋といって過言ではないだろう。

こうやって遊んでて気になるのは、そもそもビンディングシューズって間違ってない? ってことだ。何年か前に、自転車のビンディングシューズはフリーサイズか、S.M.Lぐらいになるだろうと予言した。その予言はまったく的外れだったことは誰もがご存じである。

この概念図は私が考案しているビンディングシューズである。ピンクのかかと、青い甲、緑のつま先の3パーツで構成される。それぞれは靴底のボルトで調整固定する。こうすれば、靴のサイズは不要になるばかりか、クリートの前後位置の調整も不要にできるだろう。

現行のビンディングシューズの欠陥は靴底のサイズ&形状が固定されて硬すぎることである。そのためにライダーは自分の足の形状にあった靴を探し回るか、あきらめて合わない靴を使うかになっている。靴底で硬くなくてはならないのはクリートのつけられる部分だけ。かかととつま先も硬くなければならないと思っているのは、市販の靴がうまくフィットして何も考えなくて良い幸福なライダーである。

つま先の形状が人によって大きく違うことは衆知である。靴選びの難しさの過半がそこにある。つま先だけオーダーできればどれほどいいだろう。足の長さと幅の比率も人によって大きく異なる。幅の狭い靴は総じて短いってのはコントの一種だろう。

自転車の靴で力が掛かるのは、かかと・甲・クリートの3点である。力を受けるこの3か所はしっかりしておく必要がある。そして力のかからない部分は柔軟でかまわない。サイドの強度は自転車には不要だ。つま先も事実上不要だ。ランニングシューズ等はつま先で蹴るし、足指保護の点でも重要だ。自転車の場合はつま先が必要なのはペダルから外して足をつくときだけだ。

ビンディングシューズは踏む所が1点限定でクリートと甲は上下に力がかかる。図の青パーツはしっかりしておかねばならない。ピンクのかかとは後ろに引く必要があるから、ベルクロなりなんなりで青パーツに調整固定しなければならない。緑のつまさきは防寒とか汚れ防止にあったほうがいいだろう。ただしあくまで柔軟に。前方への支えは必要ないからしなってもかまわない。「つま先進む君」などとほざく漫画は無視しよう。そしてつま先の底はソフトに。アスファルトに足をついたときに滑ったなんてことがゆめゆめないように。ついでに私は地面の虫を撮影するときに土下座スタンスをとるので、ビンディングシューズのつま先が泥だらけになってしまう。あれが掃除しやすいといいなと思っている。

クリートを釘で靴底に打ち込んでいた大昔デザインからぜんぜん進歩してないのは経済的な問題なのだろう。ビンディングシューズの開発者は2つか3つのパーツに分けるほうが合理的なことぐらい30年前に気づいているはずだ。わかっててやらないのは売れる見込みがないからだろう。一般に靴には靴のイメージがあり、自転車専用の靴とはいえ、常識から逸脱していては売れないのだ。


2021.3.13(土)雨 春雨の境川

遊水地公園

天気予報によると今日はけっこうな雨。昨夜から雨になっている。ということで群青で貸し切り状態の境川。写真は鷺舞橋からのぞむ境川遊水地公園。いち早いヤナギの新緑は春の希望だ。札幌でも創成川のヤナギが緑になるとうきうきした気分になった。

春雨なんで道路に出てくる虫はいないだろうと期待はしてない。こういうときにもスズメガの幼虫が何回か見つかった。何らかの必然性はあるだろうけど毎回期待してはいけない。見つかったのは大きめのトカゲが1匹だけ。道路の真ん中で伸びていた。すでにカナヘビも見ている。ヘビの活動も始まっているのかもしれない。

自転車は引き続き回す練習。雨の境川はそういう練習に最適なのだ。やや強い北寄りの風をうける。ということは寒冷前線は通過したのだと都合良い解釈をしていると豪雨。雷も鳴り出した。開けた道路で雷は恐い。練習半分で逃げ出した。

帰宅すると湘南に洪水警報だという。サイクルコンピュータbrytonのデータを見ると、登っていることになってる。これはエラーではなくて気圧が急激に下がったからだ。寒冷前線の中を走ったのだろう。ひさしぶりの豪雨が楽しかった。


2021.3.17(水)晴れ 難所

トンネル

相模川中流河川の旅にもいくつか難所がある。写真は屈指の難所である。

これは相模川の右岸の田んぼの道をいい感じにまっすぐ走っていると出くわすトンネルだ。トンネルの上は神奈川の大動脈である246号線(たぶん)が通っている。きっと246号線が整備されたときに、従来の道がちょっと狭くなって残されたのだろう。車は入れないし、人もたいていは屈まないと歩けない。自転車で行く者はいるようだ。自転車のタイヤ跡は数本ある。その中の2本は私のものだ。残りは2種類あるから、13日の雨の後、少なくとも3台の自転車が通ったのだろう。

自転車でも普通に入ると顔面を強打する。私はロードレーサーが下りで使うエアロポジションの格好でペダルを回さずに通ることにしている。中は砂利で排水が悪く雨後には大きな水たまりが残る。テクニカルな区間である。

技術面だけでなく精神面でも試練だ。この中を走りながら、何度か「どこまで頭を上げられるだろう」と試してみたい誘惑にかられた。やると頭を擦ることになり、走行中は意外に強打になるから、皮をはいで禿になる恐れもある。

むろんここを抜けなくてもちょっと回り道をすれば自動車も通れるトンネルはある。しかしそれは圏央道を作るときにこさえた道だ。そういうものは代替手段がある限り使いたくない。246以前からの歴史あるこの道のほうが楽しい。


2021.3.20(土)くもり時々晴れ 毛虫に一本取られた

毛虫

今日は春分。一年のはじまりのめでたい日。これからひと月あまり、草木の表情は日々変わる。群青でなじみの野山を回ってきた。

里の方では山桜が満開だ。標高500mの半原越の上のほうは満開にもうちょっとかかる感じ。半原越は前に来たときとはまったく景色がちがう。キブシもハンノキも花の盛りが過ぎている。やたらと花の多いヤブツバキがあった。これまで気づかずスルーしていた木だった。足元にはタチツボスミレだけでなく、マムシグサやクサイチゴの花もある。遠く丹沢のブナはまだ緑になっていないようだ。霞んでよく見えない。

半原越のついでに鳶尾山も登った。登りの途中、いくつか名称不明の花があった。とりあえず撮影だけはしておこうと下りながら撮った。

今日の写真はキランソウ(のちにジュウニヒトエと判明)っぽい花芽を食べている毛虫(のちにクワゴマダラヒトリと判明)。こいつには一本取られてしまった。じつは撮影しているときに、こいつの存在にまったく気づいていなかったのである。擬態術としてはたいしたことないが、この季節に立派な毛虫はノーチェックだった。できあがったこの写真が見事な毛虫写真だけに、こりゃおっちゃん一本取られたな……という心境だ。


2021.3.27(土)晴れ 春の鳶尾山

鳶尾山

鳶尾山の道はアオキやヤツデがきらきら光るすてきな道だ。880mの坂を9回ほど登った。

いま春もさかりで道ばたには花が咲き乱れている。目立つのはタチツボスミレのはずだが、どうも怪しい。遠目にはタチツボスミレに見えるのが、エゾムラサキかワスレナグサかの類だったり、白い別種スミレだったり、タチツボスミレに似ているのがちがうスミレのような気がしたり。先週はキランソウだとしたのが、どうやらジュウニヒトエだったり。

そのジュウニヒトエに知らぬ間に毛虫がついている写真を撮って、毛虫が花芽を食っているのだろうと思った。しかし、当該の花をしっかり探してみても食い跡らしいものがない。もしやただそこにいただけなのか。虫の行動を見損なうことが多い。花も似たヤツとか変異とかあって種名の特定は困難だ。がっかり、しょんぼりが頻発する。だから面白いと思えたのが遠い昔のようだ。

雑草はともかく、登る練習はしっかりしなければ。26×21Tを使ってきれいに回す。平均rpmが60ぐらいになるんで23Tのほうがいいかもしれない。じつは23Tだと思い込んで21Tを使っていた。気づいて最後は23Tを使った。普通に走って最後のタイムが一番良かった。

登る速度はたいへん遅いが、鳶尾山ならそれでもいいと思える。山中の細道でオートバイ、自動車は少ない。自転車も物好きしかいない。散歩する人は多くTTはできない。登坂速度をなんとしても上げようと思っていたのは遠い昔のようだ。

もう帰ろうかと下っていると、若いアオダイショウが道路を横切った。これでまたすこし鳶尾山が好きになる。


2021.3.28(日)くもり時々雨 痕跡

痕跡

道路の轢死体には原形を留めていないものが多い。幾度も轢かれるとロールシャッハテストのように、ないもの探しをするようになる。カエルの産卵場所の付近で、その季節となれば影はカエルだろうと想像がつく。秋だとカマキリが多い。というようにあたりをつけつつ破片を探れば主がわかることがある。ただそういうものを突き止めても虚しい。レア物でなければ見て見ぬふりをすることになる。

写真のようなものはスルーしてきた。「お!イモリ」と20年ぐらいも騙されてきたからだ。神奈川のイモリ生息状況は世界中のイモリ好きの関心事なだけに、こういうのが果物なんかだとがっかり感が大きい。しかし去年には立て続けにイモリの死骸が見つかった。それでこいつを見つけたときも、ブレーキを引いて引き返した。かすかにイモリの雰囲気があるのだ。

しかもこの場所はささやかな沢の近くである。沢の脇には湧き水らしきものがあり、クレソンなんかが茂っている。ここから半径5kmで死骸が見つかったからには、この流れがイモリの生息地でも不思議ではない。

念のためにアスファルトからはがして調べてみれば、やはりイモリの轢死体ではなかった。生物ですらなくプラスチックか塗料のようなものだった。もともと期待は薄く、がっかり感もなかった。そればかりか、もしや何かのお導きかもしれないと、そばの流れにイモリの生体をしばし探ってしまった。


2021.3.29(日)晴れ メダカ

ヒメダカ

今朝、スイレン鉢に5匹のメダカの生存を確認した。脱落者をださずに越冬したことになる。メダカってホントに強い。

毎朝二階の窓からスイレン鉢を眺めていて、メダカがいるような気がしていたが、真剣には探さなかった。庭の花なんかをチェックしていてスイレン鉢で何かの素早く泳ぐ気配を感じていたが、真剣には探さなかった。

スイレン鉢のメダカは愛玩用ではなく、消耗品扱いだ。ボウフラの発生をおさえるために投入している。夏場にそこにおればよい。水替えとか餌やりとか世話らしいことはあまりやらない。卵をとって増やすこともしない。落ちたら近所のホームセンターで買って追加だ。

スイレン鉢での飼育と増やし方は知っている。10年ほどは累代飼育したことがある。メダカがかわいくないわけではない。

メダカは大好きな魚だ。子どもの頃はひとときあこがれの対象ですらあった。八幡浜の千丈小学校付近はメダカの生息地ではなかったからである。私の守備範囲の水系は山間地の渓流という様相でメダカやフナの生息に向いてない。

小学生の私はメダカが欲しかった。テレビや授業で情報だけは得て、実物をこの手の中におさめたかったのだ。自転車が乗れるようになると、松柏中学、江戸岡小学校あたりまで遠征して噂を頼りにメダカを探した。幸いなことにあっけなく見つかった。半世紀前の当時は田んぼやレンコン畑、住宅の排水溝のゴミだらけの浅い水にすらメダカが群れていた。千丈川の本流でもよどみの岸辺にメダカがいた。

アウェーのフィールドからメダカを採ってきて小さなプラケースで飼った。田んぼの泥を入れオモダカを植えメダカを泳がせた。書物によると、メダカは池沼では群れるけれど、水槽に入れると縄張りを持つということだ。たしかに、餌として与えるゆで卵の黄身を落とす所に一番大きな個体が陣取っていた。そういうことを追試できただけでうれしかった。私は魚が泳ぐ姿を見ていると普通に3時間、4時間が過ぎるという特異体質である。メダカの水槽はベッドの脇の椅子の上に置いていた。寝ながら間近で眺めるためだ。

ある夜、寝ぼけてベッドから転げ落ちた拍子に水槽を倒してしまった。10リットルに満たない小さなプラケースとはいえ、畳は泥と水をかぶって水たまりになってしまった。すぐさま何事かと母が飛び込んできた。これこれこういう次第だと状況を説明する私を母は叱りもたしなめもせず、魚の命を気遣った。

父母は厳しく、よく殴られた。ただし、この手のことで叱られたことはない。それだけに、自分でも内心悪いとわかってしでかしたやつのげんこつは効果抜群だった。八幡浜にはすでに田もレンコン畑もない。私がメダカを採った数年後に溝がいっせいに死んだ。いまにして思えば合成洗剤、水洗トイレの普及が原因だ。あのへんのメダカは絶滅したろう。


2021.3.31(水)晴れ 春のクロナガアリ

クロナガアリ

昨日の朝庭に出るとクロナガアリの巣のまわりの様子が変だった。新鮮な黒土が積まれている。ということは巣口が開けられているだろうと、ドクダミの若葉の奥を探ろうとすると、そこに働きアリがいた。

やはり巣外で活動をしているのだ。ただし種集めに熱心な季節ではないからちょっとした異変だ。巣外に出ている働きアリをみれば、2頭で1頭を引きづり回している感じだ。もしかして喧嘩? あるいは死体捨て?

あらためて巣口のまわりをみればゴミが少ない。積まれているのは新鮮な土くればかりだ。ということは、巣口を開くのにあわせて通路か部屋の拡張工事も行っているはずだ。

この季節ということを考えると、羽アリの旅立ちがあるのかもしれない。かつて一度だけ羽アリの登場を目撃したことがある。そのときはけっこうな数のオス、メスがうごめいたけれど、飛び立ちはなかった。

クロナガアリの結婚飛行はかなり広範囲で一斉に起きるらしい。数キロ離れた巣が申し合わせたように、または何かの合図を受けて一斉に飛び立つ日があるというのだ。その条件は何か知りたいと思う。アメリカのテレビで、ミツバチの死のサインはオレイン酸だと言ってた。オレイン酸の出ているハチはすみやかに仲間の手で巣外に捨てられる。生きているか死んでいるかは問われないらしい。クロナガアリは息のある個体がよく捨てられているから、かれらの死体のサインは何か知りたいと思っていた。ミツバチは親戚だからクロナガアリもオレイン酸かもしれないとテレビを見ながら思った。そして、地域一斉の結婚飛行も何かフォロモンが関与しているのかもしれない。高気圧のかかった日に、10平方キロにわたって結婚飛行フェロモンが漂う日、羽アリがフェロモンの濃いところを目指して飛び立っていくとなればロマンチックだ。


2021.4.3(土)晴れ オタマジャクシ

オタマジャクシ

最近気にしている荻野川の湧水に行くと、シュレーゲルアオガエルの声がしていた。場所は湧水の流れとは連結がわるそうなちょいとした水たまりだ。「生き物(ドジョウ・××)取るな」という間に合わせの立て札があるところを見ると、それなりに管理されてる場所らしい。

シュレーゲルアオガエルはこれまでの観察だと、日中は隠れて鳴いているようだ。もしやと水たまりを探っていると、黒々と密集しているオタマジャクシが見つかった。

状況から見てアカガエルだろう。ヒキガエルならきっとゼリーが目立つだろう。アマガエルはこんな密集は作らない。シュレーゲルアオガエルの産卵はこれからだ。

オタマジャクシを撮影しながら、ふと気づくことがあった。いま持っているTG-5は水中カメラとして使ったことがない。宝の持ち腐れもいいところだ。水好きを標榜しているのが恥ずかしいではないか。ともあれ、好機到来だ。たまたま手の届くところに密集がある。この手の水中写真はピントやアングルが運次第で難しい。まあいい雰囲気にはなっている。


2021.4.4(日)くもり 春の半原越

雑木林

山の草木が春の喜びに輝く季節だ。じつは先週の日曜日に半原越に行こうとしていた。雨という予報だったのでいい感じに降っていれば好都合だと思った。それがけっこうな嵐で、しかも徹夜明けになってしまい、腰が引けてしまった。

山の桜がいちばんいい日に見ておきたいという野心がある。丹沢の山腹でブナだけが緑の日に見ておきたいという野心もある。今年はいずれも機を逸したろう。自分の胸に手をあてて考えると、来年以降のチャンスは数回しかない。

朝から調子が狂っていた。どうせ雨だろうからと、チェーンを古いのに換えた。昨日新しくしたばかりで、新品のチェーンで雨の中を走りたくない。そういう貧乏根性が私のウイークポイントだ。チェーンを換えるときにコネクトリンクがどっちがどっちだか分からなくなった。1分前に置いたはずの場所がわからない。着実にボケている。

走り出して10分ほどで2つの忘れ物に気づいた。ゴーグルと泥よけだ。引き返す気にはならなかった。いつもの座間のクリエイトでコーラを買おうとすれば、売り切れ。しかたなく買ったカロリー0のペプシのまずいこと。ローソンに行けばよかった。荻野川のセブンイレブンでコーヒーを買えば、紙コップが倒れ注ぎ口からはずれている。しかし全自動の機械なのでスタートしたら見守るしかない。やることなすこと裏目裏目。

座間の小さな林の登りでクモの巣を見つけた。ジョロウグモっぽい感じがある。ジョロウグモの子は梅雨のはじまりに出はじめるが、まさかはある。ひとまず写真におさめた。小さいクモはオートフォーカスがしんどいのでマニュアルフォーカスにしたがひどいピンボケだった。老眼鏡を使っとけば・・・と幾たび後悔したかしれない。ただコシロカネグモらしいことは分かったから最低限の仕事にはなった。クモの巣のそばにあるアケビの花がやけにきれいだった。

清川村は春の花々が咲き乱れている。村の人が育ていている桜やツツジだ。きれいだけれど、自分でそれをやる根性はないと思う。トイレにフクラスズメがいた。ちょっと心躍った。珍しくもない地味な蛾でしかないが、見るのは実に50年ぶりだ。ちょっとはツキが回復か。

半原越はじつに1年半ぶりに閉鎖がとけた。なじみの道を登る。道路脇の土砂が清掃されている。余計なことを・・・なんて思うのは私だけだろう。スミレとヤマブキにドンピシャの日だと思った。アスファルトにカエデの花が散っている。なぜか異様なぐらい静かだ。虫が飛ばない。鳥がほとんど鳴かない。山桜もブナも10日ほど遅かった。

ヤマザクラが散る頃の山は一年で一番はなやかだ。私の定位置は厚木高校の広場を抜けたところにある。道路をはずれ泥の壁を登って広場に入ろうとしたとき、前輪の先にスミレを見つけた。花を踏むのは風流ではないと、左にハンドルを切れば、そこは大きなギャップ。越えようと踏み込めば前輪が浮いた。抵抗はあきらめて転倒することにした。今日はいろいろダメなことばかりだな。二度あることは三度あるっていうからこれで終わりかな。交通事故だけは気をつけようと起き上がった。

毎年の定位置から眺めるとナラのけむる新緑のなかに山桜の赤が鮮やかだった。植栽されたブナの葉はすっかり開いている。まもなくここをウスバシロチョウが舞う。


2021.4.9(金)晴れのちくもり一時雨 シグマ スーパーワイド2

ミノムシ

庭に出るときには50ミリか90ミリのレンズをつけた一眼レフを携帯する。もしかしたら虫がいるかもしれないからだ。小型の対象を狙うときはそれにスーパーマクロを持っていく。

昨日今日は、シグマのスーパーワイド2にしてみた。スーパーワイド2は30年ぐらい前の製品だと思うが、とってもいいレンズだ。その名の通りワイドレンズであるけれど、よく寄れる。ワイドで寄れる安価なレンズを歴代作ってくれるシグマはすてきなメーカーだ。

ワイドレンズだといい記録写真になる。それで寄れれば小さいものでも写る。今日の被写体は1cm足らずの虫だ。たぶんミノムシでこの数日間庭のエノキにいる。このサイズに写れば、たいていの虫を記録するぶんには申し分ない。もともと写真はワイドのほうが好きでもある。栗林さんの虫の目レンズがあれば最適なのだが、同コンセプトの市販品は目の玉が飛び出るぐらい高価だ。高感度の新型ミラーレスも必要だろうし、暫定レンズが20万もするなら自転車のフレームのほうが・・・

今朝は抜いた雑草を入れようと、ひさびさに開けたコンポストにきれいなクモの巣がはられていた。普段ならこれはたいへんと、ワイドレンズのついたカメラを取りに引き返すか、クモ巣なんて明日でいいやと撮影を先送りにするシチュエーションだった。


2021.4.14(水)雨 ヒラタアブ

ヒラタアブ

庭にカラスノエンドウがあり、ところどころにアブラムシがびっしりたかっている。昨日のこと、そこにホソヒラタアブの幼虫らしきウジ虫を見つけた。

ヒラタアブは私の庭に多い。年々急速に虫の種類も数も減少する一方だが、ヒラタアブは普通にみられる。ヒラタアブはアブラムシを手当たり次第に捕食する。昨日からの24時間でアブラムシの数が半減している。幼虫の数は大小1匹だ。1日に20匹ほども食うのだろうか。

今日の写真はTG-5で撮った。一眼の50mmマクロや自慢のスーパーマクロでも撮ったが、満足行く写真にはならなかった。カラスノエンドウの茂みの先端に被写体があってストロボを当てるのが難しい。日影では自然光は難しい。

今朝は小雨が降って風があり、撮影には厳しい条件だった。こういうときはTG-5が一番歩留まりはよい。フォーカスブラケットも駆使して場当たり的に撮影する。撮れた感触はなく満足度もない


2021.4.17(土)雨 球の表面積

球

球の表面積を求めることに挫折したのは記憶に新しい2014年の12月のことであった。思いつきの糸巻き方式はダメであったが、読み返してみれば球の表面積は球を巻く円柱の長方形の面積に等しいことに気づいて喜んでいる。

また、(4・π・r・r)という球の表面積は投影である円の面積の4倍ということはすぐわかる。こちらのほうから何とかならないかと思いついたのが3日ほど前のことである。


 三角錐

投影の円をどうにかするといっても、相手が球であるからかなりややこしい。左図のように円錐であっても投影面積は円になる。だからといって円錐の表面積の、扇形の部分は2分のルート2ぐらい少なくなるはずだ。そのくらいは暗算でもできる。


断面

垂直断面で見たときに、球は円になるが円錐では赤で示した直線になる。同じ円の投影面積をもっても円錐のほうが小さい表面積になるのは一目瞭然だ。この円弧の部分をなんとかしなければ球の表面積はもとめられない。投影面積の(π・r・r)は横断面の円の合計はカバーしているけれど、図で描いている円弧のほうがカバーできていないのだ。

というようにぼんやり考えていると、円弧の長さ自体は求められることがわかった。球の真ん中を縦に切断したときの円の長さは2πrだ。もしかして、この2πrを手前に移動しながら足し算したものが球の横からの投影面積にならないか。その(π・r・r)をくわえれば、球の表面積になる。これはたいへんよい思いつきである。なにしろ(4・π・r・r)という公式に合致するぐらいだから。

ただこの思いつきも、たまたま結果オーライのもやもや感はいなめない。本当に球を縦に切る線の合計と投影面積が一致する保証が得られないのだ。ちなみにおなじことを円錐でやって上からの投影面積の(π・r・r)と横からの投影面積の(r・r)を足しても円錐の表面積は出てこないのだから。せめてその間違いのわけぐらいは説明できないようではだめである。


2021.4.18(水)雨 なめとこ山の熊

月と新緑

半原越はすっかり夏だ。先週はまだ春だったのに。崖面の花はウツギが主役になっている。先週はそんな気配もなかったのに。もう春は終わったのかとウツギの白い花を眺めているとそこに春のなごりの黒いチョウ。ミヤマセセリだ。

半原越でちょうど今頃にしか出会えないチョウがいる。その昔心の中で尖ったモンシロチョウとよんでいたツマキチョウだ。白いチョウを見つけるとガン見しつつ自転車を走らせる。しばらく半原越に来てなかったこともあって、今日はぜひともツマキチョウに会いたかった。

きれいなオスを見つけて自転車を降りた。うまいことに花を物色している。道ばたのカタバミを気にしている。TGー5をONにして花に止まったツマキチョウに近づいていく。

ツマキチョウはけっこうせわしないチョウでなかなか撮影させてもらえない。近づけば迷惑そうに距離をおかれる。半原越でびしっと撮れた記憶がない。今日もそうだった。

自転車のストップウォッチは押しているもののスピードへの欲はすっかり冷めている。うまく走ることだけを考えている。もうペダリングに迷いはない。失敗しているときだけ乗り方を意識するぐらいには上達している。さすがに20年も通っているベテランだ。

そんな感じできょろきょろ登っていると、またツマキチョウらしいのが2頭ひらひらと目にはいってきた。求愛しているらしいが、メスにはその気がない。10秒ほどでオスはあきらめて、メスとわかれ地表付近を飛びはじめた。

花に止まる様子はないから、撮らせてはもらえないだろうと横目でやりすごすことにして自転車を進めた。そのときふと、ツマキチョウは私のことを好きだろうか?と妙なことが心に浮かんだ。

私はツマキチョウが大好きだ。好いているものには好かれたい。それは自然なことだが、相手は虫だ。不可知の偽問題でしかない。やれやれと思考を消去しようとしたとき、突然宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の謎が解けた。

「なめとこ山の熊」は難解な小説である。私には嚥下できなかった。嚥下どころか咀嚼もできなかった。どうして熊たちは猟師が大好きなんだろう? 変だけどそこになにやら大切なものがあるという感じだけがあった。その大切なものが何かに気づいたのだ。

宮沢賢治は人間と動物の関係をありのまんまに作品化している。とてつもない天才だ。セロ弾きのゴーシュなんて戦慄ものだった。どんだけ思い詰めればセロ弾きのゴーシュができあがるのか。そんな作家だから「なめとこ山の熊」の謎は何十年も私の心にひっかかっていた。へんてこだけど絶対にホンモノがあるという確信はあった。

あれは生きとし生けるものへの鎮魂歌だったのだ。命の営みを終えることになる動植物とそれらを収奪せざるを得ないヒトへのなぐさめだ。なめとこ山の熊たちは熊撃ちの小十郎が好きだ。鰯も漁師が好きだ。稲も農夫が大好きなんだ。虫はコレクターが好きだ。残酷で迷惑なやつだが。「なめとこ山の熊」がすなおにそう読めれれば一人前の虫殺しだ。もしかしたら読み違えているかもしれないけれど、分かった気になれるって大事だ。自転車でただ峠を登る醍醐味はそこにある。


2021.4.22(木)晴れ ハエ

ハエ

かつては庭でいくらでも見つかった小さなカメムシすら希少種だ。花があれば必ずそこにいたクモもいない。見つかるのはちいさなササグモばかり。しかもぽつっとしかいない。虫が急速にいなくなる。庭の環境は変えてないつもりだが、周辺環境は激変している。

葉の先に小さなハエがいた。名前は知らない。このたぐいは調べて分かる可能性はない。小型のハエならばずっとここで見られるだろうか。

50年ほど前は、こういう虫はつまらないと思っていた。ところが「昆虫記」を読んで虫の見方が一変した。どうやらそこいらにいるつまらない虫が驚愕の生き様をしているらしいのだ。視点をそう構えると、あたりにいくらでもいるハエもガガンボも甲虫も、その生活の一端すら知らないことに気づく。当然のことながら、いつかこの目で見とどけてやろうと思ったものだ。


2021.4.25(日)晴れ一時雷雨 蝶の道

荻野川

写真は荻野川の道。ここには毎週来ている。今日はどんな虫がいるだろう。きれいなのが見つかるといいな。という期待とコンビニコーヒーを持って自転車で乗り込んでいる。

畑と河川に挟まれたささやかな道でしかないけど、日当たりの良さと植生の豊かさが貴重だ。四季それなりに花も咲く。いまはカタバミ、シロツメクサ、ハルジオンなんかが虫のよすがになっている。

定期的に通っているといろいろな虫の趨勢がわかってくる。

冬でも期待できる蝶はキタテハ。春一番にモンシロチョウ、モンキチョウ。そしてベニシジミ。ベニシジミはちょうど端境期なのかきれいなのは少ない。ベニシジミに変わって登場してくるシジミはヤマトシジミ。いろいろ見つかるアゲハが滞在することはない。びゅーんと川を渡っていく。彼らの欲しいものが今この道にないのだ。今一番多いのがヒメウラナミジャノメだ。ジャノメチョウは日影の虫というイメージがあるけれど、こいつは日当たりのよいところを好むらしい。

この写真の中にはヒメウラナミジャノメとヤマトシジミがあわせて5頭ほどはいっている。ただし写真では見つからない。ベニシジミが右隅に写っている。こいつがフレームに入っていることは気づかなかった。


2021.4.27(日)晴れ 奇跡の再会

かかと

いつもは道路に転がっている虫を撮っているのだが、これはちがう。もちろん虫に擬態したなにかでもない。これは自転車用の靴の「かかと」につけるパーツである。発見の喜びについ撮ってしまった。

私が持っているイタリア製の自転車靴はなぜかこのようなパーツをネジ止めすることになっている。その意味はわからない。靴の設計者もそこは深く考えてないはずだ。

これが消耗品のわりに高価である。純正のものは薄くてちびやすく、すぐにネジまですり減ってたいへんなことになる。まあ、プラスチックを切開してネジをプライヤーで回せばはずれるのだが、なんでこんなものに苦労させられるのかはわからない。きっと設計者にもわからないだろう。

それで写真にある厚めで長持ちするはずのを使っている。どれだけ長持ちするかは未確認だ。消耗を待たずにもう3回買っている。というのはネジがゆるんでよく落ちるからだ。こいつが落ちたのは4月10日のことだった。走っているときに落ちるのだから落ちたことに気づくはずもない。荻野川べりのセブンイレブンに入ったときに違和感を感じてやっと落ちたことに気づくのだ。

しょうもないわりにけっこう高価なパーツであるから落とすとがっかりだ。しかし30kmある道程のどこで落としたかなんて、アタリをつけるのも無理だ。翌11日にはスペアで半原越を走った。なくして交換した1個が残っていたのだ。路面のチェックは例によって怠りないが、こいつとの再会は脳裏にない。最近少ないツチハンミョウのほうがずっと気になる。

17日にも半原越に行った。そろそろ落としたことも忘れるころだ。18日にも同じコースを走った。こいつの脇を10回ぐらい走ったと思う。24日にも半原越に行った。こいつの脇を過ぎること総計30回目ぐらいのとき、こいつを見つけた。けっこうな雨が降って土砂と枯葉が流れ路面にたまっていた。こいつはそんなものに埋まることなくむき出しで転がっていた。奇跡的な再会だ。

うれしかったのはいうまでもない。死骸のランクでいえばキビタキより上、マムシより下ぐらいだろうか。25日にも同じコースを走った。


2021.4.29(木)雨 白いカラスノエンドウ

カラスノエンドウ

このところ毎朝カラスノエンドウを撮影するのが日課になっている。アブラムシとアブとテントウムシなどの生態観察っぽいことができるのがうれしい。

私のカラスノエンドウでは写真のように白花があるのがちょっとした自慢。そろそろ花の終わる季節で、小雨の中で小ぶりなものが咲いていた。これは珍しいからと誘致したわけではなく勝手に生えてきた。最初に確認したのは2016年の4月のことで、そのときは一株だけだった。なにかいいものが出てきたなとうれしかったけど、とくに増やそうとか大事にしようという気はなかった。

白花は翌年も咲いた。やはり一株しかなかったと記憶している。それから年を経るごとに数が増え今年は庭のカラスノエンドウの過半が白花になっている。この増え方は奇妙だ。

増殖といえば最近ウイルスの変異株N501Yがテレビで取り上げられている。日本でも急速に蔓延して大阪ではほぼN501Yになったということだ。そのグラフは動物進化を見るようだ。いわゆる適者絶滅が起きた。従来のウイルスは駆逐されたのではなく、有望な子孫がとってかわったのだ。昆虫もヘビも鳥もそうして繁栄したと思う。

たぶんヒトでもこの300万年に同じことが起きただろう。ホモサピエンスは体毛がない、産むのがたいへん、育つのに時間がかかる・・・という困った種だ。滅んでもしょうがなかったけど、創意と情熱と協調がネアンデルタール人なんかに勝っていた。苦難にぶちあたっても、あきらめず工夫して力を合わせて世界を席巻したのだ。ホモサピエンスはいまや地球の気候を変えようかという勢いだ。

私の白いカラスノエンドウには庭を席巻できるような才能が見あたらない。中学校で習ったメンデルの研究でも白花のエンドウは劣性だったはずだ。放っておけば消滅して、忘れた頃に現れる珍種になるはずじゃないのか。こいつは何かホモサピエンス的な隠れた能力ファクターXを持っているのだろうか。


2021.4.30(金)晴れ 羽アリ

羽アリ

クロナガアリの羽アリが出てきた。オスもメスも働きアリもみなわさわさして落ち着かない。働きアリは護衛をしているようなものがいる。巣の拡張をしているものもいる。

羽アリは巣の回りをうろついて、ドクダミなんかの葉に登るものもいるが、飛びそうな感じではない。結婚飛行のときは数日前から様子をうかがう行動をとるはずだ。今日は飛ぶまいと思った。

この巣は観察を続けてざっと10年が経過している。こんなに羽アリが出るまでになってくれたかと感慨深い。

去年までにも幾度か羽アリは見ているけれど結婚飛行に参加したかどうかはわからない。今年はこれから天気のよい日が続きそうだから確認チャンスはあるかもしれない。


2021.5.1(土)晴れ一時雨 家の中で虫

カラスノエンドウ

朝、2階の窓から天気をうかがっていると羽音がした。なにか大型の蜂の飛ぶ音だ。その主はすぐ見つかった。大きなオナガバチが外に出ようとガラスにぶつかっている。久々の珍客だ。家の中に立派な虫が入ってくるのは珍しくなっている。そういやセイボウが入ってきたこともあった。

ナカガワに乗って最近定番のコース。荻野川のセブンイレブンにつくとスマホを携帯していないことに気づいた。おっと昼飯抜きになってしまう。こりゃだめだと引き返すことにした。

引き返すにしても蝶の道は見ておこうと立ち寄るとカラスノエンドウのサヤが真っ黒になっている。先週はみな青かった。草木を見ていると時間のたつのは速いと感じる。そう感じて釈尊のたとえ話を思い出した。「四方に放たれた矢をキャッチできる者は走るのが速い。彼よりも月や太陽の運行は速い。星の運行はもっと速い。それよりも速く人生は過ぎ去っていく」というような話だ。たしか正法眼蔵にあった引用だ。こういう話を見れば釈尊はただもんではないと思う。太陽の運行ばかりか銀河の速度にまで思いを至らせたらしい。遠いところにある物体の速い遅いを認識することは常人には無理だ。

帰宅すると娘が「アオカミキリモドキがいた。これはさわっちゃいかんやつ」といって虫を持ってきた。たしかにそれはアオカミキリモドキのようだった。自転車で走っていて胸に激痛がきたことがある。焼け火箸というたとえがあるがまさにそんな感じだった。あれはジャージの中にカミキリモドキが飛び込んで来たんだろうと思っている。傷は深くついて痛みは長引いた。

ちょいと庭に転がしてあるプラケースをみると、そこに褐色のアゲハサナギがあった。これは去年の秋に見逃してやったあのアゲハに違いあるまい。サンショウから2mばかり離れ、南向きで雨を半分しのげる高さ30cmたらずの場所である。プラケースは盲点だった。何度か探して見つからず行方不明のことさえ忘れていた。無事羽化するだろうか。夜には越冬したクワガタ♀が動き始めた。家の中でみょうに虫が騒ぐ日だった。


2021.5.2(日)晴れ一時雨 夏空

夏空

天気をうかがおうと2階の窓をあけると初夏のいいにおいがただよってきた。クサイチゴやノバラやらの茂みの臭いだ。近所にいい花があるんだろうか。ただし、最近市中でレノア的なものが蔓延しているから油断はできない。

「ウスバシロチョウを見てくる」といってナカガワで半原越。麓から遠く見る丹沢の山並みは9合目ぐらいまで緑、その上は薄紫にけむっている。もうすぐ山のてっぺんまで夏だ。

いつもの川べりを走っていると蛙の声がする。カジカガエル、シュレーゲルアオガエル、アマガエル。やっぱり夏はカジカガエルだなと思う。

清川村のメインストリートを離れて、半原越登りにかかるといきなりウスバシロチョウがいた。これは期待大だと見送ると、大きな黒いアゲハ。白い紋がはっきり見える。モンキアゲハだ。道路で事故にあったアオスジアゲハが2匹いた。普通のアゲハはこれでひととおりと思ってすぐにジャコウアゲハがまだだと思い直した。半原越はどういうわけかウツギが少なくなっている。虫を集める花が減ってジャコウアゲハを見るチャンスが少なくなっているのかもしれない。

ウスバシロチョウの観察ポイントは厚木高校の広場。ただ最近ではゆるキャンとかの変な人が多く場所が独占できない。しかたなく雑木林撮影ポイントまで降りてウスバシロチョウを待つことにした。

ウスバシロチョウはすぐに見つかった。最盛期という感じではないけど数分に一匹が強風に乗ってくる。今年もここでウスバシロチョウを見られたと安堵していると、少し離れたススキの葉にとまった。ぼんやりしてはいけない。TG-5をONにして撮影しながら近づいていく。何回かシャッターを切って、接写モードだったことに気づき、あわてて修正して1枚撮った瞬間に飛ばれた。

射程距離内のススキの葉にとまるなんて大サービスはもう期待できない。幸運を失敗にしてはいけない。慌てないことだ。腰を落ち着けて撮ったのが今日の一枚。とってもいい感じの夏空だ。

帰路、相模川を渡る橋から降水雲が見えた。これから帰る方向だ。濡れるかもしれないけど3分ぐらいかな。記録用に雲を何カットか撮っておくことにした。積雲からロート状に垂れ下がるちょっと珍しい雲もあった。好感触の撮影だったが、なんとあきれたことにモードがまた接写だった。雲は接写する対象ではない。ただし雲はそうそう逃げない。撮りなおせば済む。デジカメになって写真の単価は大暴落だから。

TG-7ではモードの切り替えなしで接写できるようにしてもらえないものだろうか。逆光が壊滅的になるのもなんとかしてほしいな。帰宅して庭のクサイチゴを3つばかりつまんだ。


2021.5.4(火)晴れ ジャコウアゲハ

ジャコウアゲハ

群青で半原越。夏が来て自転車の練習というよりも虫の方に忙しい。今日のメイン行事はオトシブミの採集だ。

昨日は荻野川で真っ昼間にコウモリが飛んでいるのを見た。そのコウモリのそばに豪華絢爛な黄色い花を大量につけた木があった。いかにもハリエンジュがありそうな案配の所だから植えられたものとも思えず、いったい何者か?と不思議ではあったが、どうせ外来の園芸植物だからとスルーした。

その木がなぜか半原越にもあった。花の終わったタニウツギにまだきれいな花が残ってないかとないものねだりをしていてみつけた。タニウツギの枝にからまるように生えていた。天然自然のものなの? 付近にはホオノキの大木があるという山中になんでこんなものが?と疑問が深まって一応撮影して「ハナノナ」アプリに尋ねてみるとナンバンサイカチということだ。たしかにそんな感じだ……けどちょっと違う。そもそも花の名称なんてほとんど知らないのだ。先の楽しみが増えたことにしよう。

いつもの厚木高校の広場に行ってゆるきゃんを避けて草むらで昼飯。首尾良く近くにウスバシロチョウが来ないかと待ちぼうけ。それよりも今日はオトシブミの採集だ。多めに持っていないと成虫をゲットできない。オトシブミでは経験者だ。おおむね落ちているところのアタリはついている。アスファルトに落ちているのはすぐわかる。20、30集めるのはたやすい。

オトシブミを拾って戦利品を整理しようと峠のベンチに行くと、なぜかそこにジャコウアゲハ。ベンチの木材の隙間にとまって顔だけ出している。「なぜあなたがそこに?」という疑問がわくが、まず羽化したてという線に間違いあるまいと思った。50年ほど前のこと、八幡浜市の千丈小学校の土手はジャコウアゲハの大産地で、校舎の壁にはわんさかとジャコウアゲハのサナギがついた。その印象から私には木壁にオレンジのサナギは定番という観念がある。半原越のベンチで蛹化して今日羽化したのだろうと思ったのだ。自分の推理が正しいことを証明すべく、ベンチを覗いたりもぐったり、お菊虫を探したけど見つからなかった。

もうちょっとオトシブミが欲しいなと、4km手前の杉林へ下る。毎年この杉林出口のところにオトシブミが多いのだ。今日もそれなり転がっている。機嫌良く拾い集めていると、ふくらはぎに違和感。濡れている。汗でも雨でも沢でもない。なんでだと見れば流血の惨事だ。原因はすぐわかった。ヤマビルだ。半原越は峠にヒルよけスプレーを登山客向けに置いてあるぐらいのヒルの名所である。鹿だって自転車にぶつかってくるんじゃないかと思うぐらい多い。草むらで昼飯食ったり、ベンチにもぐって蛹殻さがしたり、オトシブミ拾ったりしたらヤマビルの1匹2匹はついてくるだろう。サイクルウエアに潜り込んでる気配だが、パンツ脱いで探すのもアレなんで家まで連れて行って島流しの刑だ。

十分な数のオトシブミを拾ってうきうき下っていると、ウツギにアオスジアゲハやら大きなアブやらが来ている。毎年虫を集める木だ。ここでウスバシロチョウを撮ったこともあったと少し粘ってみることにした。足元は草むらでヤマビルもいそうだが、まいいかヒルも友だちだしな……とかまわないことにした。マムシを踏まない、ダニを持って帰らない、そこんとこを押さえれば大事には至らない。

帰宅してさっそくヤマビルチェック。意外にも体についていなかった。食い逃げされたようだ。ふくらはぎに吸い付いてたのが落ちたか。それか布の上から食われたのかもしれない。レーパンはぴっちりした薄い素材なので、潜り込めなかったのか。いつぞやは靴下に潜り込まれたこともあった。

ジャコウアゲハの写真をチェックすると推理は大はずれ。翅はぼろぼろでそれなりにやりきった個体だ。今日羽化なんてとんでもない。少し観察すればわかることだ。老眼鏡使えよ、せっかく持ってるんだからと、また反省した。


2021.5.8(土)晴れのちくもり タニウツギ

 タニウツギ

すっかり夏色の半原越へ群青で。半原越の夏で難しいのはタニウツギが一番きれいなときに見てやることだ。春のヤマザクラも難しいけれどタニウツギの難易度はいっそう高い。先週の火曜に爛熟した花を見て、今年もダメだった、だがホオノキはぴったりだった、まあいいか来年にかけよう、と決意を新たにして半原越を後にしたのだった。

今日はまったく期待してなかったが、道路にタニウツギの落花をみとめた。おやっ?と思った。花はもう終わっているはずだ。4日前にあんなに探したのにいい花は見つからなかった。それなのに、練習ルートに何か所も落花が認められる。ちがう種類なのか個体差なのか。ともあれタニウツギに間に合うかもしれないと心躍った。

写真の落花の木は南端コーナー手前のものだ。それは手遅れだったけど、4日にアオスジアゲハの来ていたウツギのそばにちょうどいい木があった。つぼみがあって盛りの花があって爛熟した花もある。勝ったなと思った。どういう勝負かは不明だが。

それにしても、その木は4日には花がまったく見つからなかった。もう終わった花がけっこうあるってことはタニウツギの花のいいときってのはとっても短いようだ。どおりで毎日来るわけにいかない観察者は毎年苦労させられるわけだ。落花でその開花を知るようではダメなんだ。ちゃんと顔を上げて走らないと。


2021.5.10(月)晴れ ミズムシ

ミズムシ

ミズムシをイチゴかなんかが入っていた小型のプラケースで飼育している。飼育といっても庭のスイレン鉢からゴミと水といっしょにすくって来て窓際に置いているだけだ。

スイレン鉢ではかってにやってくる者が定着することがない。過去にはトンボ、アカガエルなんていうスター級もいた。ガガンボとかユスリカも一時はけっこういたけど今は少ない。土や草を入れると貝がわくけれど2年もすれば消えてしまう。私のスイレン鉢で世代を重ねるのは難しいのだ。

このミズムシだけは例外だ。最初からミズムシは多かった。いまやもっとも元気がいいのがミズムシだ。おびただしい数が泥や落ち葉や水草を活発に這いまわっている。そいつらをわざわざ手元に置く気になったのは、メダカの卵捕食疑惑をかけているからだ。

劣悪な環境にもめげず私のメダカたちは元気だ。ぱんぱんの腹に卵をつけて泳いでいるのがけっこういる。しかし、稚魚が泳ぎ出さない。親に食われないだけの隠れ家もあるはずだ。もしやミズムシが卵を食っているのではないか?という嫌疑をかけた。

ミズムシはたぶん雑食でなんでも食いそうだ。いりこなんかを好むのならきっとメダカの卵も食うだろう。そのあたりを確かめるには飼育観察するのが手っ取り早い。

観察すれば愛嬌のあるやつらである。腹にある呼吸器らしい器官をしじゅう小刻みに動かし思いのほか長い足ですたすた歩く。手をつかってものを拾って食べているような仕草があるが、そういう採餌行動をとっているのかどうかは確認できない。肉眼では難しい。詳しく見る必要があるだろう。

ミズムシはその形状からワラジムシとかグソクムシの類だろうと思っていたが、どうも昆虫らしい。ホントか?と思う。

写真の右手の個体は大小2頭が重なっている。これはたまたまではない。というのはこういうカップルがとても多いからだ。必ず小さい方が腹に抱きかかえられている案配だ。これはオスメスの繁殖行動なんだろうか。もしそうなら昆虫としては例外的に脚が多いし、翅が生えてブ〜ンと飛んでいくことはないことになる。


2021.5.14(金)晴れ 羽化

テントウムシの羽化殻

朝の定期観察でテントウムシが羽化していることがわかった。6日にツタバウンランの葉で見つけたナナホシテントウの蛹だ。こいつはそばにあるカラスノエンドウのアブラムシを食べて育ったものだろう。

羽化殻を撮って隣のトキワツユクサの葉を見れば、そこにいたのはテントウムシ。なんと同じ模様のテントウムシがサンショウの葉にもいるではないか。もしかしてナナホシテントウの幼虫・蛹だと思っていたのはテントウムシだったのだろうか? 弱ったもんだ。私には蛹で区別できるほどのテントウムシ眼力はない。

羽化といえば、1日に見つかったアゲハの蛹はダメだった。去年の秋に見逃してやった幼虫がうまく越冬したのだと喜んでいただけに残念だ。いくらなんでも羽化が遅すぎるよなと、指で押してみたら、中身が入ってない感触だった。やたらと軽く動きもなかった。

隣家の生け垣の葉にアブラゼミの羽化殻があった。ここはアブラゼミ幼虫の生息地で、羽化殻が1年、2年残るのは珍しいことではない。ただし落ちやすい葉の表で羽化しているのが1年残ったっていうのは快挙のような気がする。


2021.5.15(土)晴れ キアシドクガ

キアシドクガ

ナカガワで半原越。写真は半原越にあるガードレール。ずらりと並んでいるのはキアシドクガの毛虫である。ちょうどここの谷側に大きなミズキがあってそこで成長したやつだ。このキアシドクガは先週、いっしょに半原越を走った女房が見つけた。

半原越ではいまがキアシドクガの蛹化の盛りであるようだ。道路にもけっこうな数の毛虫がいる。歩いていたりつぶれていたり。たまたまこのガードレールは距離も構造も彼らにフィットしたようである。セロ弾きのゴーシュ風にいえば「こんな素敵な蛹化場所を作っていただいてありがとうございます。ここでわたくしどもは安心して蛹になることができます。ほんとうにありがとうございます。」というようになるだろう。

里の方ではいまキアシドクガの乱舞の盛りだ。近所の公園でも毎年けっこうな数が舞う。今年はやや少ない。それはキアシドクガ駆除のために殺虫剤がまかれたからだ。あんな連中はほっとけばいいと思うけど、ほっとけない人もいるんだろう。市が管理する林だから殺虫剤をまくのも市の仕事だ。

セロ弾きのゴーシュ風にいえば「わたくしどもはこのように醜い姿をしております。嫌われてもしかたありません。群れをつくって美しいミズキをぼろぼろにしてしまうのはわたくしどものさだめです。ほかに生きるすべがありません。それで殺されるのならさだめなのでしょう。毒をまいた人たちはわたしどもが憎くてやったのではないようです。ちっとも楽しそうじゃありませんでしたから。きっとあのかたのさだめだったのでしょう。」ということになるだろうか。

ただし賢治自身は「さだめ」という考え方を嫌っていたように思う。不幸を決まっていたことにしたくなかった。また幸運も決まっていたことにしたくなかった。不幸も幸福も人の力でなんとかしたかったのではないだろうか。貝の火という奇妙な物語を読んでそう感じている。

というようなことを考えながら半原越を下っていると、道路に白いぼろぼろの蛾が落ちていた。キアシドクガ?とブレーキを引いて確かめればシャクガだった。さらに下っていけば大きな白い蛾。こちらは一見してシャクガだとわかった。最大級の立派なシャクガだ。


2021.5.16(日)くもり時々雨 田んぼ水槽

田んぼ水槽

田に水がひかれて代掻き、田植えの季節をむかえている。毎年土をもらっている田んぼは田植えが完了した。

では私もと田んぼ水槽をセットすることにした。去年の春は土は用意したもののセットは見送った。マンネリからの怠慢にくわえて、気持ちがスイレン鉢に移っていた。

毎年ちょっとだけテーマを設けている。前回はまったく土を洗わずに水だけ加えるとどうなるか? というものぐさの極みだった。今年は代掻きをして土は極薄くはることにした。その土は1年以上放置してカラカラに乾いていたものだ。田んぼの雑草なんで多少乾いていても問題なく芽吹くと思うけれど、どうなるかは今後のお楽しみだ。


2021.5.17(月)雨のちくもり SDGs

ミズキ

写真は毎年観察している近所のミズキ。2本とも丸裸である。梅雨目前で全ての木がいきいき輝くなかでひとり冬枯れだ。そのたたずまいは気の毒に見える。このまま弱って枯れるんじゃないか?という心配は無用である。例年あとひと月もすれば青々と葉を茂らせ秋には黄葉して、キアシドクガの卵といっしょに冬を越すことになる。

心配してやるなら、犯人のほうである。この木の周囲にも数本のミズキがあるが、それも裸である。そうなると、葉を食ったキアシドクガには相当数の餓死者が出たはずだ。

キアシドクガは目先のことしか考えない暴食者であるけれど、ミズキが復活するかぎり大丈夫だ。すくなくともこの10年は平穏に過ぎた。人間でいえば250年の歳月である。SDGsの観点ではOKだ。

ところでSDGsに限らず、環境問題への取り組みには冷淡だ。ウミガメの鼻に刺さるストローをやめると聞けばその会社の製品は不買する。めったに買わないレジ袋は意地になって使う。携帯し10回ぐらいは使い回す。自転車のついでに拾う泥とか木片とか虫とかを運べなくなったら泣く泣く捨てる。

こういうひねくれた人間になってしまったのはドリフターズの影響が大きいだろう。こどもの私はドリフが好きだった。ただ放送で「宿題やれ、歯を磨け」と呼びかけるのは解せなかった。子ども心にも善者からの批判をおさえる下心がみえみえだったからだ。いまにして思えば善者をからかう一休とんち話の一つだったとも思えるけど、あれをやりはじめたドリフがちょっといやだった。

ジスイズアペンとなんだ馬鹿やろのドリフが好きだったころ、それ以上にアメリカが好きだった。アメリカは強く賢くかっこよくお金持ちだった。あれから50年たって環境問題的なやつ、とくにアメリカから入ってくるやつはドリフ以上に鼻持ちならない。日本の政治経済分野の環境問題はちっともセクシーじゃない。太陽光発電とか電気自動車なんて温暖化対策になると思えない。なるならちゃんと解説してほしい。

太陽光発電が一般になって40年ぐらいがたっているけど、いまだに本気の説明を聞いたことがない。あれは本当にエコなんだろうか。遊んでいる(実際に草とか木とか虫とか物好きとかが遊んでいる)山林を拓いて発電所をつくるのが最近のはやりだ。目的が二酸化炭素の削減であれば、その効果を数字で示して欲しい。山野には木材として二酸化炭素が固定されている。拓けばそれが大気中に出てくる。山林を大きく拓けば1000トンぐらいが先々の100年で排出されるだろう。そこにソーラーを設置するとして、発電機の製造と設置に1000トンぐらいの二酸化炭素が出てしまう。そのかわりソーラー発電所は火力発電所の化石燃料を削減できる。二酸化炭素換算で年間10トンはいけるとする。そうすると200年ぐらいで二酸化炭素の削減に貢献しはじめるから、がんばって大切に使おう・・・・これはインチキ計算だが、本気の環境問題解決策なら何年後に二酸化炭素が減り始めるのかを地球市民に示すべきである。


2021.5.21(金)雨ときどきくもり 風の日

ジューンベリー

夕方には収まったものの強い南風の一日だった。雑草や虫は風が強いとうまく撮れない。それじゃあと風の木の撮影をやってみることにした。

庭のジューンベリーは今年も実が色づきはじめている。その実と風のコラボでいいカットにならないかとやってみた。風で揺れる枝は動かしたいけど、実ははっきり写したい。

風の性質として、実のついた枝はそれほど揺れず、周囲の枝が揺れている状態はあるものだ。その一瞬をとらえようと思った。

ジューンベリーは毎朝2階の窓から撮っている。今日は三脚をセットして望遠レンズをつけてトライだ。一番考えなければならないのはシャッター速度だ。30分の1秒ぐらいがいいんじゃないかと思った。

何枚か撮ってみて、前後の枝が激しく揺れている場合はものにならないことがわかった。ピンボケとブレの区別がつかないから。実と同じぐらいの距離の枝が動いてないとだめだ。ただしその風の条件は厳しい。100カットぐらいやってみて、一番狙い通りだったのが今日の写真だ。これで風を表現できているとは思えないけど。

もしかして三脚ではなくて流し撮りの方がかっこいいんじゃないか。そう思いついたのはあたりがすっかく暗くなった夕方のことだった。


2021.5.22(土)くもり 毛虫の日

マイマイガ

天気予報はちょっとはずれてどんよりした曇り空。雨も落ちるかもしれないとスマホは防水対策をして群青で出かける。相模川中流河川をめぐりつつ川の間の激坂散歩だ。

最初の虫は荻野川縁の道路を横切っていた毛虫。チョコレート色の長い毛がびっしり生えて背中に黄色いラインがある。道路を子犬のように全力疾走で横切る姿をよく見る。よく見るけれどその種名の特定ができていない。

ちょっと鳶尾山でも登ってみるかと荻野川側から入ってみる。入り口すぐのところに大きな毛虫がいた。マイマイガだと思った。今の季節では一番に見たい毛虫はマイマイガだ。なんといっても大きくて派手だ。ケバイのケが毛であれば、その言葉はマイマイガのためにあるようなもんだ。

マイマイガの毛虫はたくさんいる。下草にも木の葉にもガードレールにも。いろいろな様子を撮影したいからそのつど停車。荻野川側は激坂だからロードだとスタートがたいへん。それでも撮影優先。それにしても何でも食うヤツだとちょっとあきれる。クサイチゴにもイタドリにもいる。ヤブミョウガらしいのやドクダミを食っているらしいのもいる。

10匹ほど撮ってるとマイマイガじゃないのが混じっているような気がしてきた。そもそも大きめの派手な毛虫は何でもマイマイガにしている。どうも似たヤツがいるらしい。

中津川側に降りて登り直し。登ってる途中にオドリコソウを見つけて帰りに撮ろうと思った。今日は登れない日だと思っていたけど意外に快調だった。ただし押したはずのストップウォッチが動いてなくて時間はわからない。

何度かいまいちな鳴き方のサンコウチョウを聞く。月日星ホイホイホイの月日がないやつ。ホシホイホイホイって本物のサンコウチョウなんだろうか。鳶尾山は森が深く鳥の声ばかりで姿が見えない。忘れずにオドリコソウを撮影。そばにアケビコノハがいた。アケビがとっても細くて別種の草を食べているのかと思った。シリアゲムシもいた。翅に黒いラインがくっきり2本はいってるやつ。いろいろいるなあと顔を振れば、そこに今日の写真のマイマイガ。見知っているタイプだ。やっぱりマイマイガはこうじゃなくちゃ、だとすれば荻野川側にいっぱいいた地味目なやつはマイマイガじゃないんだろう。まじめに調べよう。

蛾の幼虫調べでまずあたるのが保育社の「原色日本蛾類幼虫図鑑」だ。心の中で地味なマイマイガとよんでいるヤツはクワゴマダラヒトリに近いようだ。蛾の幼虫は個体差が大きいから図鑑の写真検索は限界がある。最近ではここからネット検索すれば正解にたどり着けるようになった。だが、念のために解説を読んでみる。あまりに専門的で1割ぐらいしか記述を理解できないが、そこに「青藍色の瘤起」という記述があった。撮影しているときに青い金属光沢がちかちかして気になっていた。「青藍色の瘤起」の場所がいまいち判然としないが、こいつはクワゴマダラヒトリということにしておこう。

すると16日にミズキにいたマイマイガも別種の疑念がある。見返せばあきらかにマイマイガじゃない。図鑑をくればヨツボシホソバが近そうだ。サイズ的に多少疑問が残るけれど。

ちなみに「原色日本蛾類幼虫図鑑」は蛾が好きだった妹のお下がりだ。彼女は見つけた蛾に印をつけている。その辺はさすが理系女だ。スジモンヒトリに○があった。アスファルトを疾走するあいつ、心の中で「茶色のヒトリ」と呼んでるのはスジモンヒトリだろうか。今日見た背中にラインが入るヤツもしっかり調べねば。


2021.5.23(日)晴れ サシガメ

シマサシガメ

今年も順調にクサイチゴが繁茂し実をつけた。クサイチゴの常連キスイモドキは確認できなかったが、シマサシガメはそれなりにうろちょろしている。写真のシマサシガメはハエを補食しているところ。

くさりかけたクサイチゴにはハエがたかる。ショウジョウバエの一種と思うが、ストライプの入ったやつが目立つ。そのハエをシマサシガメが食べている。シマサシガメはけっこう硬そうな甲虫を食っていることもある。突き技にかけてはかなりの手練れとふんでいた。軽くて硬い虫を貫くには相応の鋭い剣と瞬発力が必要なはずだ。私の力量ではテントウムシを押さえつけることなく虫ピンで刺すのは無理だろう。

さらに今日の獲物はハエである。身体能力の高いハエをどうやってしとめたのか、その剣さばきを見たいと思った。


2021.5.28(金)晴れのちくもり 今年のドクダミ

ドクダミ

今年もドクダミはきれいに咲いている。ちょうど今が最盛期だ。満開のものが多い。花の終わったのも多い。つぼみはまだある。

私の庭でドクダミばかりは消滅の心配がない。セイタカアワダチソウとかオオイヌノフグリとか一時目をかけたやつらは早々にいなくなった。ムラサキカタバミやツタバウンラン、アメリカフウロだっていつまでここにいるだろう。

庭にぴったりフィットで毎年楽しませてくれるドクダミだけど、今年はアブラムシの発生がなかった。あれも気まぐれなんだろう。翅があるんだから。ほかにもドクダミなんていっぱいある。わざわざ私のところに来る理由もない。もし来たとしてもアリがいない。毎年、アブラムシにたかっていたトビイロケアリとおぼしきアリの姿が見えないのだ。寂しいがアリにはアリの都合がある。


2021.6.02(水)くもりのち晴れ 八重のドクダミ

ドクダミ

八重のドクダミがあることは20年ほど前に知っていた。近所の住宅にたくさん咲いていたからだ。最初はたまたま見つかったものを大事に増やしているのだろうと感心していた。それがどうも市販されているという噂だ。なるほどとは思ったが増やすのもたいへんそうで買う人も少ないだろう。

そんなこともすっかり忘れていたら、いきなり庭に八重のドクダミが咲いた。1つだけである。

変異は小苞が総苞の花びらのように巨大化するものだ。庭では5枚、6枚花びらのドクダミは散見される。そちらの変異は花千個あたり2つくらいだ。概算すれば八重になるのは1万に1つといったところだろうか。

八重咲きは花単体に起きる突然変異でラメットの茎にかかるものではないようだ。であれば同じ所で八重が咲くとは限らない。これまで注意していなかった八重咲きであるが、気をつけて見落とさないようにしよう。


2021.6.05(土)くもり ヤマビル

手持ちの中で一番いいホイールをつけて群青で半原越。昨日の風雨で半原越の道路はけっこう荒れている。まだ湿っているアスファルトには枝葉が散乱している。気温は25℃ほどで追い風。500kmほど南にある梅雨前線がいい風を吹かしている感じだ。

やっぱデュラエースは軽いな……と機嫌良く登った。タイムは25分01秒。普段より1分早い。軽量ホイールと高級タイヤは効果あるよね……とハーフは全部19Tでやっつけた。また20分で登れる日が来るんじゃないかと錯覚できる日だ。

4本やって今日はこの辺で勘弁したると下っていると、バースト。道路に横たわる枝を避けたとき、前輪が何かを踏んで、ブシューといっぺんに空気が抜けた。タイヤを裂いたらしい。最悪だと30kmほどもリムで走って帰ることになる。ひとまず沢まで下ってペプシの空きボトルに水を汲んで一口飲んで、どれどれと前輪をチェック。

そのとき脛に貼りついているヤマビルを発見。これは不幸中の幸いだ。まだ噛みつかれていない。引っぺがして草むらに捨てる。それにしても今日は草むらに入った覚えがないがと記憶をたどれば、テイカカズラの花を撮るときにガードレールをまたいでススキの中を歩いたことを思い出した。たったあれしきのことでヒルにとりつかれるとは、恐るべし半原越。

タイヤの方は幸いサイドが5mmほど切れているだけだ。チューブはもうだめだけど換えもあるから事なきを得そうだ。タイヤレバーがなぜか1本しかない。それぐらいはトラブルのうちに入らない。裂け目にはテレホンカードをあててチューブがはみ出すのを防ぐ。こういうのも年季のなせる技だ。それにしてもチューブレス仕様のリムになってからタイヤ交換が楽だ。クリンチャーのときにこの溝を作って欲しかったな。軽量コンパクトな空気入れも発明されてるし、大きく裂けなればパンクは問題ない。

帰宅して東急ストアにバナナを買いに行こうと、シューズを履き替えると、靴下にべっとり血痕。ヤマビルのやつは靴下の中、しかもシューズとのわずかな隙間の絶妙なところに隠れて血を吸っていたのだ。脛にはりついたヒルを見つけたとき、念のために足元をチェックしたが、血が見えなくて見過ごした。よし、おまえは流刑だと判決を言い渡すべく靴下を脱いで探しても見つからない。さては、これから噛みつくんですという顔をしながらたらふく吸ってやがったか。

出血は夜になっても止まらず、床に点々と血をつけて歩くはめになった。そのおかげでワコーズのマルチクリーナーが血を拭くのにも役立つことがわかった。

今回はまんまと食い逃げされた。じつは走りながら噛まれている所に違和感は感じていたものの、どうせひっつき虫かなんかが入ったんだろうと確認を怠った。ヒルは好きな動物ではないが、憎らしいとは思わない。半原越で遊ぶ以上はやられることもあるだろう。特に防御策をこうじる気もない。こうなっては我が血液を糧に元気な子を産んでくれと強がりを言うぐらいしかやることがない。


2021.6.06(日)雨のち晴れ ミズキが茂る

ミズキ

5月17日に見たときには丸裸だった下水処理場のミズキが何事もなかったかのように青々と葉を茂らせている。

久々に境川に出かけて、ちょいと様子を見てやろうかと立ち寄って驚いた。速やかに葉を広げるだろうとは思っていたが、完全復活は梅雨明けぐらいだろうと予想していた。まさか梅雨入り前、ひと月もたたずにここまで回復するとは。ミズキ恐るべし。

いっぽう、ミズキを食い尽くしたキアシドクガのほうは影も形も見えない。山の方ではどこにいってもひらひら飛ぶ姿がみられるが、麓ではまったく見つからない。ただそれはあくまで見えないだけで、この木には飛んでいた蛾の数の100倍の卵がついているだろう。


2021.6.11(金)晴れ 今年のジョロウグモ

ジョロウグモ

今年も庭にジョロウグモがたくさん確認できている。いまは2齢と思う。ジョロウグモはまどいで一回脱皮してから個々に散る。巣に脱皮殻がついていないから2齢とふんだ。

数が多いから庭での発生だろう。子虫の分散状況を見るに、ナツツバキの裏のモッコウバラの茂みあたりに卵嚢が産み付けられていたものと思われる。

写真のはザクロの枯れ枝に巣をかまえている。2齢とはいえ、ジョロウグモらしい3Dの巣にしているのはさすがだ。この個体も撮影中になにか獲物がかかって、さっと移動して捕まえ定位置にもどって糸で巻く仕草を見せた。庭にはそれなりに小さな虫は多く稼ぎもあるのだろう。とくにヒメジョオンに巣をかけたのが成功している。ヒメジョオンにはアブラムシがたかっていて、その有翅虫が糸にかかるのだ。

ジョロウグモは私の希望だ。ジョロウグモがいるといないとでは庭の輝きがぜんぜんちがう。ジョロウグモは失った脚を脱皮で再生できるのかという長年の疑問が今年解けるかもしれない。


2021.6.12(土)晴れ アサギマダラ

アサギマダラ

群青で半原越へ。今日は25分ぴったりで登った。しかし、途中ヘビの死体を見つけて足つき1回の参考記録。写真はアサギマダラ。TG-5のフルオートならこんなもんだ。

半原越にシノグロッサムとおぼしき青い花がある。アブとか蝶とかいろいろ集めているから気になっている。そもそもなんであなたがそこに?という疑問がある。その花を撮っているところにアサギマダラが飛んできた。ずいぶん執着して花にからんでいる。生え際の地面にまで降りる。魅力的な花らしい。

ちょっとくたびれている感じで一心不乱に花の蜜を吸っている。千載一遇のチャンス到来。3分ほど枯れ木のふりをして、蝶が気にしてないのをいいことに近づいて撮りまくった。アサギマダラはときめきの蝶だ。高校生のときの全ての出会いを鮮明に覚えている。裏山の杉林、高校の挌技場、石鎚山の稜線。私にも青春というものがあったなら、アサギマダラが青春の蝶だ。今年は半原越でもう4回もアサギマダラを見ている。

アサギマダラには近年まがいものが出回っている。自転車に乗ってアカボシゴマダラに何度騙されたか数知れない。最近は見慣れてきてようやく1秒でそれと判断できるようになった。ところが今年はまだアカボシゴマダラを見ていない。これはこれで異常事態だと思う。アカボシゴマダラはこの10年あまり神奈川の山野で爆発的な増殖を見せている。庭のエノキにまで産卵するほどの繁栄ぶりだ。その彼らを壊滅させるような何かがいま起きているのかもしれない。


2021.6.13(日)くもり一時小雨 ゲンゴロウ

コシマゲンゴロウ

今日あたりはウスバキトンボが見られるんじゃないかとTNI 7005MKで相模川流域の河川巡り。

ウスバキトンボを期待しているのは、梅雨前線がいまいちはっきりしてなくて関東が高気圧に覆われる日が続いたからだ。荻野川を下って中津川に入り、その支流の善明川であっけなくウスバキトンボを見つけた。たった1頭を2秒しか見られなかったけど、至近距離正面からの確認なので見間違いはない。今年も本物の夏が南からやってきた。

鳶尾山を越えて荻野川を下って、ゴルフ場の峠を通って小鮎川に入る。小鮎川には定期的に観察している用水と水田がある。ひょんなことからコガムシなんかを見つけて心ひかれているのだ。

ガムシやゲンゴロウは大好きな虫だ。ただしガムシは死体を一度拾ったことがあるだけで、ゲンゴロウに至っては初見が東急本店のペット売り場というありさまだ。その後25年間見ていない。コガタノゲンゴロウは中学のときに裏山のため池で一頭だけ捕まえた。ガムシ・ゲンゴロウ類の微小なものなら千丈川にたくさん生息していた。小石をめくって捕まえたり、街灯を回って拾ったものを小さな水槽で泳がせ、いつか大物をゲットしたいと夢見ていた。実際夢の中でなら手のひらサイズのゲンゴロウを幾度も捕まえている。

今日見つけたのは写真のコシマゲンゴロウとコシマゲンゴロウよりもちょっと大きいコガムシ。水中にはアマガエルらしきオタマジャクシがたくさん泳ぎ、ヒルだのなんだのと虫が多い。残念ながら河川との連携は悪く、ドジョウなんかは期待できない。

ゲンゴロウ類なんて相模平野の片縁をサイクリングしているだけではまず見つからない。田んぼならどこにでもいるっていうしろものではないからだ。神奈川に来て最初に彼らを見つけたのがこの小鮎川べりの水田だった。10年ほど前だったろうか。休耕田の脇にすわって昼飯のおにぎりを食べているとき、足元をコガムシが泳いでいた。その気で探してみれば、けっこう多産する場所だとわかった。そこは小鮎川ー田畑ーゴルフ場という立地で、ゴルフ場の境界は荒れ放題に放置された林の崖である。古代には小鮎川がその崖下を流路にしたこともあったろう。地勢から察するに林の奥にため池か沼がある感じだ。そこでゲンゴロウやガムシ類が命を繋いでいるのだと想像している。

そんなエデンの園みたいなもんがあるかどうかは確かめる気もない。ただ、ここならいつか大きなゲンゴロウ・ガムシを発見できるかもしれない。そういう希望があるだけで景色が輝いて見える。私の遊びはそれでじゅうぶんだ。


2021.6.14(月)くもりときどき小雨 TNI 7005MK

TNI 7005MKは琴線触れまくりのいいフレームだ。頑丈一点張りのアルミなんで鈍重さはいなめないけれど、フォーク込みで3万円というのは何ものにもかえがたい魅力がある。弱点は、設計に雑なところがあり、いまいち詰め切れてないな〜と残念なところぐらいだ。

TNI 7005MKはシートチューブ420mmのがあるのも高評価ポイント。女房に試してもらうために買った。700cのロードに乗って楽しいかどうかを試すためだ。フレーム以外の部品は有り余っている。最小コストのお試し自転車として組み上げた。

その評価は悪いものでなく、八ヶ岳のグランフォンド(メディオ)も時間内完走した。700cのロードってけっこういいということになり、本物に買い換えた。ジャイアントのLivは女子用にBB付近のしなりを大きくしたり、ブレーキを軽く引けるようにオリジナルのバネを組み込んだり、工夫満載の自転車だ。非力な人でも軽くきびきびした異次元の走りができるだろう。

質実剛健なTNI 7005MKにも一つ許せないところがあった。謎のきしみが出ることだ。駆動系のどこをどうやってもその軋みがとれない。トルクをかけないときにも鳴るからこまったもんだ。フレームの割れやゆがみなんかの致命的なキシキシではないことは確かめたけど、異音は許せるものではない。Livが来たら即座に分解して駐車場のすみに転がしておいた。

放置から2年ほどたって埃まみれのTNI 7005MKから「わたしまだ走りたいんですが」という声が聞こえてくるようになった。それじゃあまたという気分になって自分用に組んだ。ロードのフレームは小が大をかねる。700cのホイールである以上、どれだけフロントセンターを詰めても限界がある。どれだけシートチューブを詰めても限界があるのだ。というわけで12cmのステムを追加購入するだけで、それなりに走れる自転車になった。

問題のキシキシ軋みだが、原因がわかった。もとからついていたヘッドパーツは防水用のゴムが劣化で切れ、ベアリングがかりかりして限界だった。幸い群青と同じ規格のヘッドパーツらしいので交換することにした。シールドベアリングに薄い輪ゴムを乗っけてみたところあっけなく無音になったのだ。モデルによってはクラウンコーンにあらかじめゴムが貼り付けられているものもあるらしいが、構造上は必要ないパーツのはずだ。今回は予備に買っておいたヘッドセットIS22のゴムが転がっていたので何の気なしに組み込んで当たりを引いた。昨日、ためしにゴムを外して走ってみれば、相変わらずのキシキシ軋みが出た。薄いゴム片という儚いパーツが廃棄処分か延命かっていうフレームの一大事を担うってどうなんだろう。

そもそも私はインテグラルヘッドっていうものが嫌いだ。この構造でまともな自転車になるとは思えないのだ。インテグラルヘッドには軽量安価でスタイリッシュで組み立てが楽っていうぐらいしか長所がない。シールドベアリングの内側をフォークで挟み、ヘッドチューブに外側を押しつける。走行する自転車は、常にベアリングを地面に押す力がかかる。前後左右にねじれもかかる。このやりかたでシールドベアリングがもつわけがない。どんだけメンテに手をかけても長持ちしないだろう。しかもヘッドはメーカーごとに独自規格になっており、フレームのモデルチェンジで互換性を失うのが常だ。5年後に自力交換なんてまず不可能だろう。ヘッドがおかしくなる1年後にさっさと完成車を買い換える人はいいかもしれないが、バーテープですら30年使っている私にはなじめない。


2021.6.15(火)晴れ一時くもり 降水雲の虹

虹

私はサイクリングで相模線の相武台付近にある踏切に3回連続でかかった猛者である。そうめったにできることではない。小田急線の相武台前駅の踏切を3回連続でかからないくらいの難しさがあると思う。

2回目は遮断機が下りはじめたところで、これは長くなるなとポケットから羊羹を出してたべることにした。

なにげに前の雲を見ると虹が架かっている。その高さから反射的に環水平アークだと思った。まる一日晴れた日でもある。しかし、2秒後にその間違いを訂正した。雲は巻雲じゃない、時刻は夕方、17時の太陽は虹の反対側に低くかかっている。じゃあ普通の虹なんだろう。でもどうして雲に虹が架かってるんだろう。

雲は層積雲だ。けっこう育った積雲が夕刻になって衰えているものだ。雲底はぼんやり毛羽立っている。そうか、あそこに雨が降ってるんだ。雲底の高さは1500〜2000mぐらいと概算できる。夏なんでその高さの雲は水だろう。上昇気流の衰えで大きな雲粒が雨になって落ちている。地上までは届かない程度の雨だ。

このタイプの虹は初めて見た。虹がなければ雨のことに気づかなかったはずだ。さすがに行きと帰りで相模線の踏切にひっかかっただけのことはある。幸運は低確率の連続で起きるものだ。しかしそのときはまだ翌日の行きに同じ踏切にかかると予想はしてなかった。なにしろ年に3回ぐらいしか引っかからない踏切だから。


2021.6.16(水) 落とし文

オトシブミ

5月の連休に半原越からオトシブミの落とし文を拾ってきた。3週間ぐらいで羽化した成虫が現れた。最初にでてきたのがウスモンオトシブミ。続いてオトシブミとアカクビナガオトシブミが出てきた。

落とし文を拾ったのは、半原越の峠を挟んで愛川側と清川側の5か所ぐらいだ。全部同じ種類の木の下で拾ったわけではない。きっと木の種類でついてたオトシブミがちがうのだろう。見上げた感じで一番多いのがフサザクラだった。成虫の数はアカクビナガオトシブミが多かったから、フサザクラにはアカクビナガオトシブミと予想している。

今回すごいなと思ったのはオトシブミの粗食ぶりである。羽化後の葉を開いて調べるとあまり食べられてないことがわかった。一枚の葉の4分の1ぐらいしか食べてないんじゃなかろうか。小さいとはいえたいしたもんだと感心する。

今日の写真は落とし文の羽化跡。2つ開いている。なぜ?という疑問には2つの予想が立つ。穴を開けて外に出ようかと思ったけど、ちょっとためらって中で待機して、穴を開けたことを忘れてもう1回開けてしまった。もう一つは、2頭が出てきた。この場合、母親がうかつも2個の卵を包んだのだろう。さすがに一卵性双生児はあるまい。

オトシブミが極めて粗食に耐えることを思えば、2匹が同居するのもアリではないか。そうなるとお母さんの負担が減るんだが。

半原越の道路では5月の下旬に落とし文を見なくなった。先々週ぐらいからまたずいぶん落ちているのを見かけるようになった。5月羽化組の成虫が巻いた葉であろうか。多いのはフサザクラの下である。


2021.6.17(木) 外来種の侵入

オトシブミ

12日にアサギマダラが来ていた花を環境込みで撮ったものだ。この花があることは数年前から気づいていた。風情のない見慣れぬ花できっと籠抜けの外来種なんだろうと見て見ぬふりをしてきた。

今年になってからは虫もよく来ているし、この場所以外にも生えて来たのでいつまでも見て見ぬふりもできないと観念した。といっても名前や渡来期とか、せいぜいそんなことを調べるだけだ。花の様子からはムラサキ科だろうと予想は立てられた。しかし、なかなかそれっぽいものに当たらない。外来の新参者ではよくあることだ。ひとまずシノグロッサムということにした。ネット検索がない時代にはこの程度のことでもあきらめるしかなった。

こいつの生えている所は特徴的だ。10年ほど前に法面の工事を行ったところだ。半原越はどこでも崩落が起きる道路で、しばしば補修工事が行われる。おそらくはその補修工事のコンクリートや砂利なんかに紛れたか、自動車について来たんだろう。こいつのほか半原越の道路でポツポツ見られるシノグロッサムは実生で増えたのかもしれない。

ホソバコガク

この写真の中にも新参者がいる。左手の複葉を茂らせているかっこいい木だ。かっこいいわりにここ以外では見たことがなかった。こいつもしばらくその名がわからなかった。手持ちの植物図鑑にも出てない。さては外来種かという程度の予想はたった。


ホソバコガク

初見から1週間後。その木はものすごい花をつけていた。花穂の様子から小さい地味な花をいっぱい咲かせるんだろうと勝手に予想していたもので、ちとたまげた。これだけ特徴のある花なら名前調べも楽だ。ホソバコガクというらしい。

ホソバコガクの生えているところも特徴的だ。5年ほど前に道路が崩落した所である。やはりこいつもそのときの補修工事に伴ってやってきたのだろうと思う。今のところ半原越で見ているのはここだけだ。

半原越では侵入植物の種類も偏りがあって面白い。里では普通のドクダミなんかは人が歩く細道に申し訳なさそうにちょっとだけ生えている。カタバミは舗装路の脇で普通に見られるが、ムラサキカタバミ、ヒナツルソバ、ナガミヒナゲシらは見たことがない。外来種はなんでもはびこるってわけじゃない。人の活動とその植物生理がマッチする必要があるんだろう。


2021.6.18(金)晴れのちくもり 虫の世界

ヒメジョオン

朝恒例の庭チェックでヒメジョオンをみると、ジョロウグモが脱皮していた。正確には脱皮直後の逆さま(といってもジョロウグモは基本さかさま)にぶら下がってる状態だった。ちゃんと8本の脚がそろっている。もともと8本だったから脱皮で脚が再生できることが確認できたわけではない。これまでの観察では、ジョロウグモは7月中頃のずいぶん小さいうちに成虫になるようだ。うかうかしてはいられない。なるべく多くチャンスを持ちたい。

今日の写真は脱皮したジョロウグモが足場にしているヒメジョオン。各種の虫が寄って虫世界をみせてくれるラブリーな雑草だ。茎葉にたかるアブラムシがジョロウグモの巣にかかって、がぶっとやられたのを目撃したこともある。

昨日はこのヒメジョオンの葉に何者かが産み付けた卵が見つかった。その卵の上の花には小さなハチがいる。これは庭の常連だ。ヒメジョオンの蜜を吸って花粉を集める。そのそばの花にはササグモがいる。こいつはアブラムシを食っているのだろうか。この写真の中にはアブラムシがずいぶん少ない気がする。ササグモはこのハチを食えなかったが、それを気にするそぶりはない。あわてなくてもヒメジョオンはたくさん虫を寄せる。ここでじっと待って一撃必殺をねらっているのだろう。


2021.6.19(土)雨 とほうにくれたクワガタ

ノコギリクワガタ

朝から雨となると、自転車は境川だ。なぜか雨が降っただけで境川には人がいなくなる。群青で乗り出してみると南からの微風だ。30km/h巡航の練習にはもってこいだ。

気もち良く3時間ほど練習して帰りは左岸に登ろうと思った。境川は両側がちょっとした崖になっている。左岸には畑と林と古い住宅がある。その中を縫うようにアップダウンの細道があるのだ。

あえてそういう道に足を運ぶのはクワガタが欲しいからだ。いま私のところにはコクワガタ♀が2頭いる。オスも1匹欲しい。クワガタほしさにサイクリングするのはあながち悪い了見ではない。私はいま確実にクワガタが集まる木を知らない。クワガタを捕れる確率が最も高いのがちょいとした林の坂道を自転車で走ることなのだ。そうしてすでに何頭もクワガタをゲットしているし、いまいる2匹目のメスは先日目久尻川の坂で拾ってきたものだ。

境川のサイクリングロードから左岸を上って、ちょいと広い道路に出て、こりゃいかんなとすぐに小道を下って、サイクリングロードの近くに出て、また違う道を上る。雨は本降りになって、走ることが楽しくなってきた。

3回目の上りははじめての道だ。「この道には雨に打たれて途方にくれたクワガタが転がってるかもな」と思って入った。そう思いながらコーナーを回った10秒後、道の真ん中に転がるクワガタがいた。期待はしていたが、予想はしてなくて慌てた。前輪が右を通り、後輪は左を通すという荒技でかわすしかなかった。さすがにひやっとした。ぷすっと虫を踏む感触が来るんじゃないかと。

幸い事なきを得て通り過ぎ引き返す。ノコギリクワガタのオスだ。ずいぶん長いこと転がっていたとみえて、すっかり途方にくれている。生きる気力がないようだ。拾い上げてみると腰に力が入ってない。だめだ間に合わなかった。こうなると余命幾ばくもない。会うかもしれないと思って会った虫だ。私にはちょくちょくこういうことがある。これも仏縁かなんかなんだろう、ならば看取ってやろうと持って帰ることにした。


2021.6.20(日)晴れ コガムシ

コガムシ

小鮎川の脇にはゲンゴロウ類が多産する場所がある。今日も群青で出かけていった。「コガムシをここで見つけたのがはじまりだったな。」と自転車を止めて休耕田を覗き込んだ。先週にはまだ水がほとんど溜まっていない場所だった。今日は太いパイプから勢いよく水が噴き出して沼みたいになっている。大型のタニシがずいぶんいる。いわゆるジャンボタニシではなさそうだ。もしかして過去にはタニシの養殖場でもあったのかと思う。

そこに元気に泳ぐ黒い虫。けっこう素早い。水面に腹を出して一呼吸。2cmほどある真っ黒な姿。一瞬、ゲンゴロウかと思ったけど脚の感じはガムシだ。コガムシだろうか、それにしても大きいな。

この倍もあるガムシかゲンゴロウだったら飛び込んで捕まえるところだ。田んぼじゃないんで、ただの変なオヤジで済むだろう。コガムシなら様子を見てチャンスがあれば撮影でもしよう。

そうやって自転車を倒して道路脇の岸から覗き込んでいると、次々見つかる。コガムシは1匹ではなかった。2つ、3つ、4つ。やっぱりこの休耕田は多産地だ。追いかけっこみたいなことになってるのは求愛行動だろうか。ゲンゴロウ類ってのは一味ちがう愛嬌があるな。

何かのひょうしにそのうちの1匹が近づいてきた。水路がなくてすぐ足元だ。電光石火、考えるよりも早く右手が動いた。さっと掬い上げた手には確かな感触がある。さて捕まえてどうしよう? ひとまず撮影だと左手に移してTG-5をかまえるが、コガムシの動きが早くてちゃんと写せない。しばらくすれば落ち着くかと待ってみたがダメそうだ。いざ捕まえると子どもっぽい愛着がわいてしまった。50年ほど前、はじめてコガムシを拾って水槽にいれたときの興奮がよみがえってきたのだ。「うちの子らにも見せてやろうか」と持って帰ることにした。


2021.6.23(水)くもり一時雨 つぶれる確率

毛虫

ヒトリガの毛虫はよくみかける。わが家にもいるけど、一番目にするのは道路を全力疾走で渡ろうとする姿だ。いつも一目散に対岸へ向かっているから、きっと渡りたいという意志があるのだろう。

県道60号線は広くて交通量が多い嫌いな道だ。ただ清川村から帰るにはそれしか選択肢がない。

下りを自転車で疾走していると、毛虫が飛びだしてきた。走行ラインにはまだ入っておらずハンドルを切るまでのこともなかった。しかし、毛虫が道路を渡りきることは不可能と直観した。60号線は交通量が多いメインストリートだ。轢かれずに渡れるのは千回に1回ぐらいだろう、間に合えば拾い上げて渡らせようとブレーキを引いてUターンすることにした。

まずいことに、2台の乗用車と3台のオートバイが列になって私を追い越していった。案の定だな……と毛虫を見ると写真の状態だ。8mの道路を秒速3cmの毛虫が横断できる確率を求めよ。ただし自動車は30秒に一台、時速50kmで通過し、タイヤの幅を30cmとする。なんていう算数の問題を考えながら、毛虫をつまんで元いたほうに投げた。

岩

実は、毛虫の写真の30分前にこの岩の写真も撮っていた。これは半原越の道路に落ちている岩である。半原越の路面では「何が出るかな〜」のサイコロぐらいもある大きい岩が珍しくない。こいつは数日前に右手の山側から転げ落ちたものだ。場所は一二を争う落石ポイントで、私の感覚では年に1個ぐらいはこのサイズの岩が落ちると思う。小さなものは数え切れない。

この写真を撮りながら、私は遅かれ早かれ岩につぶされて死ぬだろうと思った。それは今日かもしれないし、来週かも来年かもしれない。その死は奇跡でも天罰でもなく単に確率の問題だ。

自転車を走らせながら計算していると、毛虫と私にそれほどの差はないように思えてきた。60号線を渡る毛虫が轢かれる確率は私が半原越で岩につぶされる確率の10万倍か1000万倍ぐらいだろう。ただし人間は岩につぶされることを予見できる。半原越を走らないという回避策もあるが、私にそれはできない。ありがちなのは岩に当たる前に力尽きて半原越を走れなくなることだ。それは確率の問題ではなく時間の問題だ。


2021.6.24(木)くもり一時雨のち晴れ 巣にかかるゴミ

サツマノミダマシ

ヒメジョオンに巣をはっていたサツマノミダマシが昨日から行方不明だ。写真は今朝撮ったその空き巣。ヒメジョオンの種がいっぱいかかっている。ヒメジョオンの下に巣を張れば、花びらだの種などがいっぱいかかるのが道理だ。これまでサツマノミダマシの巣にはほとんどゴミらしいものがかかってなかったのは、やつがせっせとゴミを片付けていたのだろう。

同じヒメジョオンにジョロウグモも巣をかけている。やはりヒメジョオンのゴミはかかる。雨の日の翌日なんか、よくもこれほどかかったもんだと感心するぐらいのゴミがあったが、それは速やかに片付けられた。

ただし、ジョロウグモは全部を片付けない。脱皮殻もその場に残し、必ず数個のゴミと同居している。しかも片付けないどころか、わざわざ架けているようにも思う。というのは巣の中央で食べた獲物の亡骸が円網以外の所に架かっているからだ。それはいわゆるデポ食料なのか、何らかのカモフラージュなのか。

いずれにしてもジョロウグモも他のクモも、彼らがゴミを片付けたり架けたりする様子は見てはいない。しょうもない観察者だ。自分で自分を叱ってやりたい。


2021.6.26(土)晴れのちくもり ミズキの花盛り

ミズキ

半原越のミズキが花盛りだった。2週間前に来たときには花なんてなかった。それが山の全部のミズキが今や盛りと咲き誇っている。この写真では手前の枝だけでなく、奥の木、下の木も満開だ。ミズキを知らない人が見れば、こいつは梅雨の花だと思うだろう。


ミズキ

じつは違うんだ、本来は今頃は実が青くふくらんでいる季節なんだ、という木をしつこく探した。ちらほらとしかなくて、遠いからスマホでは実が写らない。TG-5の電池め、この大事なときに落ちやがって、やっぱパチモン電池はいかん、などと反省してもおそい。ようやく撮影のできる所の木を見つけて、ガードレールに立って撮ったのがこの写真。

なんで季節外れの花盛りになったのかという、その原因はキアシドクガ以外に考えられない。キアシドクガの食害から回復して花をつけたんだろうと思う。実際、花のついている枝を見れば、キアシドクガの食い跡が歴然と残っている。

ここまでならまあわかるけど、ことはそれほど単純ではなかった。定期観察していたガードレール脇のミズキもやはり花をつけている。ははんと通り過ぎて次の木を見れば、実がたわわである。この木はキアシドクガの食欲のすさまじさを撮ろうと木の下まで足を運んだあの木だ。キアシドクガに食われても開花していない木がある。花のあるなしは枝ではなく、木にかかる。キアシドクガにやられても実をつけた木にはまったく花がないのだ。

こうなると研究に値する現象だ。キアシドクガの食害と開花の関係やいかに。たんに花芽が食われちまって、あわてた木が花を咲かせたという説明は通らないだろう。そもそもキアシドクガが食っているときに花も咲いているという記憶がある。その記憶・記録もあやしいから来年はしっかり調査せねばならぬ。


2021.6.27(日)くもり一時雨 花も実もないミズキ

ミズキ

昨日半原越で花盛りのミズキを見て驚いた。狂い咲きで片付けるには尋常じゃない数だ。それでは半原越以外ではどうなんだろうと境川のをチェックしてみることにした。

まずはキアシドクガの駆除が行われた近所の公園。普通に実がふくらんでいる。境川も同様だった。キアシドクガが乱舞していたミズキは数本確認しているが、それらはちゃんと実をつけている。じゃっかん黄色味がかっている枝は実のふくらみが遅いものだろう。目をこらせば花やつぼみではなく実が確認できる。キアシドクガがいなかった木は青々した実がたわわだ。

こうなると半原越の開花のわけがわからなくなる。キアシドクガ以外の要因があるんだろうか。

遠目にもしや?と間違えたのは全てネズミモチだった。いま境川はネズミモチが満開だ。強烈な臭気をはなつ薄黄色の花がいたるところにある。野生のも植栽のもある。3月の終わりには、この世の中に桜ってのはこんなにあるのかと愕然とするが、ネズミモチは桜以上にあると思う。実生でも増えるのは桜にまさる強みだろう。臭いだけでなくいい蜜もあるようで、いろいろ細かい虫がたかる人気者にはちがいない。

ミズキで見逃してはいけないのが下水処理場の木だ。今日の写真はその木の枝。ぜんぜん実がない。花もない。境川の他の木がことごとく実をふくらませる中で下水処理場の木は実がない。半原越では実のないミズキは花をつけている。花も実もないってのはどういうことなんだろう。考えられるのは、徹底的にやられた結果ということだ。私が今年見てきた中で小さな葉柄だけを残して丸裸にされたミズキはこいつらだけだ。

さてこのミズキはどうなるんだろう。まさかの7月開花なんていうサプライズがあるんだろうか。


2021.6.29(火)晴れのちくもり一時雨 クワガタの復活

ノコギリクワガタ

写真のノコギリクワガタを見つけたのは雨のそぼ降る19日の午後だった。一見して途方にくれていると思った。クワガタはアスファルトでひっくり返ると起き上がれない。翅を広げてはばたきでもしないかぎり無理だ。じたばたしているうちに弱ってしまう。

拾い上げても抵抗しない。腰はだらんとして力なく、たたんだ脚がゆっくり宙をかくだけだ。手の施しようもないが、死を看取ってやるつもりで持ち帰った。

延命のためにできることはなかった。わが家では瀕死の虫を延命させたことが幾度かある。子どもらはそれが面白かったらしく、栄養ドリンクを飲ませてはどうか、ストレッチ体操をさせればどうか、などとアイデアをだす。メープルシロップを浸した脱脂綿を口元に当てても何の反応もない。口吻はだらっと伸びたきりで、触角も動かなかった。

明日には死んでるだろうけど念のためにと、無駄な運動をしないよう半原越で拾った木片を抱かせ、熱帯魚をすくう網に入れて放置することにした。

翌朝、日曜にはまだ生きていた。ただし回復している感じはまったくない。ゆるゆる動きはする。しかし動いてどうなるかというと、脚をたたんでひっくり返る死亡姿勢になるだけだ。それでも生きてはいるのだからと、足場の木片にメープルシロップの脱脂綿を木綿糸でくくりつけておいた。

月曜の朝、異変が起きた。ノコギリクワガタが行方不明になったのだ。最後の力をふりしぼって網から這い出たと見える。すぐに部屋を捜索したが見つからない。家具の裏でひっくり返って途方にくれているという最悪の事態も脳裏にあった。最良の事態は、わずかに開いていた窓から飛んで逃げることだが、そんな行動力はなさそうだった。

部屋には犬がいる。もしクワガタがこそこそ動くようなら察知するかもしれなかった。かつてはそうやってゴキブリを捕まえるのが好きな犬だった。最近は飽きたのか、ゴキブリには反応しなくなっているから期待はできない。かえって食う危険がないのがよろこばしい。

火曜の未明、かすかな気配に反応したのは犬ではなく女房だった。布団から起き上がり、隣の部屋でかさこそ音がしているというのだ。もしやと行ってみると、たしかに虫はいたがクワガタではなかった。あきれたことに、コガムシが床にひっくり返っていた。水槽の蓋をこじあけて逃げ出したのだ。蓋の重しが足りなかったようだ。これはこれで早期発見できてよかった。午前3時に起きたのは無駄ではなかった。

日付が変わって水曜の午前1時、いつものようにソファーでうとうとしながら宇宙人の出てくるテレビをみていると、ぶーんと力強い羽音がした。くだんのノコギリクワガタだ。床から飛び立って天井まで行った。完全復活してるすごいじゃないか。

落ちたところを拾い上げ、快気祝いにメープルシロップをやると盛んになめている。数日前の虫の息状態が嘘のようだ。腰が決まって足取りも確か。捕まえようとすると大あごで指を挟む。最大級のノコギリクワガタなんで、噛まれるとそれなりに痛い。家の者を驚かせようと、目立つところに飾ることにした。食卓の真ん中に熱帯魚の網と木片とクワガタを置き、100円ショップで買った金網のゴミ箱をかぶせた。念のために保育社の原色図鑑を2冊重しにした。

翌朝、狙い通り家の者たちを喜びあきれさせることができた。テーブルの虫は、どうやって回復したのか、どこに隠れていたのか、重しの本は1冊でいいんじゃないかと、一躍アイドルになった。ただいつまでもテーブルに置くわけにもいかない。コクワガタの育成ケースに入れると、速やかに木くずの中にもぐっていった。

ノコギリクワガタ

さて、すっかり愛着がわいたノコギリクワガタだが、ペットにする予定はない。すてることになるのだが、もといたところがいいとは思えなかった。私の生活圏でノコギリクワガタの生息地はいくつか知っている。しかしそれらは灯火に引かれタイヤに轢かれる危険が大きい。サイクリングのついでに見つけているのだから当然だ。ついでに行ける所で、クワガタがいて人為的危険がないのはどこか。鳶尾山も小鮎川の右岸もいいが、最適なのは半原越だろう。ただしクワガタ捨て程度のことでヒルに吸い付かれるのは嫌だ。半原越はヤマビルの巣窟だから林を歩くのはちょっとにしたい。あくまで自転車で到達できる所だ。最適なのは厚木高校広場の向かい側の斜面だと思った。

という経緯で写真のようにノコギリクワガタを半原越に捨ててきた。娘は離れた所に捨てると生態系の攪乱を招くのではないかと心配する。たしかに現状この辺では20kmを隔てたクワガタ個体群が交配するのは無理だろう。移動を試みてもすぐに道路で死ぬか、生息に適さない住宅地で力尽きるはずだ。この状態が10万年ほど続けば、ガラパゴスよろしく横浜市と清川村のノコギリクワガタは別種になるかもしれない。その進化を20年ぐらい遅らせる暴挙をやったかもしれないと、すこし反省した。


2021.6.30(水)くもり 今朝のジョロウグモたち

朝、庭のジョロウグモを見るのが日課になっている。今年はとてもジョロウグモの数が多く張り合いがある。今朝は南のエアコン室外機の上に新参者が巣をかまえていた。日曜にモッコウバラの剪定を行ったから、モッコウバラに巣を構えていたものが散ってきたのかもしれない。

室外機の上に巣があることを知らなかったもので、糸に軽く触れてしまった。そして驚いた。ジョロウグモが巣を激しく揺すったのだ。これは私がバーサク行動と呼んでいるもので、威嚇とか警戒とか、その意味が知りたい行動だ。クモ類でもときどき目にする行動ではあるが、ジョロウグモでは意識してなかった。ジョロウグモは糸に触れてしまうと、ささっと足場糸を伝って身を隠すもんだと思っていたのだ。しかもまだ2齢か3齢の小さな個体には不釣り合いな強い揺すり方だ。15秒ほど揺すって止まったが、気になってもう一度触ってみると、再度バーサク行動をはじめた。今度は8秒ほどに縮まった。だんだん慣れるのかと、もう一度触ってみたら5秒ほどになって、震幅も小さかった。

ジョロウグモ

この写真は昨日撮ったもの。昨日新たに加わったヒメジョオン2頭目の巣だ。巣にはヒメジョオンの種などのゴミがたくさんかかっている。撮影しながらこのゴミは早晩撤去されるだろうと思った。ジョロウグモは巣に数個のゴミをつけているのが常だ。それはかなり厳密なルールだと確信している。

ジョロウグモ

そして今朝、予想通りヒメジョオンの種はきれいさっぱりなくなっていた。自然になくなることはありそうにないから、ジョロウグモ本人が片付けたのだと思う。思うだけじゃなくて現場を押さえろよ簡単なことじゃないかという心の声が聞こえる。この10年あまり毎年大きくなっている心の声である。

この巣にはけっこう大きな虫がかかっていた。たぶん獲物だと思うけど、飛んできた脱皮殻のようにも見える。これほどはっきりしたものでもそれが何者なのか私にはわからない。いつか、あっこれだ!という発見があるだろうと期待している。


2021.7.1(木)くもりときどき雨 謎のトマトケチャップ

トマトケチャップ

数日前から壁に写真のものがついている。一見して思うのはトマトケチャップだ。ケチャップの質感と容器の艶とへこんだ感じに穴のあいた白いキャップ。これほどトマトケチャップに似ている物は本物以外に知らない。

むろんこの高さ3mmもない物体がトマトケチャップであるはずはない。何者かの卵なんだろう。母親に心当たりはまったくない。私が知っている虫の卵で類似のものがないのだ。カメムシとか蛾なんかは食草以外にも産卵する。彼らのような習性の虫が産み付けたものだと思う。

黒い一対の点は目に思えるし、目をこらせば折りたたまれた脚なんかもあるような気がする。見つけてから3日ばかりこれといった変化はない。


2021.7.2(金)雨 孵化

サシガメ

雨は丸一日降り続いた。7月のはじめとはいえ午後5時を過ぎてあたりはもう暗かったが、庭の虫の様子を見に行った。

壁のトマトケチャップはやはり虫の卵で、小さな昆虫が孵化していた。

さっそく撮影。ストロボは使いにくいシチュエーションだ。90mmマクロを最接近にして、レンズフードを壁に置いた左手で支えるという手動手ぶれ補正で使える写真になった。やるじゃないかニコンD700。

写真で確認してみれば、どうやら卵の中では赤い体をしていて、外に出ると黒と赤のツートンカラーになるようだ。幼虫の顔つき、腰つきを見た感じではサシガメではないかと思う。サシガメなら食草に産む必要もない。普通の産卵行動ということになる。庭にも赤いの黒いのといくつかサシガメが常駐している。ここまでくればネット検索で名前がわかるだろう。


2021.7.3(土)雨のちくもり ミズキが散乱

ミズキ

雨はけっこう降っているので、田んぼの様子を見に群青ででかける。境川の本流はそれほどの増水ではなかった。最大水位でも氾濫までは1m以上の余裕がある感じだ。濁流は越流堤をこえて遊水地に入っている。ときたま観察している小さな用水路は氾濫したとみえて田やビニールハウスが水につかっていた。

今日の写真は境川の鷺舞橋からちょっと下のところだ。ミズキの実が枝ごと落ちて散乱している。ちょっと尋常ではない量だ。風の影響だとは思うけれど、ここのミズキだけが散らばっているのは解せない。ほかの所では枝葉が風に散っている感じはないのだ。

ここは毎年ミズキの種が散らばる所ではある。8月ぐらいになると自転車で走っているとタイヤがパチパチと音をたてて種をつぶす。また、例年コシアキトンボが多い所だ。数頭が群れて飛んでいるのをよく見る。なぜここにコシアキトンボが多いのかもよくわからない。川と林が接近し、流れが淀んでいる所だ。境川ではそんな場所は数少ない。コシアキトンボはそういうところを好むのだろうか。

今日はコシアキトンボが雨に濡れたアスファルトに産卵していた。おっと間違っちまったぜ、という様子でもなくしっかり産卵してた。これなら撮れそうとTG-5を取り出して寄っていくと足元にまできた。ただし普通にシャッターを切っただけではちゃんと写るわけがない。マニュアルフォーカスにして高速連写でもすれば少しはましになるか。

午後には雨が止んで厚い雲を通して太陽の感触があった。キリギリスが鳴きウスバキトンボがちらほら飛んだ。


2021.7.4(日)雨 ヒメジョオンのクモ

キヒメグモ

毎日楽しみに見ている1本のヒメジョオン。2匹いたジョロウグモは一つまた一つといなくなった。サツマノミダマシはいったんいなくなっていたのが、復帰したとみえたがまたいなくなっている。そのかわり今日はキヒメグモとおぼしきクモが不定型の巣をはっている。おそらく昨夜に張った巣だと思う。

首尾良く獲物がかかって食べているところなんだけど、どうもその獲物がアリだ。アリってこんなちんけな網にかかるんだろうか。という疑問があるけど、クモの手前にかかっている虫は間違いなくアリだ。

このアリがかかっていることから、推理の難易度は半減する。もしクモが自発的に糸の架かっているヒメジョオンに待機してアリを捕まえ巣に戻って食うというなら、手前のアリはかかってないだろう。やはりアリは網にかかったと見るのが自然だ。

ただアリってのはそれほど間抜けではないと思う。アブラムシ目当てでヒメジョオンに来て、茎葉から滑って落ちるだろうか。落ちたぐらいで糸に架かるだろうか。

オオヒメグモは虫の通り道に切れやすい糸を貼り付けて虫を釣る。こいつも類似の技を使っているのではなかろうか。


2021.7.5(月)くもりときどき雨 サシガメの幼虫

アカサシガメ

2日にトマトケチャップから孵化してきたのはアカサシガメらしいことが判明した。孵化から3日が経過して9匹の幼虫たちはまだ卵にとどまっている。

体勢をみれば、卵の全方位を警戒するような案配になっている。そして1頭が卵にのっている。まるで円陣を組んで卵を守るかのようだが、そうではないだろうと私は思う。どちらかというと「さあ、新天地に向かうぞ」と一歩踏み出したものの「いや待てよ」と留まっている感じだ。

5分程度の観察と撮影であるが、幼虫たちはまったく動かない。前日に撮った写真と比較してもほとんど動いていないようだ。雨をいやがってのことでもなさそうだ。孵化したら動かない習性と思われる。いつまでいるんだろう。


2021.7.8(木)くもりときどき雨 コガムシの飼育

コガムシ

6月20日に小鮎川の近くで捕獲したコガムシを数日飼ってみた。どうもうまくいかなかった。

まずは、ミズムシなんかを飼っていた小さなプラケースに庭のスイレン鉢の水とセリなんかの水草を入れ、そこに放り込んだ。コガムシはセリにつかまったり呼吸をしたり、けっこう活発に泳いでいた。餌はカツオブシを与えてみたが、24時間で食べている感じはなかった。

植物主食なんだろうと、庭の水草を入れたり、キャベツ、カブ、インスタントラーメンなどなどを煮て与えても食べる様子はなかった。

飼育がうまくいってないのは確かで、写真のように石ころを入れてみると、コガムシは速やかに石の影に潜り込んだ。そしてあまり動かなくなった。つまるところ隠れ場所がないと落ち着けないということなんだろう。飼育環境でもそれなりに大きな水槽と、隠れられる場所、陸地を作ってやらないとだめみたいだ。

50年ほど前に飼っていたのはどうやらヒメガムシらしいことがわかった。小さいほうはマメガムシあたりだ。子どもの目には虫は大きく見えるものだ。そのためコガムシだと勘違いしたのだろう。

コガムシとヒメガムシは等しく小型のガムシとはいえ飼育してみると感じが違う。コガムシのほうが泳ぎが速く神経質に思えた。あのときのヒメガムシたちは小さな水槽にすぐなじんで、煮干しなんかをばくばく食べたものだ。

小鮎川の生息地には何度かいってみた。いぜんとしてコガムシは簡単に見つかっている。今回はもともと飼育をするつもりはなく、すぐに放したが、ゲンゴロウ類をちゃんと飼育したいというのは少年時代の夢だ。


2021.7.10(土)晴れ 残念トンネルでの事故

トンネル

もしかしたら半原越が崩れているかもしれない。そしたら夏が終わってしまうと気が気ではなくなり群青で出かけてきた。鉄板道路だと信じていた鳶尾山が崩落事故で通行止めになっていたからだ。この夏初めての猛暑サイクリングで登りはしんどいが、そんなことは気にしてられない。幸い半原越は無傷だった。雨の影響で小石と落ち葉が多少散乱しているだけだった。

ところで写真は座間の米軍基地の残念トンネル。利用者をいらいらさせる工夫をこれでもかと盛り込んでいる。自転車で通っているといらいらするだけでなくプラス恐怖も味わえる。まったくもって8年ほども通行止めにしたあげく、よけいなペイントだの凸凹だのを付け足した残念なトンネルだ。

その残念トンネルで事故が起きた。どういう事故だったかは知らないけれど、様子を見ればあらましはわかる。

タイヤ痕からさっするに、事故車は車幅は大きくないがタイヤは幅広の乗用車だ。高速度で逆走してきてブレーキもかけずに右にハンドルを切り、けっこう高い歩道に乗り上げ、鉄製のフェンスをなぎ倒してコンクリ壁をこすって左のフェンスに軽く当たって止まった。

その車が普通に左側走行してたなら、さすがに追い抜きをしかけるわけもないから何かを避けたのだろう。その何かが自転車でないことを祈りたい。

その車がトンネルに入る前から逆走していることもありえる。前方に遅い車(自転車でないことを祈る)がいて、やっちまえってな感じで逆走することはこのトンネルではありえる。よそ者は知らないけれど、このトンネルは通行規制があって足元の明るい時間は右側は通行禁止なのだ。左を上がるだけの一方通行トンネルである。

だからこそ自転車は普通にルール違反して右側を逆走していくのだ。ところが上から自動車が降ってくるのを目撃したことが2度ある。めったに通らないこのトンネルで2度ってのはけっこうな頻度と言っていいだろう。この道路の入り口にはこぢんまりと通行規制の立て札があるが、よそ者なら見落としてもおかしくない。私が2度目に目撃したのは外人(おそらくアメリカ)のグループだった。よそ者+漢字が読めなかったのかもしれない。激逆走してて正面に自動車が降ってくれば互いパニックだ。

真相はともあれこの気の毒な事故が改善の契機になることを祈りたい。


2021.7.11(日)晴れのち一時雨 ゴキブリの仕事か

すり鉢

スイレン鉢にはメダカの稚魚が泳いでいる。餌ぐらいはやろうと、写真のすり鉢をつかっている。テトラのフレークをこのすり鉢で砕いてスイレン鉢に投げ込むのだ。毎朝一回だけ餌を与え、すり鉢は倉庫に入れる。すり鉢には写真のように餌のかすが残っている。

すり鉢

そして一日おいたすり鉢を見るとみょうにきれいだ。最初のほうはこのきれいさに気づいてもその原因を探ることはしなかった。残さずちゃんと投げ込んだのだろうなどとぼんやり思っていたのだ。

これも3度4度となれば、ちょっと変だと気づく。すり鉢に貼りついたフレークなんてスイレン鉢にこんこん打ち付けたぐらいでは落ちきらないのだ。では何者かが掃除しているのだ。ここに思い至れば、その犯人は容易に察しがつく。ゴキブリだ。

わが家にはあまりゴキブリがいない。見つかれば駆除の対象だ。だから私はゴキブリを見つけても見なかったことにしている。ゴキブリは虫としてはのろまなほうで駆除は難しくない。それでも面倒だ。そもそも私はゴキブリを憎めない。どちらかというと好きなほうだ。

松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベているような宮沢賢治的な虫を嫌う理由もない。その存在証明は汚れたすり鉢をきれいにすることぐらいで、じつにおくゆかしい。ちょこっと黒い糞を残しているのは愛嬌だ。


2021.7.15(木)くもりのち晴れ一時雨 狛江の雲

すり鉢

写真は夕方の雄大積雲。雷雨を降らせるほどの成長はできなかった。見渡してみて、入道雲っていう感じの雲はこれだけだった。

ちょっと前にはこういう雲のありかがはっきりわからなかった。雲の発達具合で高さの見当はつく。7000mから8000mとか。方向も見当はつけられた。距離が難しかった。川崎か東京湾の上にある7000mの入道雲・・・というのが関の山だった。

ところが今ではドップラーレーダーの解析画像をリアルタイムで見られるようになっている。なんてありがたいことだ。このようにぽつんと現れている入道雲なら『狛江の上空』だと断定できる。入道雲で経験を積めば他の種類の雲でも、雨雲レーダーなしでも、雲の場所がわかるようになるだろう。


2021.7.17(土)晴れ 山際川の怪

山際川

群青で神奈川セントラル河川中流域の旅。

写真は山際川。相模川の右岸の崖にそって流れている。それで山際川という名がついたのだろうか。現状では川というよりも農業用水だ。導水口は確認していないが、水は相模川本流から引かれているのであろう。山際川上流は住宅地になっており、道路の下や脇は暗渠が張り巡らされ、勢いよい流れが音でもわかる。田んぼの季節外には水門を閉ざすとみえて山際川は涸れ川になる。

山際川の右岸はサイクリングができるように整備されている。今日は水量が多いことに気づいた。なにかいるかなと覗き込めば、すぐに大きな魚が目に入ってきた。形からフナだと思う。

フナは大型のものがたくさんいた。最初は本流から登ってきたんだろうと思った。山際川は相模川との連結がいいのだ。だがすぐにそんな単純なことではないと気づいた。目につくのはフナばかり。もし遡上組ならフナは少ないはずだ。それに泳ぐ様子に野性味がない。数頭の群れになって盛んに餌を探している。小さなドジョウと見られる魚を激しく追っている。元気がよいのはけっこうなんだが、泳ぎ方に無駄が多いのに違和感を覚えた。

フナを追っているとアメリカザリガニがいることに気づいた。とても大きい。私が知っているアメリカザリガニの2倍はあろうかという大物だ。伊勢エビクラスといえばちょっと大げさだが、それぐらいの迫力がある。アメリカザリガニの数も多い。ミゾソバの岸では20頭ぐらいが群れ土煙があがるほどガサゴソ暴れている。

極めつけはよどみだった。気味が悪いほどのアメリカザリガニが群れていた。一番深いところにはフナも見える。なにか食い物が流れてくるのを待っている様子だ。山際川右岸は相模川が削った崖でもあり、台地は工業団地と住宅と畑地になっている。目立った河川は流れていないが、雨水は下水道を通って山際川に入ってくる。雨水と山際川との合流点が水が青くなるほどの深みになっている。雨水の勢いで川底が削られたのだ。

アメリカザリガニは相模川流域で少なくないが、大型の個体が真っ昼間の日差しを浴びて群れるのはおかしい。フナとアメリカザリガニばかりが目立つってのは人為の臭いがぷんぷんする。とはいえ、フナとアメリカザリガニを河川に放つ行事なんてうわさでも知らない。この怪事件の真相やいかに。

なんだか嫌な物を見た気がして善明川と小鮎川の用水路を回ってきた。いずれも田んぼの季節は本流からすてきな魚が入ってくる流れだ。今日はついに善明川でカワムツをびしっと撮ることができた。


2021.7.19(月)晴れ キヒメグモ

キヒメグモ

7月4日にキヒメグモとおぼしきクモがヒメジョオンに巣をかけてアリを捕まえていた。そのときは何か特別な仕掛けを使ってアリをしとめているんじゃないかと思った。そのキヒメグモは6日にはいなくなった。そして15日に同じヒメジョオンの同じ所に巣をかけてアリを捕まえているクモがいた。

既視感の強いシーンではあるけれどクモは違う個体だと思う。模様がずいぶん違うから。でも同じ種類なんだろうと思う。同じ種類のクモが同じ場所で同じように2頭のアリを捕まえているなら、このクモは習性としてこうなんだと思いたくなる。そしてその日には蛸みたいな柄のキヒメグモがザクロにも巣をかけていた。

キヒメグモ


翌日の16日に、その巣にザクロの葉がかかっていた。クモはその下だ。これからどうするのかなと思った。

キヒメグモ


17日にも葉の下にいた。

キヒメグモ


18日にも葉の下にいた。

キヒメグモ

そして今日も葉の下にいた。じゃまに見える葉に執着するってことはわざとなんだろう。もしかしたらたまたま落ちてきた葉じゃなくて、自分で運んだ葉かもしれないとまで想像する。最初にみた葉はけっこう青く、落葉したかどうか五分五分といった感じだ。

この葉にどんな意味があるのか、本当にこのクモの習性なのか。そうなるとアリを捕まえていたクモとは別種なのか。


2021.7.22(木)晴れ 境川盛夏

境川

朝、ザクロの木のキヒメグモを見れば、枯葉が3つになっていた。追加されたものは落ちてひっかる代物ではない。巣の上にはぜんぜん葉がないのだ。やっぱりこいつは自力で枯葉を集めたに違いないと結論した。

それでネイチャーガイド「日本のクモ」のヒメグモのページをくると、カグヤヒメグモっていうのが「網の中央部に枯れ葉を吊して住居とする」という記述があった。じゃあひとまずこいつはカグヤヒメグモにしようと思った。図鑑の写真と模様がちがうのに少し引っかかりを感じているけど。

日差しが殺人的で連休でもあるし境川の人出は少ないだろうと群青ででかける。梅雨が終わって夏も終わったような気になっているのは私だけか。ただいつも昼飯を食う畑の脇は雑草がいい感じに繁茂しているし、ウスバキトンボの数はぐんと増えてきた。富士山と丹沢には入道雲が立ち上がる。盛夏ならではの見所もある。

境川には海風が入る。今日の風は乾燥しててずいぶん気持ちよかった。力を入れると汗をかきすぎるから、回す練習はひとまずおいて30km/h巡航でいつもの往復練習。向かい風だと下ハンにして背中に風を通すとずいぶん涼しい。追い風ではさすがに暑い。休憩区間だ。

盛夏になると路面の虫が少なくなる。見つかるのは死体ばかり。草刈りが入っているのに跳びだしてくる虫がいない。道路に転がるアブラゼミを見つけてブレーキを引いた。アブラゼミとはいえ今季初物だ。つぶれた感じはなく生きているものだと思った。しかし死んでいた。よくよく見れば羽化不全の個体だった。焼けたアスファルトで転がってしまったのだろうか。セミなら30秒も転がれば息絶える。得意の土下座姿勢で撮影しようとすると膝と肘が暑くて10秒も辛抱できなかった。


2021.7.23(金)晴れ 幼虫の熱死

セスジスズメ

今日はナカガワで境川。けっこう暑くて昨日よりも風が湿っている。昼前から富士山、丹沢、奥多摩にかけて入道雲が発達し続々吹き上がっている。上空は北西の風が強いとみえて吹き上がった雲が長くたなびいている。

境川の道路を走っていても虫の姿は少ない。盛夏の落ち着きといったところ。道路の真ん中にセスジスズメのイモムシがいた。蛹化場所へさまようにはまだ若い。周辺は大規模な草刈りが入っている。草刈り機の歯を受けなかったのは幸運だった。食草を求め新天地を目指しているのだろう。

日中のアスファルトに出るのは致命的だ。こんな所にいると死ぬぞと拾い上げようとして、触った瞬間に死んでいることがわかった。触った指をひっこめたくなるほど熱かったのだ。道路に転がっている石と同じだ。

よくまあこの焼けた路面を2メートルも歩いたものだ。セスジスズメは熱いという感覚を知らないのだろう。一心不乱に道路を歩いて体の異常に気づいた時には体の半分が煮えているという体ではなかったか。もだえた様子もない。ペジテに突進したオームのように歩行姿勢のまま熱死していた。

境川からちょっと離れて崖の細道を走っているとカブトムシを見つけた。それも樹液に来ているものだ。自転車で樹液のカブトムシを見るのははじめてだ。

木は椎か樫で胸高直径80cm。200年の巨木とみた。その根元から手が届かない高さまで数か所から樹液が浸みだしている。そしてそこここにカブトムシがいる。オスメス、大きいの小さいの、交尾をしたりけんかをしたり、真っ昼間から大盛況だ。

私はこういう樹液を見たことがない。常連のはずの蝶も蜂も細かい甲虫類もハエもアリすらもいない。カナブンがたった1匹いるだけだ。巨木の樹液ってのも妙だが、カブトムシだけっていうのがへんだ。当然近所に幼虫の発生地があるのだろう。おがくずとか材とか畳とか、カブトムシが好むゴミが捨てられたところがあるに違いない。または変人が養殖しているか。そして奇跡的に樹液が出る巨木がここにあった。道ばたには同じ種類の木がありぽつぽつカブトムシはいたが、密集は1本だけだった。日中にこれなら夜になると100匹のカブトムシが集うかもしれない。境川では不自然なことをいっぱい目にする。


2021.7.24(土)晴れ ムカデとトラウマ

ムカデ

ナカガワで境川に出るのが午後になったのはオリンピックのみまちゃんを見ていたからだ。いま私の最優先事項はみうみまかすみんだ。成績はどうあれ彼女らがCOVID-19のトラブルに巻き込まれないことを祈っている。

テレビは異口同音に熱中症警戒を呼びかけているが、他人事だ。川沿いの自転車道路では今日ぐらいの日差しと気温は快適だ。自転車はエンジン剥きだしのスペシャル空冷車である。対空速度50km/hで走れば脇の下がヒンヤリする。背中に風を流す乗り方もある。

午後には相模湾から涼しい海風が入る。湘南は地価が高いらしいがさもありなんと思う。暑さのためか連休のせいか人出が少ない自転車道路で30km/h巡航練習を続けた。

ただしアスファルトの熱さは高崎にも負けない。今日はムカデが死んでいた。こいつも熱にやられたのだろうか。外傷は見あたらない。

私はムカデが苦手だ。トラウマがあり、死骸ですら触ることに抵抗がある。元気なムカデを触ろうとすると、体温が一気に下がり息が止まって硬直する感じに襲われる。陰気系の虫でも観察して触れていればかわいくなってくるもんだが、ムカデはダメだとあきらめている。

生家はムカデがよく出てきた。母がムカデ嫌いで畳や天井を這うムカデを見るたび悲鳴を上げていた。母はゴキブリとかヘビとか他の虫は平気だった。私は虫遊びが大好きで、チョウでもトンボでも捕まえてきては居間に放して喜んでいた。そんなとき母は決まって「よく捕まえたな。逃がすなよ」とだけ言ったものだ。

ある日、ブッシュに囲まれた山間の沼でフナだのシジミだのをとって日が暮れるまで遊んだ。帰宅した私を見た母は突然、決死の形相で「動くな!」と叫び素手で何かをはたき落とした。中サイズのムカデだった。フナ、シジミだけでなくムカデも連れてきてしまったのだ。這っている場所がわが子の首筋でなければムカデに触るなんてできなかったろう。私は土間に払い落とされたムカデよりも母の反応のほうが恐かった。母親の悲鳴は子どもに強烈だ。そういう経験を重ねてムカデトラウマが私に植え付けられた。

ムカデは毒虫だから不用意に扱うとひどい目にあう。けれども、こそこそ生きる臆病な虫ということは他のやつらと同じだ。妹はムカデが好きで夜中に水道の蛇口に水を飲みに来たところを捕まえて飼育していた。そうやって手元に置いてみればかわいい虫その1だってことは科学的に証明できるんだが。


2021.7.25(日)晴れ ジョロウグモの成虫

ジョロウグモ

写真は23日に撮影した庭のジョロウグモ。巣には獲物の亡骸とともに大中小の脱皮殻が架かっている。ジョロウグモは比較的長く脱皮殻を巣に留めるクモだと思う。

3つの脱皮殻があるってことはこいつは少なくとも5齢である。初回の脱皮はまどいの中で行う。

数年前にジョロウグモの欠落した脚が再生するかどうか確かめたくてジョロウグモの飼育を試みたことがあった。あのときはひと月以上手元に置いたが脱皮しなかった。飼育のはじめは7月中旬であった。脱皮しないことを成虫だと定義するなら、ジョロウグモは梅雨明け頃には成虫になっているのだろうと思った。

ではこいつはこの先どうなるんだろう。体は小さいがメスのようだ。ジョロウグモのオスはもう一回り小さく華奢だから。そのつもりでみると腹の四角い感じなんかは大人の風格がある。さてこいつはもう脱皮しないのだろうか。成熟までここで生きてくれるだろうか。


2021.7.26(月)晴れのちくもり 逃がしたクモ

クモ

自転車は部屋の手に届くところに置いている。それにかかっているクモの巣を見つけたのは昨日の朝のことだった。小さな垂直円網だった。ハンドルバーとフレームの間に張られている。幸い糸に触れる前に発見できて壊すことは免れた。

群青には3日乗らなかった。その間にクモが巣を張った。窓は網戸もせずに開けっ放しなもんでクモも入ってくる。クモはきっとオニグモの一種だろうと思う。夜間は巣にいるが、日中は巣の近くに隠れて過ごすはずだ。

さてどうするか。最近どんどんずぼらになってきている。クモを見つけ出すのは面倒だと思った。クモがひそんでいるなら、日が落ちれば出てくるだろう。そのときに逃がしてやればいいと思った。

クモ

もともと自転車はナカガワに乗るつもりで群青はそのままにしておいた。はたして夜になるとクモが円網のセンターに定位している。やはりオニグモっぽいが、若いこともあり名前調べはあきらめ写真だけ撮って窓から放った。

クモ

撮った写真をよくよく見れば、右第1脚がとれている。もしやこいつを飼育すれば昔年の課題が解決したかもしれないとは思った。その命題とは「欠落したジョロウグモの脚は脱皮で回復するやいなや」。でもまあジョロウグモでもないしクモの飼育は面倒だし今はコクワガタで精一杯。ずぼらが加速しているな。

こんなことをしていると私が地獄に落ちたときに天からクモの糸が降りてくるかもしれない。地獄があるだけですごいのに、クモの糸が降りてきた日には愉快さMAXだと思う。ありゃ絵空事じゃなかったんだ。さて糸が切れないこともあるのか。

私は仏教徒としてお釈迦様に帰依してる。でも殺生はけっこうやってる。悪人正機説は信じがたく極楽往生は無理だからな。


2021.7.27(火)雨のちくもりのち晴れ 色が変わったクモ

ヒメグモ

庭に出るとアカボシゴマダラが飛んできた。アカボシゴマダラは庭で産卵し幼虫が育ったこともあった。一時期はぜんぜん見えなくて、もしや何かひどいことに巻き込まれているのではないかと気にかけていた。

先の連休は毎日境川にでかけ、毎日1、2匹は見た。壊滅的なことが起きているわけではないようだ。すこし安堵した。もうアサギマダラと見まがうこともなくアカボシゴマダラとは和解している。

毎日観察を欠かさないザクロの「カグヤヒメグモ」をチェックすると色が変わっていた。黄色っぽいのが鶯色になっている。いったいぜんたいどうしたことか。太陽が当たっているからか? 本人の色変わりか?

色はともかく、クモの上の20cm上に小さな赤いクモがいる。雰囲気からしてメスについたオスという感じだ。居候ではあるまい。

ここでむずむず不安になった。クモの種名だ。もしやこいつらはカグヤヒメグモではなく、ヒメグモではないか。もう一度「ネイチャーガイド 日本のクモ」を見直して、枯れ葉に隠れる習性もオスの感じもやっぱりヒメグモだと思った。


2021.7.28(水)晴れ ウナギ

オリンピックを見ていると、努力で他人に勝つのは不可能だと思い知らされ、勇気をくじかれる。でもウナギの絶滅なら努力で止められるかもしれない。いま養殖をやめ河川を改良すれば可能性はある。


2021.7.29(木)晴れ 庭のハサミムシ

ハサミムシ

庭に置いてある田んぼ水槽を移動する必要に迫られた。ジューンベリーから何者かが糞を落としているようで、その爆撃を避けるためだ。まずは、移動先にある飛び石の煉瓦をよけとこうと持ち上げた。

そこになんとハサミムシがいた。ハサミムシは欲しい虫の筆頭といっていい。やつのいない庭なんてコーヒーのないクリープ、あるいはドクダミの花がない夏みたいなもんだ。子どものころには何かをめくればハサミムシがいた。陰気系なのに艶のある体とハサミはかっこよかった。ハサミムシとセットでいるナメクジ、ダンゴムシ、クモ、コウガイビルなんかは雑魚だ。

この庭でも数年に一度はハサミムシが見つかった。ただ、必ずいるはずの場所にはいないので定着はしていないはずだった。近所にはいるのに足元にいないのが不満だった。

それが今回は子育て盛りのものと卵を抱いているものとその他がいた。これはもう完全に定着だろう。ハサミムシが機嫌良く暮らせそうな庭を造ってきたこの20年の成果である。あとは大きなオニグモとエンマコオロギだなと野心がふくらむ。

オリンピック期間で仕事がひまになったもんで、午後は休みをとって境川を走ってきた。やっぱりナカガワはロードレーサー仕様が一番かっこいい。


2021.8.05(木)晴れ クサカゲロウ

クサカゲロウ

10日ほど前、庭のひこばえエノキの葉に白いもふもふをみとめた。最初は何かよくわからなかった。いわゆるしろばんばはエノキの枝あたりをよく飛んでいるから、それかもしれなかった。ただもふもふの質感がちがっている。質感はアオバハゴロモにより近い。しばらくは正体不明のまま観察しようと思った。

もふもふはしだいに増殖して翅が生え産み落とされたらしい子が見つかった。こうなればアブラムシということで決着だ。

その後の成り行きをみていると、アブラムシのそばにクサカゲロウの卵があった。こいつを見つけるたび50年前の楽しい記憶がよみがえる。中学生のとき、クサカゲロウを飼育して発見がいくつもあったのだ。クサカゲロウの卵である優曇華は古来は吉兆あるいは凶兆ともされたらしいが、アブラムシにとっては完全に凶兆。もふもふたちが危機一髪だ。

今日にはエノキの葉を元気に歩くクサカゲロウの幼虫が見つかった。いろいろなゴミを背負っている。もふもふの亡骸も含まれているにちがいない。小さな虫の懸命な生きざまが見られるこの庭がちょっと誇らしい。

初夏には掃いて捨てるほどいたアブラムシが盛夏にはあまり見られなくなる。クサカゲロウの獲物も今は多くないのではないだろうか。成虫も幼虫も年中いるような気がしているけど。


2021.8.07(土)くもり雨晴れ ときどき雨の境川

クサカゲロウ

未明から断続的に強い雨が降ってくる。太平洋にある台風の影響だ。雨模様だと人が少なく思う存分走れる。というわけでウィリエールで境川。風はまだ弱く東より。上りも下りも軽く30km/hで巡航練習。踏まず回さず体幹だけで走る。

かんかん照りの日には道路に出てくる虫が少ない。雨だとそれなりに多くなる。今日はいつもいるカタツムリが見えなかった。やつらには驟雨的な雨はしっくりこないのか、ひさびさの涼しい雨で出歩いてる場合じゃないのか。

そのかわりヌマガエルが多かった。境川にはヌマガエルが多産するポイントがある。いつも利用しているサイクリングロードわきの一般道を走っているとカエルがぴょんぴょん飛びだしてくる。今年生まれと見られる小さなやつらだ。さすがに全部かわすのは無理と判断して一般道を離れた。

体幹だけで走っていると30km/hしか出てないのにものすごく強くなっているような気がする。力を使わず呼吸も普通、こんなに楽に走ってるなんてすごいな。私のウィリエールは20年以上前の廉価版フレームだが、さすがにイタリア製だけあってよく走る。走ることを自転車が喜んでいるみたいだ。そんな錯覚も自転車の醍醐味だろう。3時間ほどやっていると脚が上がらなくなり体の芯に疲れを感じる。10年ぐらい前にはなかった感覚だ。そういうのも新鮮で面白い。

帰り道、境川を離れた住宅地をツマグロヒョウモンの幼虫が歩いていた。これ幸いと道路の真ん中で土下座して撮影していると同年代ぐらいの女子が面白そうに話しかけてきた。「なんですか」「ツマグロヒョウモンの幼虫、チョウです」「何を食べるんですか」「スミレです。この辺には・・・ないなあ」「そこにあるじゃないですか」「ほんとだ、やりますね」「チョウって面白いですよね。アゲハとキアゲハは蝶は似てるのに幼虫がぜんぜん違ったり」「あいつらはもともと一つだったのが最近分かれたんじゃないでしょうか」というような不思議な会話になった。イモムシの食草に興味を持ったり、花のないスミレを一目でみとめたり、ただ者ではないと思った。


2021.8.8(日)雨のちくもりのち晴れ セクシーな環境対策

環境対策と称してレジ袋が有料化された。私はあれがいただけない。レジ袋を3円ぐらいで買うことがなにか後ろめたいような気がする。といってレジ袋をもたず、ポケットにゆで卵とプリンとにぎりめしを入れ、左手にコーヒーホットを持って走るのはいささか煩わしい。並のロード乗りにおすすめできることではない。コーヒー片手にでこぼこ歩道を走るとやけどする。もっとへたくそならセブンイレブン裏の用水路に落ちる危険だってある。念のためマイレジ袋を持ち歩いているが、いままでは使わずに済んでいる。

環境対策はセクシーでなければならないというのは環境大臣の言である。的を射た表現だと思う。賢明な読者諸君には説明不要だろうが、理論恋愛学に疎い人にはその真意が伝わらないかもしれない。老婆心ながら解説を加えよう。セクシーというのは一言でいえば「理屈抜きの快感」ということだ。大臣は、ふつうに快楽追求することがSDGsになる社会を作ると表明したのだ。その社会に辛抱や節約の意識はない。目標も表現も秀逸だ。ただ、そのもくろみは全然うまくいってないようにみえる。

セクシーなレジ袋対策というなら、レジ袋を有料化すべきではなかったのだ。実はセブンイレブンは当初から商品代金に一律3円をレジ袋代として上乗せしていたことにして、レジ袋有料化に伴い無用な客には3円を返金すれば良かったのだ。そうすれば後ろめたさもなくお得感もあるような良い気分で「いりません」とセクシーに言えるような気がする。

そんなこんなで政府の失策は多いのだが、このたびの新型コロナウィルス感染症対策もセクシーじゃない。何月何日まで自粛、辛抱すればお金をあげるよ、というやり方は馬鹿丸出しでみみっちく快感のかけらもない。日を追って商売人と客がどんどん卑屈になる。後ろめたく酒を売り後ろめたく酒を飲む。セクシーじゃない。

一年ほど前から言ってるのだが、ここは一つ消費税を見直すべきだろう。飲食、観光、遊興などの大ダメージの業種は消費税をマイナス10%にするのだ。納税額が減った業態の消費税はマイナス10%。客は20%ほど安く酒が飲め、店は売り上げの10%を国から支給される。消費税はこれまで誰がどれだけ納めているかはっきりしているから、業者選定がたやすい。うしろめたさがないお得感で酒がうまいだろう。

経済再生大臣は今すぐ宣言するべきだ。「日本で感染確認が0人になった日から1年間、耐えてくれた業種の消費税をマイナス10%にします。その日までいっしょにがんばりましょう。」


2021.8.9(月)雨のち晴れ 強風の境川

コイ

ウィリエールで境川。台風後の川や田んぼの様子も見ておきたい。屋内で感じた昨日からの雨はそれほど強くなかった。岸にかかるゴミの感じでは増水は2メートルもなさそうだ。本流の濁りも半分とれている。それなのに濁流は越流堤をのりこえて遊水地に入っていた。境川は雨水を一気に集めて爆発的に増水するのだ。湧水では増えた水に中型のコイが群れを作っている。

サイクリングロードは強風だ。追い風だと30km/hで走っていても前から風が来ない。それどころか道路を転がる枯れ葉に追い抜かれたりする。日本海にある台風から発達した低気圧がもたらす風らしい。午後には雲が消えて日差しがきつい。向かい風ならそれなりに楽しく練習できるけど、追い風は無理だ。もう8月の半ば、台風の後だというのに暑くてやってられない。早々に退散することにした。

台風が去るたび秋が深まるものだと思い込んでいたけど、そんな昭和の感覚はもう古いのだろうか。

オリンピックの開閉会式はひどかった。現在の日本文化の特徴は行き当たりばったりの混沌にある。それをしっかり伝えることにはなった。それ以上の何か、希望、勇気、友愛、平和、歓喜etc・・・を表現したかったなら失敗だ。寸劇は部外者にはまったく意味不明。日本に好意的な人ならあれに禅を見たかもしれない。しかし禅問答は当事者以外には退屈である。渡辺直美流に言えばふつうにつまらない。

個人的には長嶋さんと星めぐりの歌にはぐっと来た。やっぱり長嶋茂雄はかっこいい。体が不自由でもすてきな眼差しで堂々と歩く。全人類に誇れる詩人として宮沢賢治をピックアップしてくれたのはうれしいけれど、あの場にはふさわしくない。ほんたうの幸ひなど眼中にないイベントなんだから軽薄なメッセージを明解に表現しろと、演出としての私は思う。

ともあれ無事に終わった。大好きなかすみんたちにCOVID-19の災厄が降りかからなかったのはなによりだ。


2021.8.13(金)雨 アカボシゴマダラ

アカボシゴマダラ

今年の夏はしばらくアカボシゴマダラを目にすることがなかった。なにやら異変が起きたのではと心配もした。私は日本でのアカボシゴマダラの激減はゴマダラチョウの絶滅につながるかもしれないと思っている。

そのアカボシゴマダラは先の4連休あたりから普通に見かけるようになった。わが家にも飛んできたし、11日には庭のエノキで幼虫が2頭見つかった。

娘たちにも見せてやろうと、1頭を枝ごととってきてペプシのペットボトルにさして窓際においている。

侵略的虫という評判もあるためか、イマイチかわいげがないのか、家族の評判は悪い。糞を大量にまき散らすのも不評の一因だ。私にはオンオフ感のある動きが珍しく、糞の量もヤママユガなんかに比べれば無に等しいと思う。こういう虫は手がかからない。


2021.8.14(土)雨 晩夏の境川

セスジスズメ

早くも秋雨前線が日本列島にかかり連日の雨になっている。暑熱好きを自認する私も正直8月の雨はありがたい。ちょっとのりのり気分でウィリエールに乗って境川。

へんてこな巨木の樹液は子どもらに見つかってカブトムシ採り場になった。そのためか今日はカブトムシは少なかったが、サトキマダラヒカゲがいた。さらに巨木の裏側3メートルの高さにある樹液に甲虫類の集団をみとめた。まっくらな場所で細部は確認できないけど、カブトムシ、クロカナブン、カナブンがきれいに棲み分けているみたいだ。小学校6年の夏休み自由研究で「樹液に集まる虫の順位制」ってのをやったことを思い出した。あれに写真やビデオがあれば先生児童も少しは面白がってくれたかもしれない。サトキマダラヒカゲでちょっとテンションが上がって、ササの茂みをこいで巨木の裏に回って撮影を試みた。

走っていても普通にツクツクボウシが鳴いて、ソメイヨシノが散っていると夏が終わるんだなあと思う。涼しい風にそろそろエンマコオロギが聞こえるはずと注意してサイクリングロードを走る。

注意しなければならないのはエンマコオロギだけではない。涼しくなるといろいろなやつらが路面に出てくる。雨なんでカタツムリも多い。今日は、セスジスズメがやたらといた。大人になる季節だ。セスジスズメの終齢幼虫をさやかとよんでいる。その名をつけただけで虫のかわいさが2倍になる。面白いものだ。

いつものセブンイレブン裏は今年ちょっと変だ。田んぼの季節にも用水に水がなかった。雨のときだけ水が流れている。上流の水田が耕作をやめているのかもしれない。用水路の草刈りは例年通り入って、ジュズダマ、アレチウリなんかがばっさり切られた。ちょっと困ったかもしれないナガコガネグモは何事もなかったかのように巣を広げている。オスがついている巣を見つけて撮っておこうと思った。水路を横断してる巣でオスとメスが等距離にあるアングルはとれない。背景は真っ暗だ。風雨で巣が揺れる。撮影難易度が高いシチュエーションだが、私にはTG-5がある。伝家の宝刀マニュアルフォーカスモードでうまいこと撮ったつもりだったが完全に露出オーバーのいまいち写真になった。被写体ブレは想定内にしても。

濡れたコンクリに座ってコーヒーを飲んでいると、雨粒が大きくなった。濡れることは厭わないが、少しぐらいは避けるかとセブンイレブンが植えているレッドロビンの下に立った。そのレッドロビンにやばい毛虫がついたことがあって、近づくときは注意をはらっている。おかげでレッドロビンにまとわりつくヤブガラシの葉裏にウラナミシジミが見つかった。私に秋を告げる虫のひとつだ。

エンマコオロギを聞くことはなくいつもより早めに境川を離れた。南西の風が強くなって、部屋の窓があけっぱなしかもしれないという不安感に襲われ、帰宅を急いだのだ。窓から吹き込む雨でPCが濡れるとたいへんだ。モニターを壊した前科もある。帰宅すると窓辺に置いているアカボシゴマダラが蛹化していた。昨夜から頭を下にして葉に貼りついており、今朝には女房が「こいつ蛹になる気まんまんだよ。頭に血がのぼったりしないのかな」なんていってた。予想よりちょっと早い蛹化だった。窓も閉めてあっていつもどおりの平穏な一日になった。


2021.8.16(月)雨 増水の境川

遊水地

昨日から雨が降り続きけっこうな雨量になった。午前中の雷雨は避けて午後から境川。いつものように川の様子を見てくると言って出かける。

境川は濁流になっているものの、増水はそれほどでもない。遊水地は写真のようにばっちり役割を果たしている。この下流にある遊水地では越流堤を越えていなかった。こんぐらいの降りではこいつだけで十分なのだ。20年もかけて作った甲斐があった。

この遊水地が膨大な予算と年月を投じたのは、カエル飼養所にするためだと思う。いまのところそのもくろみは成功していない。ただ、増水時に本流から入り込んだ魚のなかには期せずして永住の地を得たと喜ぶものがいるだろう。アカミミガメは本流にも多い。流れに苦闘する様子をよく見かける。増水したときはコンクリ護岸をはい上がって来て道路を歩くものすらいる。コイは本流ではちゃんと生きられないようだ。コイの子どもは遊水地では見つかるが本流で見たことはない。

コイだのナマズだのドジョウだのが繁殖すれば、それを餌にするものが集まる。今日は島のようになったヒシの群落にコサギが集まっていた。なにか獲物がとれるのだろうか。濁り水が続くとサギの採餌に支障がでるのだろうか。それとも魚が岸に寄ってきて捕りやすくなるのだろうか。

ツバメは遊水地や畑の上を低く飛んでいた。どうやら私の目に見えない虫を採っているらしい。鳥たちは備蓄ができないから雨だの増水だのといってられない。いま巣だって間もないツバメがたくさんいる。羽が未熟で飛ぶのが下手だ。何を思ってか道路とかセブンイレブン裏に何匹も降りている。もしや地面の虫を食うのか?としばらく観察していたが、その気配はなかった。路上にはセスジスズメが多い。あれなら一匹で一日分の食料になるだろうに。ともあれ事故死が多いときだ。捨て猫の餌食にだけはなって欲しくないと思った。

前輪が巻き上げるしぶきが脚に冷たい。寒さを感じるサイクリングは久しぶりだ。気温が下がったせいかエンマコオロギが一斉に鳴き始めた。例年多い場所でことごとく鳴き声を聞いた。いっぺんに秋本番の気分だ。


2021.8.16(月)雨 私のヒーロー

夏になるとヒーローのことを思い出す。もう50年以上前、遠い日に八幡浜のヤマで出会った少年だ。

K君は気の利いた児童だった。父親は教師だ。学級のほぼ全員が農家という中で公務員の転勤族は希少でもあった。私とは異次元に成績優秀で学級委員をしていた。K君とは遊び仲間ではなかったけれど、勉強のできるまじめな子という点でリスペクトはしていた。

そのK君から7月のある日、昆虫採集に誘われた。転校前の布喜川小学校付近ではクワガタが良くとれるから一緒に行こうというのだ。K君からなんでそんな誘いが来るのがわからなかったけれど、布喜川のポイントに行けるのは楽しいとすぐさまその誘いに乗った。

当日の朝早くK君の家に行って挨拶をすると、その日の計画の一端を彼の母親から聞かされた。K君は地図に採集ポイントを記入して、効率的に巡回する方法、A地点がダメなときの予備のルートとか、作戦を数日前から立てていたというのだ。日々無計画な私は、なんてすげーやつだと感心しきりだった。ちなみにK君はその7年後に東京の慶応大学に進学している。

K君はルート計画以外にも策を持っていた。虫採り名人の現地ガイドを雇ってあるから絶対はずれなしというのだ。なんて準備のいいやつだ、でもなんで誘ってくれたんだろう、この前方解石とか鍾乳石の話をしたのが縁かと感心しきりだ。ちなみにK君は高3のとき、「武田も大学受けるんだから必死で勉強しないとだめだよ」とアドバイスしてくれた。


2021.8.19(木)晴れ 晩夏の幼虫たち

アゲハ

今朝はサンショウの枝にアゲハの幼虫を確認した(写真)。簡単に5頭見つかったから、たくさんいそうだ。

この夏はアゲハがいなかった。初夏に少しいて退治したが、その後発生がなかった。おかげで退治の煩わしさがなかった。晩夏になって、サンショウの葉はくたびれている。もう食用にもならず、アゲハに食われても問題がない。ただ、あまり幼虫が多すぎると餓死者を出す恐れがある。それはそれで放置すべきかもしれないが、やっぱり葉をもりもり食べる幼虫はかわいい。状況を見つつ間引くことになるかもしれない。

じつはいま2頭ばかり蛹を部屋にいれてある。一つはアカボシゴマダラだ。蛹は薄緑色をしていてエノキの葉に逆さまについている。その擬態はこころにくいまでだ。一つはクワコだ。幼虫を庭から持ってきたら2日で繭を作った。あまり大きくない幼虫だったからもう少し食べると予想していたもので拍子抜けした。糸の色は黄色いものの繭は蚕によく似た感じで、クワコが蚕の元だというのももっともだと思った。

庭にあるクワは実生だ。膝丈ぐらいのときから大事にしてクワにふさわしい虫が来るのを心待ちにしていた。クワはいろいろ名のある虫を育てる木だ。10年をへてクワ虫の筆頭といっていいクワコが発生した。ちょっと鼻高々。

庭の蛾の常連といえばモンクロシャチホコだ。例年9月になるとジューンベリーに大発生して木を丸裸にする。葉はもう役割を終えているだろうから木へのダメージはないと思ってきた。しかしこのところジューンベリーが弱っている感じだ。高温の日が続くと新しい葉が枯れ落ちた。葉が落ちた茎からおが屑的なものが吹き出している。キマダラカメムシも常駐している。ふんだり蹴ったりとはいえ木ってのはそんなもんだろう。

今朝はジューンベリーの近くでモンクロシャチホコの成虫が見つかった。庭では初記録だ。昨年は幼虫が謎の受難に遭って心配していたが、今年も発生は期待できそうだ。


2021.8.20(金)晴れ 私のヒーロー

K君とバスに乗って布喜川についた。布喜川は私たちが住んでいた松尾、稲ヶ市と見た目は変わらない。みかんの段々畑ばかりがある山間の部落だ。標高が200mほど高い。

K君が雇ったのはそれほど年の差がない少年だった。中学生だったと思う。身長は私と変わらないぐらいで大きくはなく、話しぶりもスローで落ち着いた感じだ。

まず計画を話してルートを決めた。K君があらかじめ想定した場所は、その年は状況が悪かったらしく少年のルートで攻めることに決まった。そして、スタート前にガイド報酬を払うことになった。報酬はアイスキャンデー1本ということでK君との間で話がついていた。アイスキャンデーは当時の私にとっては決して安い物ではなかったが、ノコギリクワガタの対価として妥当だと思った。K君と二人でお金を出し合って3本買った。

アイスキャンデーは私たちにとってごちそうだった。とりわけガイドの少年は感謝の言葉を口にしながらおいしそうに食べていた。ちょっと貧乏なうちの子かもしれないと思った。

出発するとすぐに少年がただものでないことがわかった。段々畑の細道も畑の中も畑の脇のブッシュもすいすい歩く。まるで犬のようだった。私は山歩きは得意だったが、さすがにかなわないと思った。後ろをついて来る二人に枝跳ねとか足元のギャップを注意することも怠りない。多少厳しいブッシュをショートカットするときはあらかじめ行けそうかどうか尋ねることも忘れなかった。そして時々口にするその辺の植物や農作物の知識が豊富で確かだった。小さい頃から山の手伝いをするなかで覚えたのだろう。まわりの中学生はすぐばれるほら話ばかりをしており、そういうもんだろうと思っていた私には新鮮だった。


2021.8.21(土)くもりときどき晴れ イモムシと解脱

セスジスズメ

女房は「今日は雨が降らない」と断言したけれど、雨雲レーダーも天気予報も降雨を予測しているから合羽を背中に突っ込んで境川。フレームの雨対策がばっちりのウィリエールで出かける。

雨の日が続き朝晩冷え込むようになって路面に虫が多くなってきた。轢かれてつぶれているものも多い。これから蛹になろうかというときに理不尽な死を迎えるのは残念だろう。ちょっと好きなセスジスズメなんかは写真を撮って土のあるところに投げたりしている。

今日はふと死ぬイモムシは本当に無念なんだろうかと気になった。両親から命を引き継いで生きているイモムシは40億年の命を持っている。私とまったく同じ時間だけ生きてきた。無論、私が産まれたのは60年前で、イモムシが卵の殻をやぶったのはひと月前の夏だ。しかしながら現代科学の知識をもって両者を比べれば生命としての寿命は等しく40億年ということになる。

イモムシは境川のアスファルトでつぶれると、この先親から子へ子から孫へと永遠に続くかもしれない連鎖を切ることになる。イモムシは死んで彼の父母が奇跡的に40億年繋いできた生命を終える。イモムシなら蛾になって卵を残すのがさいわいだろうとぼんやり考えていた。それは本当だろうか?と考えて背中がぞくっとした。99%の動物は道半ばで命を終えるさだめにある。さいわいとはほんの一握りの者たちしか享受できぬものなんだろうか。友だちを助けて銀河に旅立ったカンパネルラにさいわいはないのだろうか。

昔のインドに輪廻という着想があった。科学的な事実としては、イモムシも私といっしょに40億年にわたって輪廻してきた。イモムシのときに死ぬのはその輪廻の輪から離れることになる。子を作らなければ40億年の命が尽きる。尽きた命は水と二酸化炭素とちょっとの土になる。そして太陽系の消滅にともなって宇宙にちらばり100億年後にはまた集まって星として輝き始める。

現代科学はハイテク機器を使った観察と実験と数学でそういう事実を明らかにしてきた。「僕らは死んだらお星様になるんだよ」という言葉を科学では空間と時間とエネルギーの数式で記述する。星のまたたきと数式と、その2つから受ける印象は畢竟の所ではきっと同じだ。お釈迦様たちの話のベースには科学が明かした宇宙自然の法則があるように思える。かれらは科学的事象から人が必然導くのと同じ結果の境地を瞑想によって見ていたのではないだろうか。イモムシを撮りながらそう感じてぞくぞくした。

結局雨は落ちなかった。背中に刺した合羽がうざい。女房は「あたりまえじゃん。雨の臭いがしなかったもの。北陸人は臭いで雨がわかるの」という。ドップラーレーダーや富嶽の演算力に頼ってしまう私は修行が足らない。


2021.8.24(火)くもりときどき晴れ 水の体積

私は平均的な人よりも多めに水を飲むんじゃないかと思う。水は水道水だ。自転車に乗っているときは公園なんかの水を飲む。家でも水を飲む。ただし室温よりちょっと低いだけの蛇口からの水は冷やした方がうまくなる。それでウィルキンソンのペットボトルに汲んで冷蔵庫で冷やしている。1日に1本以上は確実に飲んでいる。

水をペットボトルにたんまり入れて冷蔵庫で冷やすと、体積が縮むことを実感できる。最初に冷蔵庫から取り出すとき、ふにゃっとした感じになっているのだ。水温の差は10℃ほどと思うが、その縮小率は意外に大きい。

30年ほど前のことになるけれど、200リットルの水槽で熱帯魚と水草を飼養していたことがある。そのころの水替えは、50リットルほど水を抜いた水槽に直接水道水を足すというやり方をしていた。その程度の割合だとカルキ抜きや水温調整は必要なかった。

水草水槽で換水すると葉からあぶくが盛んに発生して良い見ものになる。細かい気泡が糸のようにゆらゆらと連なって幾筋も水面へ登っていく。気泡の糸の間を魚たちがいくぶんか興奮して泳ぐ。そんな様子を見ながら水が増えることに気づいていた。水深が明らかに3ミリほど大きくなるのだ。

当時はその原因がわからなかった。あぶくの分の増加かな? 葉裏にはけっこう大きな気泡がついてる。などとゆらゆら考えていただけだった。それが冷蔵庫でペットボトルを冷やすようになって、水温の上昇による膨張だと気づいたのだった。そんな発見もしばらく忘れていたが、今日またウィルキンソンのペットボトルで水を飲もうとして思い出した。

ちなみに私はウィルキンソンもミネラルウォーターも買わないし飲まない。水は水道水が一番だ。神奈川の水道水はうまい。むろんペットボトルの水は宮ヶ瀬ダムの水に遜色ない。ヤビツ峠の裏とか半原越の湧き水よりはずっとうまいと思うが価格に見合うほどではない。


2021.8.26(木)晴れ 繭の異変

繭

毎日3つの繭を観察している。3つともクワコで庭のクワに発生した兄弟だと思う。そのうち一番最初に蛹になったクワコAの繭に今朝異変があった。写真のように、ばらばらになった感じだ。これがクワコの羽化後なんだろうか。もっとすっきり丸い穴をあけて蛾が出てくるもんだと予想していた。

この繭はクワとヤマノイモの葉を合わせて作られ、外部からは繭があることがわからない状態だった。なにか力の強い者に破られた可能性もある。昨夜はハクビシンが来たことが状況証拠として残っていた。ハクビシンならもっと破壊的だろう。繭をやぶるなら鳥ということになるだろうか。

繭

いっぽうこちらは少し遅れて蛹化したクワコの繭。3番目に見つけたのでクワコCとした。クワコCの繭はヤマノイモの葉をまるめて包み込むような案配だった。それが今朝には繭が剥きだしになっていた。葉が破られている感じだ。なに者かが葉をかじった感じではない。たまたま2つの繭に異変が起きたことになる。

ちなみにクワコBの繭は手元にある。クワコを見るのが初だったものだからためしに飼養したのだ。うまく羽化してくれれば最初の疑問の半分がとけるだろう。


2021.8.30(月)晴れ アゲハの擬態

アゲハ

19日にけっこう大きく成長したアゲハの幼虫をみつけた。害虫認定を受けている虫ではあるけれど、放置してきた。サンショウの葉はずいぶん色あせて人間の食用にはならず食われても惜しくないからだ。

発見時は鳥の糞モードだったが、この数日のうちに脱皮して青虫になっている。その青虫の色合いがちょっと変だ。脱色して一部枯れたサンショウの葉によく似ている。まるで昆虫得意の擬態のようだ。

こいつにはちょっと考えておかねばならない命題がある。その昔何かの書き物でアゲハの蛹の色は、蛹化場所の形状で決まるという研究を読んだ。つるつるした枝だと緑、ざらざらした枝だと褐色の蛹になるというのだ。

ではこの秋色をした幼虫はどう考えればよいだろう。ミカンの緑の葉にいる緑のアゲハはよく見てきた。その他の幼虫も緑だった。秋色の原因は葉にあるのは確実だ。葉の色はどうやって幼虫の色を変えるのか。目で見ている色合いが体色に反映される? 幼虫が食べた葉の色素が体色に反映される? 少しにているところで、葉緑素が乏しい葉を食べると緑の発色がおさえられる? いろいろ仮説が立てられる。


2021.8.31(火)くもり アゲハ幼虫が行方不明

アゲハ

昨日の午前中には5頭ほどいたアゲハの黄緑イモムシが全くいなくなった。夕方に行方不明になったのだ。駆除されたわけではない。近所に虫好きな子どもはいない。蛹化の場所に移動するにはまだ早い。捕食にあったのか。あまり鳥が来るような場所ではないが。

アゲハの幼虫は黄緑イモムシのほかに今日の写真のものと極小のものを1匹ずつ確認していた。極小のほうは見つからず、今日はこいつだけ。

こいつは黒白の鳥糞擬態型だが全体に黄色っぽくなっている。変色原因は昨日の黄緑イモムシと同じだろう。


2021.9.1(水)くもりのち雨 秋のジョロウグモ

ジョロウグモ

今朝、ジョロウグモ♀にまたひとつオスがついた。このオスは3頭目の新参者だが、メスに一番近い位置をとっている。体も他のオスに比べて断然大きい。

メスは7月の下旬、23日に少なくとも5齢への脱皮を確認したやつだろうと思う。一度、風雨で巣が破壊されて今のところに移動した。

じつはこの場所は毎年当たっているところだ。私が観察する限りでは獲物に不自由していないようだ。腹がふくらんでジョロウグモらしい色合いになっている。今朝は大きな蛾が巣にかかっていた。めったにない大物だ。ただし大物過ぎて手がつけられないようである。

今年はジョロウグモの数が多く観察機会も多かった。8月に入ると新しい脱皮殻がかかっている巣が見あたらなくなった。ジョロウグモは盛夏には規定脱皮回数を終えるようだ。オスは成虫になると自分で巣を作ることをやめ、メスを求めて移動するはずだ。おそらくメスの巣の中で場所取り争いがあるのではないだろうか。メスのそばで喧嘩なんかやってるとメスを刺激するかもしれない。オスにも脚が欠けているものが少なくないが、そういう場所取りの喧嘩が一因かもしれないと思った。

9月といえばモンクロシャチホコの季節到来だ。いまジューンベリーには毛虫の群れが仲良く葉を食べる光景がある。毛虫たちの母親かもしれない蛾を8月19日に確認している。それで、モンクロシャチホコは9月に葉を食べて10月には蛹になって冬と春を過ごし、盛夏に羽化してジューンベリーの葉に産卵するのだろうと予想ができた。もしかしたら葉のない季節に枝に産卵するかもしれないとも思っていたのだ。私にとっては鱗翅目が食草に直接産卵するかしないかは重大問題なのだ。


2021.9.2(木)雨 私のヒーロー

布喜川の山にクワガタは豊富だった。少年のポイントには必ずクワガタがいたのだ。とりわけノコギリクワガタが多かった。私のフィールドの松尾・稲ヶ市・古谷ではノコギリクワガタは少ない。「スイギュウ」と呼んでいた大型のものは1シーズンに数頭しかとれない。その1日でゆうに一年分がとれたのである。

ガイドの少年の採集方法は私がやっていたのとは違っていた。目で見つけて素手でつかむ方法だ。手の届かないのは、そのへんに生えているオオアレチノギクあたりの背の高い草をスポッと抜いて、その柔らかい葉先でクワガタをすりすりさすった。そうするとひとりでに落ちてくるのだ。体に刺激を受けたときに擬死をするノコギリクワガタの習性を利用していた。

ちなみに、その方法はヒラタクワガタにはきかない。やつらは異変を感じて穴にもぐる。クヌギの幹の割れ目に入られるとやっかいだった。また、私はミヤマクワガタめあてに木を揺すっていた。体重をかけて木をけとばすとはるか高い枝先からミヤマクワガタがぼとぼと落ちてきたものだ。少年は木を揺する方法はとらなかった。また、木の根元を掘ることもなかった。私には作法の違いが新鮮だった。

「ここにもようおらい」と少年が指した木にはちょっと驚いた。その木はクヌギでもコナラでもカシでもなかった。手触り悪い赤っぽいがさがさの幹が特徴の木だった。松尾でも少なくない木だ。川で魚釣りをするときに枝によく糸がかかることで覚えていた。その種類の木でクワガタを見たことはなく眼中にない木だった。

ところ変わればクワガタの木も変わるのかと半信半疑で目を上げるとそこに樹液があった。カナブン、スズメバチにまじってノコギリクワガタがいた。特大の赤いやつだ。少年は「落ちるとこ見とらんといけんで」といってオオアレチノギクを巧みに操った。そのやりかたならスズメバチを刺激せずにノコギリクワガタを落とすことができた。


2021.9.3(金)雨 私のヒーロー

「ここ渡ったで」と少年が指さした方を見て目を疑った。そこには索道があった。ロープウェイのような案配のワイヤーを使うみかんの運搬設備だ。段々畑を上り下りするみかんの収穫は重労働で、背負子や一輪車では苦痛が大きく事故も多発していた。そこで山から山、山から谷へ索道を使ってみかんを道路脇へ運んだのだ。

索道は不安定で人が乗れる代物ではなかったが、人が乗っているのを幾度かみたこともあった。子どもは近づくことを禁止されていた。小学校ではうそかまことか索道のワイヤーに巻き込まれた悲惨な事故を教師が語って子どもを脅していたのだ。そうまでされなくても油ぎとぎとで錆の浮いたワイヤーやぶんぶんうなるエンジンは近寄りがたかった。

少年が指さした索道は、鋭い谷をほぼ水平に渡っていた。長さはざっと50m、一番深いところで高さ30mはあったろう。それをぶら下がって雲梯のように渡りきったというのだ。

「なんかできそうな気がしたけんやってみたがよ。」「はじめは楽やったがに、まんなかまで行くと、登るがよなぁ。」「登るがはこをーて(しんどくて)手がいとーてしびれて、もういけん、手離そうおもた。」「ほんでも落ちたら死ぬおもて、引き返すほが遠いけん。行くしかないおもて渡ったがよ。」

少年は淡々とそう語った。嘘でもなく盛った感じもなかった。遊び仲間の悪ガキ連中では、それなりに死線をさまよう者もいたが、さすがにここまでの冒険譚は知らなかった。私自身けっこう身軽で、段々畑のどれだけの高さから飛び降りられるか、5mの石垣をボルダリングよろしく登れるか、なんて肝試しは得意だった。でも索道なんて1mでもぶら下がるのはごめんだ。

会ったときからただ者ではないと思っていたが、目の前にいる少年は噂に聞くヒーローに違いないと思った。


2021.9.4(土)雨 小雨の草むら

ヤマトシジミ

群青で境川に行った。9月の田は水稲がこうべを垂れてエンマコオロギが鳴いている。暑熱の日々が続いただけに小雨のサイクリングは至福の時間だ。

いつものセブンイレブン裏に腰掛けて、いい休憩なくしていい走りはできません的な明治のスーパーカップを食べつつ草むらを眺めていた。変哲もない畑の脇のオヒシバが茂る草むらだけど、我が家の庭よりも圧倒的に豊かな虫世界がある。日の当たるところってやっぱいいな、いまは雨だけど。などとぼんやりオヒシバを見ていたら、ヤマトシジミが見つかった。

空中にぶら下がって風に揺れているからクモの巣にかかっているのだろう。不運なこったと目をこらせば、どうやら空き巣のようでクモがいない。チョウもばたばた羽ばたいている。まだ息があるのか。どれどれと近づいて撮影することにした。

秋雨の中で虫の動きは活発だ。草むらに歩を進めるといろいろ飛びだしてくる。小さな蛾とかバッタとか。イチモンジセセリやベニシジミはひいきの虫なんで撮影を試みる。うまく撮らせてもらえない。虫にとっても動くにちょうどいい天気なのかもしれない。ジャノメチョウが草の間をうろちょろしている。やつは低く飛んで草の間に隠れるから見失いがちだ。意地になって追いかけるとジュズダマに張られたナガコガネグモの巣に勢い良くぶつかってしまった。運がよかったのか、やつの力量なのか、トランポリンのように跳ね返って九死に一生を得た。蝶はたまげてしまったのか、えらい勢いで射程距離外に飛んでいってしまった。

アカソの葉にぽつぽつ穴が開いている。だれが食ったのかと探せば、ハバチらしい青虫がいくつも見つかった。何者かが糸を使ってアカソの葉を巻いている。葉の上にいたカタツムリには中身がなかった。こんな所で絶命して腐敗したとも思えない。捕食にあったのだろう。どんなやつの腹の中に入ったものか。そういやしばらくマイマイカブリを見ていない。神奈川には少ないのだろうか。地面をはいつくばることが少ないから出会いがないだけか。

はいつくばるのはアスファルトばかり。ゴマダラカミキリを見つけていつもの土下座姿勢で撮る。ゴマダラカミキリには類似品が出回ってるらしいと娘が騒いでいたことを思い出して、いつもより丁寧に撮った。雨の日は土下座が楽だ。


2021.9.8(水)くもり時々雨 ジョロウグモの脱皮

ジョロウグモ♀

今朝、いつもようにジョロウグモの観察にいって度肝を抜かれた。巣に脱皮殻がかかっていたからである。脱皮したのはわが家で一番大きなメスだ。もうしっかりオスがついている。

脱皮殻があるということは24時間以内にメスが脱皮したことになる。私はこのメスは成虫だと思ってきた。私の見立てでは、7月23日に5齢になって、脱皮は終了、成虫になったはずである。さらに巣にオスがついたのは大人のメスの証だろうと思っていた。

その見立ては間違いだった。ただ、ジョロウグモの場合、成虫になってからも脱皮するのかもしれない。そういう可能性は残る。

ジョロウグモ♂

いっぽうこちらは撮影しやすいところに巣を構えている7本脚だ。おそらくオス。触肢が立派なんでオスだと思う。オスであればメスを求めて徘徊するはずだが、その様子がない。ということは幼虫なのだろうか。幼虫であれば脱皮するかもしれない。もしかしてこっちも見立てが違っていて、こいつは成長の悪いメスなのかもしれない。それでも脱皮があるかもしれない。いずれにしても行く末をしっかり見ておかねば。


2021.9.10(金)晴れ クワコの産卵

クワコの卵

庭の実生のクワの木にいたクワコは昨日いなくなっていた。まる3日間同じクワの葉に居座ったことになる。

8日には卵らしいものが一つ蛾の近くにあることをみとめている。昨日にはクワコはいなくてその卵らしいものが複数個になった。今朝には10個の卵が確認できる。

これはクワコの産卵行動だったのだろうか。桑の葉に3日間も留まり、10個の卵を産む。もっとさっさとばんばん産めばよいようなものである。慎重なのか鈍重なのか、それとも特異な一例であったか。

とりあえずこの卵らしきものの観察を続けよう。そもそもこれがクワコの卵じゃないってこともある。


2021.9.11(土)くもり雨のち晴れ 秋の音

ツユクサ

群青で境川。雨が降っていたから合羽を持ったが、いつものセブンイレブン裏につくころには薄日がさしてきた。セブンイレブン裏は圧倒的に豊かな自然がある。ツユクサの茂み一つとってもかなわないなと思う。

水路を隔てた畑のわきの雑草と雑虫をながめながら今季はじめてモズの高鳴きを聞く。姿を探したが見つからない。境川の対岸にある電柱のてっぺんには鳥がいる。モズの高鳴きは100mも届くんだろうか。モズの声には熟れた柿がよく似合う。ここの畑にはないけれど。目の前の草むらではキチキチバッタが盛んに飛ぶ。これも秋の音だ。

田は水を落とし収穫の季節をむかえた。水路はまた水がなくなった。タイワンシジミの殻が転がる土の上にヌマガエルがいてしきりに何かを食べようとしている。私の目では捉えきれないブヨみたいな虫がいるらしい。水路に巣を張るナガコガネグモたちはことごとく獲物を捕らえている。ちょいと負けた気がした。

この水路にはいつもキタテハがいる。茂みを物色している感じは産卵だろう。アレチウリに潜り込んでもだめだ。3m先にアカソがあるからそっちのほうがいい。

どういうわけだかショウリョウバッタが杭のようなものの先にとまっている。杭は草刈りにあったブタクサ。目前のギシギシは食痕だらけだ。何が食ったものか。確実なのは「の」の字になるハバチの幼虫だ。緑の体に黒い点々。ざっと見渡しただけで10頭はいる。幅広で明るいギシギシの葉の透過光で「の」の字のシルエットが丸見えだ。

例年土をもらう田んぼは今日収穫だった。そろそろ私のクロナガアリも収穫に入る。巣口を覆う雑草を刈ってみたがまだ巣外活動はしていないようだった。さてこの巣ももう15年ぐらいは観察している。今年の5月には結婚飛行にも参加した。さあこの秋も働きアリを見られるだろうか。


2021.9.12(日)雨 食欲の秋

クサカゲロウ

庭のエノキを毎日見ている。このところ目立っているのはもふもふのアブラムシだった。こちらの写真は48時間前に撮ったもの。枝をびっしりともふもふが覆っている。もはやアブラムシのやりたい放題。それが今朝にはぽつぽつと数えられるぐらいしかない。嫌でも異変に気づくというものだ。

こりゃ何者かが食ったなと探してみると、まず見つかったのはツマグロオオヨコバイだった。こいつはアブラムシを食わない。さらに探しまくってクサカゲロウの幼虫らしいのが見つかった。こいつはアブラムシを食う。ちょうどアブラムシらしき虫を咥えている。背中にはちゃんともふもふがついて状況証拠もある。

こいつが食ったにしてもその量がはんぱない。食欲の秋とはいうが、1〜2日で数十匹のアブラムシを平らげるものだろうか。

いい雨の日なんでウィリエールで境川。そしてセブンイレブン裏の水路。判でついたような生活だなと我ながら思う。ただし昨日とは違う自分になろうと、昨日撮影しなかったものとか、撮ったけど失敗したものにチャレンジした。

ハバチ

撮らなかったのはアカソにいる毛虫。きっとハバチの幼虫だ。いっぱい葉を食ってたくさん糞をしているのは好感触だけど、撮っても名前がわからないだろうし、この先何かいいこともなさそうだと見て見ぬふりをした。

今日こいつを撮ったのはたまたまアカソの葉が壊れたのか、糸が切れたのか、むき出しになっているサナギが見つかったからだ。ここの葉がずいぶん巻かれているのは知ってたけれど、それをあばくのは私のポリシーに反する気もして放置してきた。

それはともかく、たまたま破れているのだからしっかり見せてもらった。茶色いサナギはやはりハチ系のように見える。念のためほかの巻葉トンネルをのぞいてみたら、同じ形状のサナギがあった。きっと同種だ。

撮ったけど失敗だったのはエノキの実。なんの変哲も苦労もなさそうな被写体なのに数枚撮ったものが全滅だった。実にピントがなく、全カットが後ピンだった。私のTG-5は普通モードでは近いものを被写体として認識しない。射程距離内なのに失敗することが多い。これは良く承知していることで、注意したのに後ピン量産でくやしかった。

それで今日は接写モードで再挑戦した。驚いたことにそれでも後ピンっぽい。どうやらエノキの実を被写体として認識してくれないようだ。赤い実がよく目立っているからと油断してはいけない。これはたぶん明度の問題だ。明るい背景と実の後ろの暗い葉の明度差が大きいものだから、カメラのやつめ『被写体は葉だな』と早合点するようだ。ではと伝家の宝刀マニュアルフォーカス。マニュアルフォーカスモードだと、露出補正の操作ができないうっかり仕様のTG-5ではあるが、これがないカメラを買う気はしない。

マニュアルフォーカスでの問題はこちらの目のほうだ。老眼で背面モニターは完全なピンボケで見えない。何のためのマニュアルなんだか。私の目玉は近いものは全然ダメだが画素数が多いのか遠くはばっちり見える。100万円クラスの超望遠レンズをつけてるようなもんだ。鳥のカメラマンなら生涯現役で行ける気がする。お年寄りたちがカワセミやチョウゲンボウに群れるのもよくわかる。


2021.9.13(日)雨 脱皮続々

ジョロウグモ

夜が明け2階の窓をあけ日課のジューンベリー観察をしてジョロウグモが脱皮しているのを発見した。ジューンベリーの梢に巣を張っているメスがいることには気づいていた。それにオスがついたのも見ているが、まいどお決まりのことだなと注意は払ってなかった。そいつが脱皮していたので驚いた。つい先日までジョロウグモの9月の脱皮はないと思い込んでいたからだ。

しかもついているオスは7本脚だ。もしかしたらこのオスだって脱皮するかもしれない。

庭に降りてナツツバキのメスもチェックした。二度おどろいたことに、こいつも脱皮している。ジューンベリーのと同日だ。ジョロウグモが秋に脱皮するのは普通らしい。ただし両方とも巣の場所はそれほど良いとはいえない。成長は遅れているほうだ。

次は、ザクロの7本脚のオス。こいつも稼ぎが悪いので心配している。昨夜は羽アリをゲットしている。羽アリは明かりに引かれて部屋の中にもずいぶん入ってきた。しっかり食べて生き残ってほしい。こいつだってまだ脱皮の可能性がある。


2021.9.14(火)くもりのち雨 3つの卵と2つの異変

卵

3日前に見つけたクワの葉の卵の色がすっかり落ち着いていた。鮮やかなピンクから褐色になった。自慢のスーパーマクロで撮ってみれば薄い殻を透かして中の幼虫が見えている。もうすぐ孵化だ。継続観察できれば同定にこぎつけることができるかもしれない。

そこにぶ〜んと音をたてて虫が飛んできた。アカサシガメだ。こいつの卵はトマトケチャップだった。孵化した幼虫のうちの1匹なんだろうか。

さらに大きな蝶が飛んできた。すっかり友だち気分のアカボシゴマダラだ。まっすぐにエノキに止まって産卵らしい行動を見せている。枝を下向きに歩いて葉の茂みに潜り込んで腹を曲げる。産卵された卵は2つ確認できた。

エノキの枝にはクサカゲロウの卵が列になって産み付けられていた。産卵からずいぶん経って孵化が近い感じだ。今朝まで発見できなかったのは迂闊であった。さあこうなるとエノキのもふもふアブラムシの命運は時間との勝負になる。いつまでももふもふアブラムシと呼ぶわけにもいかないので、今日からはエノキワタアブラムシにする。別種かもしれないけれど。

じつは今朝一番に気づいたのは、田んぼ水槽がひっくり返されていることだった。植木鉢用の丸い鉄製の台上に置いているプラケースが傾いて、大半の水が流れ落ちていた。夜のうちに何者かがひっくり返したに違いない。こんなことができるのはネコかハクビシンぐらいだ。たぶんハクビシンのほうだ。数年前からハクビシンが田んぼ水槽のそばにあるスイレン鉢で悪さをしているから。

つぎに気づいたのは、サンショウのアゲハの行方不明事件だ。玄関脇のサンショウは毎朝見ている。昨日までは10頭ばかりの黒いアゲハ幼虫がいた。今朝には全員がいなくなっている。同様のことはひと月ほど前にも起きた。そのときは小型の黒色幼虫を残して緑色に成長したものがことごとくいなくなった。

なんらかの事件に巻き込まれたことは疑いない。犯人の手がかりは全く残されていない。先の行方不明事件と同様だ。おそらく鳥の仕業と思うが、玄関まで青虫を食べに来るような鳥に心当たりがない。カラスなんだろうか。


2021.9.16(木)晴れ オンブバッタの擬態

オンブバッタ

オンブバッタは庭に多い。いっぱいいて何でも食べる。とりわけ水辺の草を好むし、農作物も好きだし雑草も好きだ。だから庭のどこにでも目にする。

それがなぜか壁にいたので撮っておいた。この写真は今季2度目の発見だった。褐色型の割合は小さいのに壁では褐色型を見ることが多い。褐色型を葉の上で見た覚えがないくらいだ。

写真のオンブバッタ幼虫は壁によく似ているように見える。薄めの褐色で濃い斑点がある。それが壁に生えているコケの感じになっている。

一般に昆虫の隠蔽擬態は「環境に似せて敵の目から逃れるため」と表現される。私はその言い方が嫌いだ。虫は断じてそんなことを考えていないからである。私は虫ではないが、それだけは自信を持って言える。このオンブバッタの解釈は一筋縄ではいかない。人間的な判断では理屈に合わないのだ。

こいつは葉よりも壁っぽいけれど、壁はこいつの生きる場所ではない。この幼虫はこれまでも、これからも生活の大半が葉上のはずだ。夏でも枯れ葉は多いから枯れ葉に似ててもかまわない。枯れ葉擬態もありとは思う。

そもそもこいつはどうやって褐色型になったのか。まさかアマガエルやタコみたいに環境に合わせて変身するわけではあるまい。生涯のある時、たまたま壁で休んでいて、そのときに出たホルモンのせいとかで褐色型になったのかもしれない。

私は枯れ葉擬態の個体が壁でよく見つかることに引っかかっている。壁が落ち着くから壁にいるという気がするのだ。褐色型だから壁を好むのか、壁を好むから褐色型なのか、はたまたそんなのかんけーねーのか。


2021.9.17(金)くもり 黒い幼虫たち

オンブバッタ

写真は午後に撮影したオンブバッタの成虫。たまたま昨日、6日ほど前の11日に撮ったオンブバッタ幼虫のことを書いた。そしたら、なんとこいつが壁にいた。おそらくあの幼虫が成虫になっていたのだろう。止まっている壁の場所もほぼ同じだ。やはり場所に執着する習性があるとしか思えない。

1頭だけ孵化していたクワのイモムシが今朝には全部孵っていた。こいつは孵ったらすぐに散る習性があるように思う。どうやらクワコらしい。

ジューンベリーのモンクロシャチホコ幼虫は勢いがないように見える。集団で葉を食いまくる様子がない。探せばポツポツ見つかるし、水槽には成長している証しのオレンジ色の糞が落ちている。庭に座って虫を見ていると、糞が落ちてくる音もする。あと数日で、こんなにいたんか!と驚くことになるかもしれない。

葉にぶら下がる毛虫の死骸があった。見つけたときはモンクロシャチホコかと思った。去年、庭で大量死していた姿に似ているからだ。しかしよくよく調べてみればルリタテハの幼虫のようだ。ホトトギスの葉にぶら下がっている。

死因はわからない。体液を吸われているようでもあり病死のようでもある。ルリタテハにしては黒すぎるのは死体だからだろうか。そういえば今日見た鱗翅目の幼虫は全部黒だ。


2021.9.18(土)雨 台風の境川

遊水地

台風が接近中であるけれど、風雨はサイクリングに支障をきたすほどではなく 群青で出かけることにする。玄関に自転車を立てかけふと壁を見てあきれた。昨日のオンブバッタがまだいたからだ。場所はほとんど変わってない。風雨が直撃するはずだが、何が彼女をここに引きつけるのだろうか。

境川の増水はそれほどでもない。ピークは明け方ぐらいだったろうか。遊水地はたっぷり水がたまっている。ふだんサッカーコートとして利用されているところは2mの冠水だ。ゴールがかろうじて見えている。遊水地からの排水ははじめてないようだが、排水口を押し出して泥水は流れ出していた。

下流のほうの下水処理場でドンドンと太鼓を叩く音がしている。この風雨に酔狂な人がいるもんだと音のする方を眺めてみても誰もいない。人が集うような場所でもない。ちょっと探してすぐに音の発生か所はわかった。処理された下水の排出口だ。

太鼓のようなドンッという音と共にゲートから飛沫があがる。数秒おきにドンバシャ、ドンバシャ、ドンバシャ。排水口から流れ出てくる水は濁流ではないから、コンクリプールの処理水なんだろう。排水はしたいけど本流からの逆流を嫌ってゲートを下げているのか。何かのタイミングで排水がゲートを叩いて太鼓の音を出していると思われた。舞台裏を見たいけど無理だろうな。

今回の台風では私のサイクリングコースは事なきを得ているようだ。用水の溢水はなく収穫前の水稲へのダメージもない感じだ。畑の脇を走っていて茂みからニイニイゼミの合唱が聞こえてきた。ニイニイゼミは境川では普通だけど、川沿いではなかなか聞けないセミだ。これも雨の恩恵かとふと思い、いつもより多めに走った。

帰宅して、まさかねと玄関脇の壁を見ると、相変わらずそいつはいた。ちょっと場所をすらしているだけだった。


2021.9.19(日)晴れ 山際川

山際川

台風一過でセントラル神奈川中流河川の旅だなと群青を引っ張り出すと、今朝もいましたオンブバッタ。もうこうなると本来の習性ではなく何者かに操られている可能性も考えなければならない。日差しがあるから壁は熱くなるぞ。

写真は、ちょっと気になっている山際川。台風の後なのにあきれかえるほど澄んだ水が流れている。相模川も中津川も濁りがとれてないのにどういうわけだ。地下水が相当入っている様子だ。

フナやアメリカザリガニはどうなったかと探してみれば、すぐに見つかった。100〜200頭ほどの魚の群れが渦を巻いていた。採餌行動にみえるけど何を狙っているのかまったくわからない。またまた異様なものを見せられた。魚のサイズからするにフナではなくコイらしい。体も大きいが態度もでかい。到底野生とは思えない。絶対に飼育されたコイだ。

アメリカザリガニもすぐに見つかった。川底に赤い死骸がごろごろ転がっている。カラスかなんかにつつかれたものか、道路にも死骸が散乱している。阿鼻叫喚っぽいけれど、普通に生きてるやつもけっこういる。コイもザリガニも彼らなりに命をまっとうしてるんだろう。

いきなり見慣れぬ鳥が視界に入ってきた。みなれないのは飛び方が変だから。それが鳥ではなくコウモリだとすぐにわかった。昼間のコウモリは荻野川でも見ている。そう稀なものでもないらしい。山際川のコウモリはたびたび水面にダイブしていた。カワセミ風ではなくツバメ風だ。まさか魚を狙っているわけではあるまい。水でも飲んでいるのだろうか。

帰宅するとさすがにオンブバッタは消えていた。探してみたけど見つからない。そのかわり駐車場をジガバチが歩いていた。クモをひっぱっている。はて巣はどこだと注視していると、玄関のコンクリの段下の小さな穴の前にクモを置いて速やかに穴に入っていった。穴から泥が掻き出されている様子はないがと、クモを刺激しないよう息を殺していると、穴から出てきて後ろ向きにクモを引きずり込んだ。玄関でジガバチが営巣したってのはちょっと誇らしい。最近はアシナガバチすら寄りつかないわが家であるけれど、前の道路が未舗装だったときは玄関にスズバチが泥巣を作った。


2021.9.20(月)晴れ ウスバキトンボが少なかった

トンボを見ておかなければと群青で半原越へ。トンボはミヤマアカネ。毎年梅雨の雨の中でミヤマアカネがたくさん羽化してくる田がある。今夏はその田をぜんぜん訪れなかった。ちょうど稲刈りの頃だ。みのった稲とくたびれたヒガンバナにミヤマアカネっていういい写真が撮れるかもしれないと期待した。

いざ田についてみれば、ミヤマアカネが少なかった。こいつがこれほど少ない秋ははじめてだ。耕作方法がまた変わったのか。それとも周囲の休耕田が復活して分散しているだけか。

虫ってのは数が少ないときはなかなか撮らせてもらえないものだ。ミヤマアカネも同様なのか、近づかせてくれない。稲穂とトンボなんてシーンは粘らないと無理だ。あきらめて退散だ。

少ないトンボといえば今年はウスバキトンボが少なかった。群飛!っていうシーンを全く見ていない。ウスバキトンボは例年同様に6月になると飛びかっていたから、すぐに増えるだろうと予想していた。ところが増え方は緩慢だった。天候不順の影響だろうか。今年は太平洋高気圧が鯨の尾状に張り出して梅雨前線を日本海に押し上げるっていうお約束がなかった。

ウスバキトンボはさまようグライダーとして夏の高気圧に乗ってくるトンボだと思う。繁殖に適する場所がたくさんあっても、南からの供給がなければ数を増やせないのかもしれない。

今世紀になろうかという頃、ウスバキトンボの動向と気象の関係を調べたいと思った。インターネットと携帯電話が普及してウスバキトンボの調査が可能になるめどがたったからだ。環境は予想以上に良くなった。GPSの普及はここまでの期待はできなかった。今ならウスバキトンボなんて調べ放題だ。ただし調査は進んでない。そもそもインターネットと人工衛星と富嶽をトンボに使おうなんていう了見は酔狂だ。

さて褐色型のオンブバッタは今日も玄関の壁にいた。判でついたようなその光景だが、違いもあった。後ろ左足が欠落しているのだ。彼女のすまし顔は平穏に見えるけれど、死線をかいくぐったのかもしれない。バッタの足をもぐなんてやつは、カナヘビとカマキリぐらいしか心当たりがない。夕方に帰宅するとまた壁から移動していた。


2021.9.24(金)晴れ メスが来たから

ジョロウグモ

しばらくさぼって2日あけての庭観察になってしまった。今朝一番のトピックは7本脚のジョロウグモの異変だ。ジョロウグモでも欠落した脚が脱皮で復活するやいなや? ということを確かめられるかもしれないオスである。

クモを見に行ってまず目に入ったのは中型のメスだった。オスだと思っていたのがメスだったってこともあるけれど、明らかに体が大きい。別個体だ。

では当のオスはどうしたと、メスの周辺を探せば左手にそれらしいオスがいた。もし元のオスがこいつなら、メスはこの場所に割り込んだにちがいない。2日ほど前に、先住のオスがいることに構うことなく巣を張ったのだろう。そしてオスはそのままこのメスに付く気になっているのかもしれない。よく見ればオスが6本脚になっている。また1本欠落してしまったのか。もしかしてメスとの闘争があったのか。

いろいろと想像たくましくさらに探してみれば、右手にも1匹のオスが見つかった。こちらのオスは7本脚である。もといたオスは右第一脚の欠損なので、こいつではない。欠損が左第一脚であるから。きっとメス目当ての新参者だ。写真を撮っておくって大事なことだなと思った。

また、右手のオスは脱皮殻をもっていた。こいつがここに巣を張ったかメスの足場に来たのは遠くて2日前で、脱皮は昨日あたりにちがいない。脱皮殻の脚は7本である。7本脚が脱皮して7本脚になっているという状況証拠から、ジョロウグモは脱皮しても欠落した脚が復活しない、少なくとも復活の確認はできていないということになる。なぜ断定しないかというと、脱落からかなりの期間を経ないと体内で補完すべき脚が成長しないことを確認済みだからである。


2021.9.26(日)くもり 相模川

相模川

昨日、相模川の右岸なら快適に海まで出られることがわかって今日も行ってきた。相模川は大河で河川敷もある。ただしその活用という点では荒川や多摩川に劣る。相模川のそのコースは絵に描いたような殺風景だ。工場と荒れ地の間を直線的に進んでいく。河川の雑草がこれでもかと生い茂る。けっこう好きな感じ。埃っぽいのはイマイチだが。

殺風景なだけに虫も少ない。ヘビなんかは期待しても無理だ。スズメガの幼虫がちらほら出歩くぐらい。これからはカマキリがたくさん飛びだしてくるようになる。相模川の河口に出てみた。例年だとウスバキトンボが群れているころだ。そんな光景もなく殺風景だ。

帰宅してから庭の虫の観察。クロナガアリはまだ本格的な活動に入っていない。庭にはまだ草の種が少ないのだ。巣の拡張を少しずつやってるみたいだ。ちょっと注目のジョロウグモは7本脚がいなくなって6本脚だけがメスについている。普通の夫婦っていう感じに落ち着いている。6本脚はこの先どれだけがんばってくれるだろう。

クワはクワコで賑やかだが、エノキのほうはワタアブラムシがいなくなって寂しくなった。アカボシゴマダラの幼虫はまだ見つかっていない。サンショウのアゲハは姿を消した。枝には枯れかかった葉がのこるばかり。

ショウリョウバッタ♀は今朝も壁にいた。定位置な感じだ。壁にいないときはどこかと探してみるも見つからない。壁の近くの草の葉に食痕はあるが、その近くにはいない。

ショウリョウバッタを探していると、ジグモの巣が見つかった。20年ぐらい前にはこいつがずいぶんといた。庭だけで50は下らなかったろう。この数年は見ていなかった。


2021.9.29(水)晴れのちくもり 執着すること

キマダラカメムシ

今朝、定例の朝虫めぐりをして、ミズヒキの葉にキマダラカメムシの幼虫を見留めた。キマダラカメムシの幼虫は庭では普通だ。見つかりすぎるもんだから記録はスルーしてきた。

しかし、1週間も同じ葉の上にいるとなるともはや事件だ。おそらく同一個体と思われるキマダラカメムシの幼虫が同一の葉で毎朝見つかるってのはどういう意味だろう。

スルーしてきたとはいえ、写真を撮った記憶もある。過去分を探ってみると、9月24日にこいつの写真を撮っていた。それが初見ではないというおぼろげな記憶もある。その後は毎朝いたことを確認済みだ。

ミズヒキはきっとキマダラカメムシの食草だ。その他のカメムシにも比較的好かれる草だと思う。ただ、キマダラカメムシの一押しはジューンベリーだと思ってきた。庭で最初に見つけたのはジューンベリーで、頻度が高いのもジューンベリーだった。

この幼虫がこのミズヒキの葉に居座る理由がわからない。強いて言うならここで十分過ごせるのだから移動する必要がないということぐらいだ。

なぜだか好きこのんで食べ物でも隠れ家でもない玄関の壁に居座るオンブバッタのメスの心も不明だ。虫たちは感情的な生き物なんで、なんらかの情動によって執着する場所ができるのだろう。原因は全く見当もつかないけれど、その習性が隠蔽擬態を虫にもたらしたことは間違いない。

クロナガアリを見ようと、敷物の段ボールを壁の隙間から引っ張り出そうとすると、そこにカナヘビがいた。黒っぽいヤツだ。あれっと思った。27日に見つけたヤモリはカナヘビじゃないかという疑惑が湧いたのだ。カナヘビはわりと登れるトカゲだが、家の壁を這っているところを見たことがなかった。しかし今朝には、小さな個体が壁を登ろうとしている。やはり下手くそで転がり落ちてしまったけれど、カナヘビだって壁を登るのだ。あわててたまたま見聞録の画像を見返せば、やっぱりカナヘビだった。


2021.10.03(日)晴れ 尊い犠牲

ハラビロカマキリ

ひさびさのチネリで相模川。こいつはじゃじゃ馬なところがあって低速で走っていると機嫌が悪い。自分の行きたい方に進んでしまう。30km/hを越えるあたりからようやく言うことを聞くようになる。ハンドルで曲がろうとしてもダメで体重で曲がらなければならない。レース用の自転車の性質だから慣れるしかない。チネリに慣れると群青のハンドルは軽すぎてふらついてしまう。

写真は寄生したハリガネムシもろとも轢かれたハラビロカマキリ。ハラビロカマキリは樹上性で道路を歩き回るタイプではない。きっと腹の中の虫に操られて水を求めていたのだろう。

最近は虫に対して思うところがあって、こうなったカマキリもハリガネムシも幸いだということにしている。こいつらは自分の好き嫌いに従って精一杯生きてきた。カマキリはアブがいればアブもろともハリガネムシを食い。腹の中のハリガネムシを育てながら精一杯生きてきた。そこに苦痛も挫折もなくカマキリとしての喜びもあったろう。

ハリガネムシに寄生されたカマキリは子を残せない。宿主はデッドエンドだ。しかし虫の大半は子を残せずに死ぬ。単に道半ばで命を終えることが虫の幸いではないのであれば、ほんとうの幸いはとっても得難いことになる。その時々を精一杯生きた者に対して、その生き様が幸いでないというのは人間の勝手な妄想にすぎないだろう。

人は妄想する生き物だ。道路でハリガネムシもろとも轢死しているカマキリは秋の風物詩だ。カマキリは意図して事故死するわけではないけれど、これはいわゆる尊い自己犠牲になる。子々孫々がハリガネムシにやられる確率をいくぶんか下げたのだから。私はそういう妄想をする生き物だ。


2021.10.04(月)晴れ 羽アリの日

羽アリ

朝庭に出て真っ先に気づいたのは羽アリだ。ジョロウグモの巣におびただしい数の羽アリがかかっている。どうやら昨日の陽気で羽アリの結婚飛行があったらしい。ジョロウグモたちにとっては待ち望んだ大漁だろう。ジョロウグモだけでなくササグモも羽アリを捕まえている。カナヘビの腹もふくれているような気がする。

庭で一番稼ぎが良く太っているメスはどうかと目をやれば、ハラビロカマキリが巣にぶら下がるようにかかっていた。クモのほうは知らん振りをしている。気づいてないわけがない。たぶん途方にくれているのだろう。糸で巻いて食べるには大物すぎる。かといって放置して巣を壊されるのも嫌だ。見なかったことにしよう・・・そんな考えはないと思うけど。

膠着状態の結末やいかに? と眺めていると、ハラビロカマキリはちょいと体を揺すってあっけなく落ちていった。

主のいない巣に架かっている羽アリをしげしげ見てもその種類はわからない。中型で褐色の色合いはトビイロケアリあたりだろうか。

いっぽうクロナガアリのほうは地上活動をしていなかった。先日の雷雨が塞いだのか、巣口も見えない。重いスーパーマクロを運んできたのに空振りかと眺めていると、そこに羽アリがやってきた。せわしなくクロナガアリが作ったマウンドを歩き回っている。新居を探す新メスだろう。これ幸いといつもより多めに撮影した。


2021.10.05(火)晴れ 隠れるクワコ

クワコ

毎朝庭のクワの木を探ってクワコの成長を楽しみにしている。卵は20個ほどあって最初はにぎやかだったが、しだいにイモムシの数は減っている。やはり脱落者がでているのだろう。

自然度の低い庭とはいえ危険はあるだろう。アシナガバチ、スズメバチが獲物を物色して葉の間を探索している。たくさんいたアゲハだってモンクロシャチホコだっていつしか姿を消している。イモムシ毛虫が生き残っていくのってたいへんなんだ。

今朝はついにクワコが見つからなかった。昨日までは葉の上か下かに白っぽいイモムシがいた。探せば2つや3つはすぐに見つかった。それが全然見あたらない。枝を引き寄せてつぶさに見ていってもだめだ。カメノコハムシしかいない。もう食われちまったのかといくぶんか落胆した。

そのとき、木の比較的地面に近いところ、膝ぐらいの高さの枝に「なにかがいる」と違和感を感じた。それはクワコだった。擬態する姿勢で枝に貼りついている。昨日より少しばかり大きくなった感もある。体の色模様がこころなしか枝に似てきた。そのつもりで枝を探せばすぐに3頭が見つかった。

時間帯は同じなのに、葉にまったくいなくて3頭が枝に貼りついているのだから、そういう習性なのかもしれない。大きくなって葉では目立つようになると日中は枝で休憩して食事は夜、葉に移動して食べるのかもしれない。


2021.10.06(水)晴れのちくもり 見つかるクワコ

クワコ

昨夜にクワコはどうしているかと懐中電灯を持ってクワの木を探ってみた。20時ごろには梢のほうに移動して葉を食べていた。日中にいた場所からは1m以上離れている。クワコは3頭確認しているが、3頭とも葉にいた。やはり夜に出歩いて食事しているのだ。

では日が昇ったらどうしているかと、また訪ねてみれば、地面から50cmぐらいの枝に3頭ともいた。

写真はたまたまカナヘビが来てエキストラになってもらったもの。クワコはカナヘビに見つからない所にいる。下のはカナヘビ目線のちょうど 裏側。そいつにピントを合わせている。上のほうのクワコもカナヘビの死角にいる。といっても動かないかぎりカナヘビには見つかるまい。見つかったとしてもすでに食われないサイズだろう。

カナヘビはともかく私には見つかるクワコになった。こいつだけでなく、他の木にいるやつらも見つけやすくなった。ヒトというのは侮りがたいものだ。

虫とは一期一会である。同じ個体にいくども会えるものではない。玄関の壁にいた褐色型のオンブバッタ♀は、先の台風接近の日に行方がわからなくなった。もう見ることはあるまいとあきらめていたが、今日はトウガラシの葉の上で見つかった。もう1頭、緑色型のオンブバッタ♀がアカマンマの花穂にいた。双方共にたいへん目につきやすいところにいるのが気になる。


2021.10.07(木)くもり 私のヒーロー

虫取りガイドの少年は唐突にラジオの話を始めた。「こんまえ聞いたラジオ面白かったで。匂いはどうして伝わるのでしょう、っていう話や。」それはおそらくNHK第2の放送だと思う。当時はテレビのない家庭もあって一家団欒でラジオを使うことも多かった。少年は楽し気に続けた。「匂いいうがは目に見えんやろ。煙みたいに見えんでも匂いが来るのはどしてやろいうがや。そういわれりゃ、な、不思議や思て面白かったがや」今にして思えば高校講座の化学あたりだったろうか。超人的な身体能力を持ち、虫にも山にも農業にも詳しい少年が原子分子を面白がったことが私にはうれしかった。

小学生の私は科学に夢と希望を持っていた。昭和40年代の半ばは、月に人類が降り立ち、原子力発電がはじまり、合成樹脂が次々に発明された。田舎でも電話やテレビや自動車が続々と普及し、蛍光灯は白く明るく室内を照らした。深刻な公害や環境問題はまだ露見してなかった。私の遊び仲間でもよく科学が話題になっていた。理論物理学、生理学、心理学などが著しい発展を遂げ、四国の片田舎にもその熱気は届き、子どもらは科学技術を信頼し科学に夢を託していた。私のヒーローも科学が好きなのだ。そのことで身近な存在に思えた。

ちなみに一緒にクワガタとりにいったK君はずば抜けて勉強ができる児童で、夏休みの自由研究では「自転車の速度と制動距離」なんていう機械工学的な発表をした。K君は当時珍しかった軽合金フレームの自転車を所有し、それに歯車式のスピードメーターをつけた記念で、速度と制動距離の関係を調べたという。K君はその研究で速度と制動距離は一次関数(そんな言い方はしなかったけれど)ではないという発見をした。私は速度が2倍になれば、制動距離も2倍だと素朴に思っていたから、K君の発表に驚き、どういうメカニズムがそこに働いているのかを知りたいと思った。

K君の研究のついでに思い出したことがある。「ソーダの泡のふえ方」という研究が心に引っかかっていた。それは優秀な自由研究として小学校の統計室に貼り出されていたものだ。水を入れたコップに、当時よく売れていた炭酸ジュースの粉末をどれだけ入れるとどれだけ泡が出るかという単純な研究だった。増える泡の量は一次関数ではなかった。私は一次関数にならないことが気になって、追試してその研究の正しさを確認した。着眼も結果も興味深いものだったが、研究者がG君だというのが驚きだった。

G君は同じ部落の3つばかり年下の児童だった。私の遊び仲間10人ほどの一人だ。引っかかったのは、G君が当時始まった特殊学級に編入されたからだ。いわゆる知恵遅れがソーダの泡に注目してデータを取るなんてことができるだろうか。勉強についていけない知恵遅れってなんなんだ。

私の遊び仲間はたまげたことに3人が特殊学級だった。学校全体では2.5%だったから、それだけでも驚きだ。私はそのことが合点いかなかった。その3名が頭が悪いとは思えなかったからだ。彼らが遊びでの創意工夫や家業の手伝いで私に劣っていると思わなかった。大人たちにうまく取り入る能力なんてぜんぜんかなわなかった。私は仲間内では異次元の知能指数を有し勉強も並みにできる子だったが、学力もIQも学校外ではまったく役にたたなかった。仲間はいわゆる優等生ではない私が勉強ができるとは知らず、乱暴で気の利かないやつだと思っていたろう。


2021.10.09(土)晴れ 今朝のオンブバッタたち

オンブバッタ

朝、いつものように庭に虫の観察に出る。コースの関係から最初に見つかるのはオンブバッタになっている。ただし今朝のオンブバッタは一味ちがっていた。

ドクダミの葉の上でおんぶバッタをやってるのは普通だが、オスの数がちょっとおかしい。三角関係になっている。オンブバッタ♂ってのは意外に気性が荒くて、取っ組み合い噛みつき合いの大喧嘩をすることがある。まさに流血の惨事。その間にメスはどっかにいってしまうという悲しい光景を目撃したことがある。こうやって仲良く三段重ねになっているのは終盤ならではだろうか。

ともあれドクダミの葉のハートがいい味を出している。仲良きことは美しきかな。

オンブバッタ

次のオンブバッタは褐色型メスのおんぶバッタ。あいつだなと思ってカメラを向けるとちょっと違う。脚をみればちゃんと6本そろっている。初顔のメスだった。今年は褐色型を2頭見つけた。

じゃあ例のやつはいつもの所にいるのかとチラ見したが壁には何もいなかった。

なんかいつもと勝手が違うなと不用意に歩を進めるとジョロウグモ♀を刺激してしまった。ノーマークの成長が遅い個体だ。そいつの巣になんと脱皮殻があった。昨日今日の脱皮らしい。ノーマークってのは良くないなと反省だ。

一方、夏からずっと目をかけてきたメスには3頭目のオスがついた。6本脚、7本脚、8本脚と区別しやすい3頭になった。

次にチェックするのはクワコ。今日はぜんぜん見つからない。大きいのが3頭、ずっといたのにいなくなった。葉にも枝にも幹にもいない。幹の裏側だろうか。入念にチェックすると、初見の繭が見つかった。もう繭を作ったのだろうか。そうじゃない。繭に巻かれている葉が褐色に枯れている。昨日今日の仕業ではない。念のために揺すってみると軽かった。念には念をいれて手で開いてみると羽化殻が見つかった。繭は予想以上に厚くて丈夫だった。

さて私のクワコたちは近日中に蛹化するだろう。普通に葉を巻いて繭を作るだろうか。落葉の季節を迎えるにあたって、葉に繭を作るのはいささか不安定ではないか。クワコは食草への直接産卵だから越冬態はサナギだろう。冬越しにそなえて安定したところに繭をかける可能性があると思った。

庭の種はクロナガアリが収穫するにはまだちょっと早い。種のかわりにダンゴムシの脱皮殻を運んできたやつがいるらしく、脱皮殻が巣口に挟まって中に入れなくなっていた。

ひととおり虫のチェックを終えて、マイブームになっている相模川に群青で出かけることにした。空模様はちょっと怪しくて強めの通り雨が来るはずだと、自称予報士である私は予想した。気温は高いから、雨具は持たず、濡れ鼠になっても冷えないように冬のジャージを着ていくことにした。

オンブバッタ

出がけに念のために玄関の壁を見れば、いた。例の褐色型のメスがぼっちでいた。この辺から調子の狂いは本格化したようだ。

入道雲はできるものの雨なんか1滴も落ちず、青空からさんさんと日が注ぎ暑かった。川辺のサイクリングでは盛夏にだって汗をかかないのが普通なのに、今日は目に汗が入って痛かった。遠く丹沢の奥山は黒い雲に包まれ雨が降っていそうだった。


2021.10.10(日)雨のち晴れ 湘南海岸

チネリ

マイブームってやつで湘南海岸に行った。相模川の右岸は19cの鉄ロードレーサーでも快適に走れる。中津川の合流から砂浜まで直線的に15km以上にわたって信号機も踏切も0。自由を愛する自転車乗りにはうれしい。終点は写真の相模川河口だ。

海を見れば近づかずにはおれない。自転車で砂浜を走るのはけっこう難しい。自転車を押して歩くと靴の中に砂が入ってわずらわしい。ロードレーサーと海岸は水と油みたいなもんだ。鉄だから錆びるし。

湘南といえば太田裕美の湘南アフタヌーン。湘南を見る前から歌で湘南を知ってどんな所かと想像していた。じっさいに来てみると歌のイメージとはぜんぜん違う。湘南アフタヌーンには能登半島が似合う。海に来てあの歌のようなセンチメンタルな気分になるわけない。湘南は歌が生まれるようなところではない。

浜に出てざぶーんという潮騒を聞いていると無性に血が騒ぐ。殺伐として殺風景な湘南海岸ですら海はいい。普段は東京のサラリーマンでございますと粋がってはいるものの、所詮は海の男でしかないのかなと思う。DNAに組み込まれてる質ってことにしておこう。


2021.10.17(日)雨のちくもり 雨の相模川

群青

今日は群青で相模川。まずは境川を南下していつものセブンイレブン裏。降雨のせいか水路に水があった。相変わらず流れには貝殻が多い。タイワンシジミの死骸だろう。流れが運んだ泥にはセリなんかが生えている。そこにキアゲハの幼虫がいた。キアゲハはそう珍しい蝶ではないけれど、その幼虫を見るのは何年かぶりだ。TG-5で撮った記憶がない。

木枯らし1号来るか?とテレビが言ってたぐらいの北風で、南下はすいすいなんだがどうも体がおかしい。背中がゆがんでいる。サドルがまがっているのかと勘違いするぐらいだ。

134号線は雨の日は良くない。相模川までの区間は路側帯のところに浅く水が溜まる。路側帯の白線は濡れているぐらいなら滑りが良くなって歓迎なんだが水没状態では抵抗が大きくなってしまう。相模川にかかる橋をわたって、相模川右岸に簡単に出られる道路がないことに驚いた。右岸の河口付近には店も駐車場もあるのに134号線から素直には降りられないようだ。

最近マイブームの右岸にでると橋の下に大きめのカニが歩いていた。名前はわからない。私は海の男ではないからカニの名などわからなくてもけっこうだ。そのそばにエンマコオロギが歩いていた。後ろ足が1本脱落している。こいつもやり切って余生を楽しんでいるのかな。

雨の相模川を走るのははじめてだ。予想通り閑散としていつもの殺風景に輪がかかっている。正面からの強い風雨が気持ちいい。冬には相模川なら強い風が吹くかもしれない。

相模川右岸ルートには、はかったような絶妙なところにコンビニがある。ローソンという青っぽいやつだ。セブンイレブンばかり使っているのでローソンは新参者でいろいろ困ることも起きる。スマホのedy支払いを申告しなければらない。今日はそれを忘れてレジの女の子との間に微妙な数秒が流れた。さらに、セブンイレブンではコーヒーはレギュラーだが、ローソンではSという。今日はうっかり「ホットコーヒーレギュラー」と申告してしまった。レジの女の子がそのエラーをスルーしたところを見ると、頻発事象なんだろう。そういや境川のセブンイレブンでは何も言わなくてもホットコーヒーレギュラーが出てくる。何年か後には相模川のローソンでもそうなるかもしれない。それぐらいまでは走り続けたい。

座架依橋にかかるころに雨が上がって丹沢の北に青空が見えた。背中のゆがみはいつしかとれていた。


2021.10.20(水)晴れ 新参者たち

クロマダラソテツシジミ

朝、カメラを持って玄関の菜園に行くとシジミチョウがいた。ウラナミシジミだと思った。わが家に陽気系のウラナミシジミとは珍しい。気合いを込めてファインダーで覗くと何か変だ。トレードマークの裏の波がない。どうやらうわさのクロマダラソテツシジミのようだ。

近所にソテツはない。この辺に定着することはないんだろうけど、来たる日のために探索をしているはずだ。こいつに似ているウラナミシジミと同じようにフロンティアスピリットあふれるシジミのようだ。

新参者が来る一方で、なじみの虫が消えるのはいくぶん寂しい。オンブバッタ、ワタアブラムシ、クワコなんかも見つからない。一番大きなジョロウグモ♀は数日前から行方不明だ。きっと産卵したのだろう。最も長く観察しているメスはまもなく産卵だ。このメスについていたオスたちは数日間消えたままだ。

秋になって増えるものもいる。スイレン鉢にわずらわしいぐらい群れていたミズムシが盛夏には見られなくなった。水質の変化で絶滅したのかと心配もしたが、9月には少しずつ復活してきた。いまでは以前とおなじようにわずらわしいぐらいたくさんいる。ミズムシは冬でも元気にうごめく。

ミズムシをみていると水底の泥に二枚貝らしき貝殻がある。一つだけではない。大きさは3mmといったところ。二枚貝は入れてない。なんだろうとピンセットでつまみ出して見れば、やはり二枚貝だった。どうやらこれはタイワンシジミらしい。

きっと泥か草かにまぎれて入ってきたものだろう。マコモとセリは2年以上前に移植した。2年前の冬に田んぼ水槽の泥を入れた。たぶんそのあたりでタイワンシジミが紛れ込んだんだろう。どっちにしても巻き貝はともかく二枚貝が入ってくるとは思いも寄らなかった。さすがにスイレン鉢で世代を重ねるのは無理と思うけれど、3mmサイズの貝殻がごろごろしているところをみると1世代は経たのかもしれない。

このたくましさであれば、国内での拡大定着を阻むのは不可能だと思われる。境川の流域ではタイワンシジミの増殖は著しい。セブンイレブン裏の水路を見てもそのたくましさをひしひしと感じる。


2021.10.23(土)晴れ セイタカアワダチソウ

セイタカアワダチソウ

今日はナカガワで相模川。いまだにちょいととまどうローソンで食料補給。相模川の土手で食べる。目の前にはセイタカアワダチソウの花がある。何か虫が来ないかと見ていても、ニホンミツバチはそばのセンダングサばかりを訪れている。もうセイタカアワダチソウに蜜がないのだろうか。

相模川の茫漠とした河原はオギとクズが覇権を争っている。セイタカアワダチソウの黄色い花は景色のアクセントだ。いつのまにか私はこの黄色い花が好きになっている。

50年ほど前にこいつが全国ではびこりだしたときは、ずいぶん悪く言われたものだ。嘘かホントか喘息の原因になるとも言われた。ススキを駆逐するとも言われた。それは嘘だったことが50年たつと明らかだ。ススキやクズと共存してちゃんと虫を集めている。きっと多くの人にとって、セイタカアワダチソウの花咲く河原は原風景になっていることだろう。

そういう河原がどういうわけだか河口付近でセイバンモロコシが優勢になっている。セイバンモロコシはちょっとだけ大事な草だ。クロナガアリの食料として毎年収穫しているからだ。草刈りと競争になる境川とちがって相模川なら取り放題だろう。近寄って調べてみればまだ収穫には早かった。セイタカアワダチソウはセイバンモロコシとも共存している。土壌の加減とか人手の入り方とか、なにか棲み分け条件があるのだろうか。


2021.10.28(木)晴れ 私のヒーロー

布喜川のクワガタポイントを一通り回って大収穫を得た。私は一日であんなにノコギリクワガタを捕ったことがない。ガイドの少年は心当たりのポイントをまだ持っているようだった。成果が悪ければ行くつもりだったらしいが、私もK君も大満足してもう完了だった。

半日歩いてくたびれてもいたので、もういっぺんアイスキャンデーを食べようということになった。むろん私たちは少年にもおごるつもりだった。しかし少年はそれを拒んだ。「一本いう約束やったけん、僕はええわい」といってことわられた。

当時の私にとってアイスキャンデーはごちそうだった。それを断るのは遠慮だろうと思って念を押した。「今日はがいな(たくさん)とれて、こがいなことないけん、キャンデーぐらいもろてや」と私は言った。それでも少年は「もう1コおごってもろたけん、それでええがや。また来たらそんときやんないや」という。私はK君の顔色をうかがったが、彼は押し問答は無駄という素振りをしていた。後からK君に聞いたところでは、少年は虫取りの他にもいろいろな仕事を引き受けており、その報酬がアイスキャンデー1本程度だと決まっているのだという。

私は少年のような好漢がいることに心底驚いた。当時、私のまわりには本物の貧乏人がかなりいて日々の食料にも事欠くような有様だった。そういう家庭の子どもはしょっちゅう食べ物を要求していた。山の探検とか遊具作りとか愉快な遊びに加わる対価のような塩梅だ。手持ちがなくなると盗みに走ることもあった。犯罪者仲間にいるのは恐かったが、子ども心にもやむない状況だと思わざるをえなかった。私は食うに困るまでの貧乏人ではなかったが性根としていじきたなかった。もらえる食べ物は何でも欲しかった。そんな日常を送っていて、当然もらってしかるべきアイスキャンデー1本を受け取らない少年の潔さにあこがれた。テレビや書物で描かれているヒーローがそこに立っていたのだ。

当然のことながら、私は少年のようになりたいと思った。超人のような心身を持つことは無理かもしれないけれど、すけだちを求められたら無報酬でも、あたう限りの技能と知識でもってこたえられるようになりたいと思った。

この半世紀を振り返るとそういう者になったとはいえない。そのかわり立身出世はした。私はいまや東京の会社で働くサラリーマン。あのころからすればありえないぐらいの金持ちだ。欲しいものは何でも買えていくらでも食べられることが至福だと思っていた子どもが、その夢を手中にしたのである。

しかし食べ物へのいじきたなさは相変わらずだ。つきあいで数万円の料亭とかレストランの飯を食ってもうまいと思ったことがない。その金でどんだけ干し芋が買えるかと計算して気分が沈んでしまう。もらえる食べものは何でもいただく。職場の同僚は賞味期限が切れたお菓子をめぐんでくれる。ある女上司は私に食べさせるのが楽しくて、わざとお菓子を期限切れにしてるみたいだ。

そして夏場のサイクリングでアイスキャンデーを食べると思わず苦笑いしたりする。もうちょっとヒーロー的に生きなきゃなと。


2021.10.29(金)晴れ 喜びの再会

オンブバッタ

群青に乗ってちょっとちがうコースで相模川に行ってきた。まずは境川に出て、いつもの高鎌橋セブンイレブンから大きな22号線を通って相模川の右岸まで。ちょうどローソンの近くに出る。そのままいつもの右岸を下って、そろそろ収穫をしなければならないセイバンモロコシのみのり具合を確かめる。種の入っていないものが多い。黒くて固い粒になっているのはわずかだ。さわってふにゃふにゃのものがしいななのかこれからみのるのかがはっきりしない。

河口付近まで行って、134号線の橋を渡り、いつもとちがうコースで遡ってみようと思った。相模川の左岸河口に小出川という小河川が合流する。それにそって遡ってみる。これが苦行にほかならなかった。やっとの思いで22号線までたどりついて、目久尻川に逃げることにした。目久尻川ならけっこう川沿いに走れたような記憶がある。

ところが、22号線から上流の目久尻川のサイクリングロードはおせじにも上等とはいえない。下流側なら未舗装でもそれなりの風情はあるが、上はだめだ。

すこしばかりうんざりして帰宅すると、迎えてくれたのはオンブバッタだった。しばらく玄関の壁にとまっていた褐色型のメスだ。これはうれしかった。もう2週間以上も見ておらず死んだものと思っていたのだ。どこでどうしていたのだろう。当たり前のようにすまし顔で定位置にいる。オンブバッタがこんなに喜ばしい存在になるとは予想だにしなかった。


2021.10.30(土)晴れ 種の収穫

相模川

そろそろセイバンモロコシの種を収穫しておきたいと群青で相模川に出かけることにした。出がけに玄関の壁をチェックすると今朝もいましたオンブバッタ。ゴミ出しにきた女房も目ざとくオンブバッタを見つけて、こいつまだいたとうれしそうだ。なんていい女房なんだ。

風がおだやかだ。ローソンでコーヒーsとゆで卵を買って相模川の土手で食べることにする。今日は堤防の坂を下って河原の近くまで行くことにした。自転車を倒して座ると、そこにマイマイカブリがとことこ歩いてきた。もう30年ぐらい会ってない虫だ。

マイマイカブリは土手のコンクリを降りて河原の茂みに入っていく。逃がすまじと立ち上がって追いかけた。クリートがコンクリで滑ってずるずる落っこちるけど、そんなことにかまってられない。なにしろマイマイカブリだ。滑った先に赤い実をつけた野バラの茂みがあるけど、そんなことを気にしてられない。足元にはセンダングサがびっしり生えているけど、どうってことない。なにしろ、マイマイカブリを見つけるのはいまの生活では無理だとあきらめていたのだ。

マイマイカブリのやつは河原の枯れ草にもぐっている。草の根かきわけて捕獲するほかはない。写真を撮ってそれがどうしたっていうことはあるとしても、ないよりあったほうがいい。チャンスは生かそう。

首尾良くマイマイカブリを捕獲して、落ち着いたところを撮影させてもらった。こちらも落ち着いてゆで卵を食べよう。ほんのちょっと手が臭くなってしまったけど、ささいなことだ。

空中に1つ2つウスバキトンボが飛んでいる。夏の名残だなあとぼんやり見物していると、そのはるか上をトンビが回っている。いい天気だからな。トンビのさらに上を鳥が群れて飛んでいる。向かい風の北向きはV字の編隊になって、相模川の上空を行ったり来たり。サイズと飛び方からしてマガンかなと思う。目の前の茂みに鳥の気配がして枝の重なりに目をこらせば、ジョウビタキのオスだった。2頭がおっかけっこになっている。北の方から冬が来ているのだ。マガンもジョウビタキも昨日の台風の風をつかんで渡りに船とのりのりで飛んだのかもしれない。

写真は相模川の東海道線付近。ここはセイバンモロコシの宝庫だ。ただしこれまでチェックしているかぎりでは種はそう多くなさそうだった。セイバンモロコシはどういう加減か収穫適期のものは数十本単位の群落になっていることが多いのだ。相模川でもそうだった。ただちょいと草むらをかきわけて探るだけで、望み通りの群落が2つ3つと見つかった。ゲットした種はどんぶり1杯ほど。1年分の備蓄になるんじゃなかろうか。


2021.10.31(日)雨 オンブバッタの生活圏

オンブバッタ

朝、毎度の観察で交尾しているオンブバッタを見つけた。わりと大型のメスと極めて小さいオスのコンビだ。両者とももうぼろぼろだ。特にオスには噛傷とおぼしき跡もある。平坦ではない一夏を過ごしてきたのだ。

今年はたまたま5本脚の褐色型メスがいたために、オンブバッタの生活圏についてのちょいとした知見を得た。あの個体で観察する限り、オンブバッタが生涯に移動する範囲は半径4m未満、面積にしてせいぜい20平方メートル程度と推察できる。それがわが家にオンブバッタが多い最大の要因であると思いついた。この20年あまり、昨日までは多食のたくましさがオンブバッタ繁栄の最大要因だと思ってきた。

他のバッタ類は数年に1度見かける程度だが、オンブバッタに限っては毎年米粒大の幼虫がわらわらわいて庭の各種雑草を食い荒らす。スイレン鉢にアサザを植えればどうやってか到達して穴だらけにする。プランターで大葉を栽培すればいい感じの食べ頃の葉を人より先に食っている。それでも害虫のレッテルは貼られない。間違って野菜と一緒に取り込んだりすると、丁重に窓から投げ捨て庭に帰っていただいている。

日当たりが悪いわが家の庭でオンブバッタが見つかるのは南側の草むらと壁に限られている。思い起こせば北側の草に止まっているオンブバッタを見た記憶がなく、南の道路を歩いているものを見たこともない。

都市の住宅地では移動は虫が生き残るためのデメリットになる。トンボやチョウのように飛翔力が大きいものは、いい場所ですてきな彼女を見つけるチャンスが増えるかもしれない。半端にしか動けない者は思いも寄らぬトラブルに遭遇することになる。ヘビもカエルもトカゲもタヌキも危ない。そもそもどれほどの幸運に恵まれようと彼らの行き先に楽園はない。

バッタ系の虫はトノサマバッタを筆頭に動くものが多い。川辺の草むらを歩くとショウリョウバッタがキチキチ鳴いて四方に飛び立つ。オンブバッタは飛ばない。ジャンプ力もバッタの中では下の部類、鈍重なバッタである。自転車による轢死体はトノサマバッタ、ショウリョウバッタが主だ。オンブバッタは数が多いわりに轢死体が少ない。

コオロギですらけっこう移動するものだ。わが家で鳴き声を聞くエンマコオロギは少なくとも50mは移動して来ているはずである。鳴き頃から判断するに夏から秋にかけて庭を一筋に移動する。北から来たエンマコオロギは南へ回って庭から離れることが多い。エンマコオロギには定住して欲しいと願っているが、かなわぬ夢かもしれない。

コオロギ類ではカネタタキがたるを知っているのではないかと思う。ちょうど終戦記念日あたりから鳴き始め、今朝も鳴いている。この20年あまりずっと西の隣家の植木で鳴き声を聞く。夏から秋までおおむね同じ木だ。わが家の木々には好みでないのかぜんぜんやってこない。


2021.11.5(金)晴れ ヒトスジシマカ

ヒトスジシマカ

2階のこの部屋でヒトスジシマカに血を吸われるのは珍しい。パソコン作業に集中している間にやられてしまった。左手の甲に違和感を感じたときにはたんまり血を飲んだ後らしく、すぐにふわっと飛んで窓に止まった。これ幸いとTG-5で撮ったのが今日の写真だ。

ヒトスジシマカたちは私からなら基本血は吸い放題である。おおむね庭で撮影をしていときにやられる。両手はふさがっているから蚊をおいはらえない。余裕があれば手のあたりに来ているやつなら息を吹きかける。できることはその程度だ。たたきつぶせるのは100のうちで1ぐらいだろう。

蚊はメスしか血を吸わないというし、血を吸わなければ産卵できないらしい。こいつもこれで産卵に向けた第1ハードルを越えたことになる。窓をあけると元気に飛んでいった。


2021.11.6(土)晴れ ササガヤの禾

ササガヤ

クロナガアリはイネ科の種が好きなんだろう。私のクロナガアリは水稲もセイバンモロコシもうれしそうに運んでいく。主食になっているのは写真のササガヤだ。庭では日当たりの関係でササガヤが優勢になっているからだ。

種にはもれなくヒゲが1つずつついている。このヒゲは禾とよばれるものだと思う。どうってことないように見えるけれど、この禾がちょっとくせ者だ。この写真ではわからないぐらいの反しがついているようで、アリが運んでいるとよくひっかかるのだ。

禾がひっかかって苦闘する様は被写体として歓迎だが、アリにとっては迷惑だろう。ときには運搬をあきらめることだってある。

ササガヤのほうでもアリへの嫌がらせとして禾を作っているわけではあるまい。たまたま運搬をあきらめられた種が芽を出せばササガヤのもくろみ通りということにはなろう。たいていは別の働きアリが見つけて巣に運んでしまうみたいだけど。

ササガヤ

反しもセンダングサぐらいしっかりしていると、私にも迷惑になる。サイクリングで草むらを歩いたり座ったりすることが多いから、全身にこの種がひっついている。下手にはがそうとするとちょっと痛かったりする。

センダングサのほうも私にひっつくのは想定外だろう。払い落とされることは滅多になく、洗濯機でぐるぐる回され下水として流れて行くのが落ちだから。


2021.11.7(日)くもりときどき晴れ センダングサの反し

センダングサ

センダングサの種には今日もずいぶんやられた。注意して避けてるつもりでもいつのまにか100個ぐらいはついている。種の二股になっているところには鋭いトゲが反しとなってついている。この反しのせいで私の衣類にセンダングサの種がつきまくる。

そしてこいつにはもう一段巧妙な仕掛けがある。種本体の皮についている反しだ。二股の反しよりも短い。この反しの向きは二股のとは逆になっている。反対向きということは、この反しがあることで私の衣類についた種がはずれやすくなっているのだ。

自然状態ではいったん獣にしっかりついた種が、ある程度運ばれたあと、なにかに擦れて落ちるのだろう。こういう仕掛けをみつけてるもんでセンダングサの種を憎からず思っている。


2021.11.10(水)晴れ クロナガアリの渋滞

クロナガアリ

昨夜から今朝にかけて寒冷前線が通過した。日が昇るとヒマラヤスギに残った水滴が赤や黄色に輝いてきれいだった。庭も風雨の影響を受けた。枝が折れるところまでは行かなかったけれど、ジューンベリーの葉が目に見えて少なくなっている。

さて私の虫たちはどうしているかと庭に出てみると、クロナガアリの巣口で渋滞が起きている。働きアリは頻繁にササガヤの種を運んで来るがすんなりとは巣に入らない。何らかの障害が発生しているようだ。出入りができないほどではないものの、出るアリ入るアリが密集しスムーズに行かない。

巣口の回りにはけっこうな数のササガヤの種が散乱している。搬入をあきらめた種だろう。しばらく前には種集めをしてきた働きアリが巣に入れない状態になっていたもようだ。雨の影響で巣口がふさがっただけとは思えない。

ジョウロウグモの方に目をやると、巣にかかった落ち葉が強風に揺れている。その葉にジョロウグモがとりついている。どうやら葉を捨てるようだ。

私はこれまでジョロウグモは巣にかかった落ち葉を一定の条件で残したり捨てたりすると推測してきた。ただ、捨てるところをしっかり観察したことがなかった。

ジョウロウグモは落ち葉にかかっている糸を切っているようだ。切るのは口だ。しなやかで丈夫な糸をどうやって切るのだろう。残念ながらその技をはっきり見ることができない。酵素のようなもので切断できるのか。1本切ると落ち葉は少し落ちる。まだ巣からは落ちない。まだ糸がかかっている。ジョロウグモは3回糸を切って落ち葉の落下を確認して、巣の補修作業に移った。

その隣ではいくぶん小さなジョロウグモがクサカゲロウをゲットしていた。こいつの糸には落ち葉がたくさんかかっている。掃除よりもまず食事という意識なんだろう。さあ明日には落ち葉を撤去しているかどうか。


2021.11.11(木)晴れ 渋滞の理由

クロナガアリ

今朝も相変わらずクロナガアリの巣口にはササガヤの種が散乱している。やはり何か妙だ。もし一昨日の風雨によって巣口が崩壊したのが原因ならもう復旧しているころだ。さらに巣口が壊れているなら地上活動はままならないはずだ。多数の働きアリが地上に出てから巣口が閉ざされる可能性は低い。どうやら渋滞という判断は誤りだったようだ。いったい何が起きているのか少し時間をかけて観察することにした。

働きアリはひっきりなしに種を運んでくる。その中には巣口に種をおいて去っていくものがある。この写真のミズヒキの種を運んで来た働きアリも巣口から3cmばかり離れた所に種を置いて転回していった。その種をおろす様子はごく自然だ。にっちもさっちもいかなくてあきらめる姿はよく見るが、そのときのようなトラブル感は皆無だ。

それは特殊な例かと、運び具合をみれば、種を置いて引き返す者がかなりいる。もちろん巣内に種を運び込む者もいる。両者は半々ぐらいな感じだ。さらには巣の中からササガヤのヒゲを引っ張って種を巣の中に引き込むものもいる。巣口に種が山積みになっているのはトラブルではないようだ。

まるで巣の中にある食料貯蔵庫のようだ、と思ってぎくっとした。まさしく本物の食料貯蔵庫なのだ。やつらはいったん巣口に種を貯め置いて収穫と搬入の分業を行っているのだと気づいた。観察事実がそうなっている。ではなぜこの分業が起きたのか。

仮説は立てられる。いまササガヤの収穫は最盛期だ。種は一斉に熟し折からの風雨でたくさん落ちている。気温も高い。となると収穫組は休むひまもない大活躍だ。収穫物はいったん巣口に貯め、搬入組に託すほうが効率的だ。ササガヤの種はひげがひっかかる。巣の中に前向きに入れるか、後ろ向きに入れるか、判断を迫られることもある。そんなことをしていると他のやつとぶつかってしまう。巣の狭い通路でのすれ違いは煩わしいだろう。

人が考えればそれは合理的な分業だとわかる。しかしアリは自分たちの活動に合理性など求めはしない。分業体制のスイッチを入れた極めて単純なサムシングXがあるはずだ。

私はそれを渋滞そのものではないかと推測する。収穫最適日を迎え、種を収穫した働きアリが巣口に殺到する。その密集が「種を置いていけ」という指示の発令になったのではないだろうか。巣の中の貯蔵庫には種が密集している。彼らの収穫作業の終点が、種がたくさんある場所に運んできた種を加えることだというならどうだろう。巣口に種がわらわらと集まってれば、それが偶然であってもそこが貯蔵庫として認知されるのではあるまいか。


2021.11.12(金)晴れ 平常に戻る

クロナガアリ

今朝のクロナガアリはすっかり平常に戻っていた。巣の近くに積まれていた種はすっかりなくなって丸い巣口が見えるようになった。働きアリたちはひっきりなしにササガヤの種を運び込んでいる。

きっと昨日のうちに種は巣内に運び込まれたのだろう。そして入り口がすっきりして運んできた種を巣の前に貯める者がいなくなったのだ。

すっきりしたといえば、10日にクサカゲロウをゲットしたジョロウグモの巣もすっきりした。10日には巣に5〜6枚の葉がかかっていた。早晩撤去するだろうと踏んでいたが、11日は残り1枚になって、今朝には全部なくなっていた。

ジョロウグモはいくらか巣にゴミを残し背中に背負う感じにするもののはずだが、こいつは完全に撤去した。かかる葉が大きいと好みに合わないのかもしれない。


2021.11.14(日)晴れ 晩秋の相模川

柿

ナカガワに乗って相模川下流から中流域河川の旅。この秋はまだ寒波が来ていない。草むらからエンマコオロギの声がするし、カネタタキも鳴いている。モンシロチョウやキチョウもちらほら飛んでいる。カラムシがまだ夏の姿をしているのは冷え込みがない証拠だ。さすがにセミの声は聞けない。アブラゼミの最終確認は10月23日の轢死体か。平年並みだ。

相模川の土手の虫は境川と大差ない。ただ今日は境川で見た覚えがないアオオサムシがいた。相模川のグリーンロードなるガタガタ道を走っていて黒い轢死体を見とめた。腹を上にしてつぶれている虫だ。クロゴキブリだろうといったんは見送ったものの、甲虫感がそれなりにあったから引き返した。アオオサムシはこの辺の峠道では普通に見かける虫。だけど相模川の下流は生息地っぽくない。相模川ではマイマイカブリも見つけている。油断できないぞ、相模川下流域。

相模川から中津川に入って鳶尾山を越えて荻野川へ。すっかり葉を落とした柿の木にちょっとだけ柿が残っている。秋が終わるんだなと思う。川沿いを走って嫌でも目に入ってくるのが荻の穂。太陽に光ってきれいだ。荻はススキと似てるもんだから、ちょっとした神経衰弱を起こしてしまう。背の低いのはさて荻かススキか。高いところに葉がついているのは荻のような気がする。

ぽつぽつ荒起こしをしている田を見かける。いつもの田が荒起こしをやっているなら土をわけてもらおうと境川によった。今年は冬のうちに田んぼ水槽を屋内セットしてみようと目論んでいる。今年の田んぼ水槽は直射日光の照射時間が長い所に置いてみた。キカシグサ系の雑草ばかりが繁茂して、マツバイが少なかった。コケ的なやつも多かった。次はちょっと変わったことをしてみたい。立ち寄った境川の田は作業日ではなかった。スルーだ。


2021.11.20(土)晴れ 今日も相模川

ベニシジミ

今日も相模川。ウィリエールで出かける。じつは昨日も相模川を走った。この秋は相模川ばっかりだ。境川はうっとおしいことが多くて嫌になっているところに相模川が練習にいいとわかった。3kmぐらい気兼ねなくペダリングに集中できるのがありがたい。ちょっとした向かい風が吹けば腕を上げるための練習ができる。

昨日は遊びすぎて日暮れになってしまった。晴れていても4時半にはもう暗い。虫がいてもいい記録ができない。イタドリが咲いているのを見つけたけれど撮影はあきらめた。今日は忘れずに午前中に撮っておいた。

イタドリを撮っていると私も撮れとベニシジミが割り込んできた。ぼろぼろですっかりやり切った感じだ。この秋はまだ寒波が来ていないためか、イタドリやムラサキツメクサが咲いて、チョウが飛び交っている。シジミチョウはぼろぼろのが多いけれど、モンシロチョウやキチョウはきれいで羽化間もない感じだ。草むらから車道にトノサマバッタが飛んでくる。かすかながらエンマコオロギもカネタタキも聞こえる。

あさってには低気圧が通過して雨のあと一気に寒くなるという予報だ。相模川の風景がいっぺんに変わるかもしれない。


2021.11.27(土)晴れ 冬雲

冬雲

今日もウィリエールで相模川。向かい風練習だ。ただし体力増強ではなくあくまで向かい風をうまく乗りこなす練習だ。風に乗ったりやり過ごしたり戦ったりするのは自転車の醍醐味。川好きを自認する自転車乗りは向かい風が好きでなくてはならない。

わりと本格的な冬型の気圧配置になって寒気が入っている。北日本のほうではけっこうな雪になった。相模川の河口付近から上空の雲をみれば、かなりの速度で東に流れている。積雲のあるあたりは西北西の風が強いようだ。相模川の土手では風は北寄りでときに東寄りになっている。上空の空気の流れとは別の要因があるらしい。相模川には丹沢があり相模湾がある。

写真の雲は風に乱れて毛羽立ちながら成長している。今季はじめて見る冬雲だ。


2021.11.28(日)晴れ ビデオ撮影

クロスズメバチ

まさに小春という陽気になった。やはり今日もウィルエールで相模川。昼飯はコンビニおにぎり。おもえばこの10数年、週2のペースでコンビニおにぎりを昼食にしている。良く飽きないものだ。

ちょっとだけ北寄りの風が吹いているから風よけになる南西向き斜面に座った。昨日草刈りが終わった土手の草むらだ。日だまりになって虫がたくさんいる。チョウが多い。赤とんぼもいる。ツマグロヒョウモンとかヒメアカタテハはサービスたっぷりでいろいろ撮影させてくれた。翅がぼろぼろのベニシジミが元気いっぱいだ。他のチョウ近づくとしきりに追飛している。こいつにはシャッターチャンスがない。

なんだかまわりが騒がしい。そこいらを蜂がぶんぶん飛び回っている。セイタカアワダチソウの花は終わっているぞ。いったいなにごとかと探ればすぐにその巣口が見つかった。地面に大きな穴が開けられ蜂が次から次に飛び立ってくる。どうもクロスズメバチのようだ。

というわけで撮ったのが今日の写真。このカットでは蜂たちの活気が写っていない。被写体ブレが味になってない。この結果は予想できた。

クロスズメバチはヘビの死体に来ているところなんかを見ているが、巣を発見したのははじめてだ。千載一遇のチャンスに写真では不十分。ここはビデオだろう。というわけでTG-5のビデオモードを使う。この数年で3回ぐらいしかビデオ撮影はしてない。やりかたを思い出しつつ30秒ほどのカットを撮った。

私はビデオの撮影編集はプロ級の腕前を持っている。でもその力は死蔵している。写真をレタッチしているMacは非力でビデオの再生すらできない。スマホで撮ればよかったと気づいても後の祭り。ひとまずTG-5で撮った30秒のカットをグーグルドライブに上げてスマホでチェック。ビデオで見ると飛び立つ蜂には泥をくわえているのもいる。この晩秋に元気いっぱいだ。クロスズメバチは地蜂だからクロナガアリみたいに巣を何年も維持して通年活動するのだろうか。動画は虫の記録にいいな。いろいろわずらわしいけど。


2021.11.30(火)晴れのちくもり 初冬のジョロウグモ

ジョロウグモ

いま庭にいるジョロウグモは3頭である。オスたちはとうの昔に姿を消して、残るのはメスばかりだ。

今朝は一番成長のいいメスがワタアブラムシを食べていた。

ジョロウグモ

もしや昨日かかったあのアブラムシかなと思ったが、昨日のは同じ姿勢でそのままの場所にいた。

餌のとぼしい季節である。こいつはなぜ見逃されたのだろう。

ジョロウグモ

巣はぼろぼろで穴だらけだ。巣の修繕に余念のないジョロウグモだけに、体力気力の衰えを感じてしまう。

このメスはまだ卵を産んでいない。成長は悪くない方だから産卵にこぎつけることもできるだろう。

ジョロウグモ

いっぽうこちらは一番成長が悪いメス。巣をかけた場所が悪かったのだろうか、毎朝の観察で何かを食べているところをほとんどみていない。そして昨日まで2日ばかり留守だった。産卵は無理だろうから、落ちたのだろうと思っていた。

しかし復帰したとなるともしやこの体で産卵したのだろうか。留守の間に崩壊していた巣をいくぶんか修復している。


2021.12.3(金)晴れ フユシャクを探す

久田の森

フユシャクを見るのに一番手軽なのは初冬の短期間に出てくる白っぽいやつだ。あいつを見ないで冬を迎えるのはちょっと寂しいから、探してみることにした。

私のフユシャクポイントは鳶尾山だ。最も近くて確実なのが鳶尾山だ。南北に延びる小高い峰の西側でも東側でも群れ飛ぶ感じでフユシャクを見ている。しかし今日はそこまでの時間がない。境川の林でなんとかしてみようと思った。

フユシャクはかつて私の家にも飛んできたぐらい普通の虫だが、群れ飛ぶのはそれなりにいい林があるところだけだ。境川にある林をいくつかめぐってみた。残念ながらフユシャクには出会えず、最後に探ったのが写真の久田の森だ。その林は自転車でも入っていかれる。

久田の森というけっこうな名称がついて看板が設置されているところをみれば、大昔に境川が削った崖の林が保存されているのだろう。境川の近辺は宅地開発が盛んで段丘崖ですら削ったり固めたりして宅地になっている。

久田の森はいい雰囲気の散歩道だけど、目当てのフユシャクはいなかった。


2021.12.4(土)晴れ 水中スイバ

目久尻川

目久尻川に水中スイバ(ギシギシ)を見に行った。岸近くに2つこんもりとあるのが水中スイバだ。スイバはなんらかの条件がそろえば水中で芽吹いて成長できるはずだ。その一例がこれかもしれない。

水中スイバが気になったのはもう20年以上前のことになる。愛媛県の保内町(現在は八幡浜市)川之石の水路でアマゾンソードプラントみたいな水草を見つけたのが端緒である。アマゾンソードプラントが田んぼの水路に生えるわけもなく、それはスイバ(ギシギシ)だろうと思った。以来水中スイバがありそうな所はマメにチェックしているのだ。

川之石以降でまちがいなく水中スイバだと断言できる株は2015年の10月に静岡県の柿田川で見た。じつは他の河川では見ていない。水中に根を下ろし水上に葉を広げる株は東京でも神奈川でも見ている。境川では護岸の鉄板の隙間についた株が水中に根を広げて水栽培のようになっているものもあった。

スイバ

目久尻川でこれらの水中スイバを見つけたのは、11月11日のことだ。写真のように川岸ぎりぎりだけど、半水中で育っている。先の写真の画面右手の株だ。同様の株はこれら以外にも数本見つかった。すごいぞ目久尻川!これは定点観測必須だと思った。

目久尻川は見かけは住宅地を流れるコンクリ護岸の水路でしかない。しかし捨てたものではない。あきれるほど水が澄んでいるのだ。水源はこの写真の場所から1kmほど上流にあるのだと思う。豊富な湧水が源のはずだ。生活排水も雨水も流れ込むけれど、源泉はそれを補うだけの水量がある。

水中スイバは川之石の用水路や柿田川のように湧水の流れでしか育たないと思う。通常の河川ではそれらしいものが見あたらない。

神奈川では1日の深夜から未明にかけて激しい雷雨があった。境川では越流堤を越えて遊水地が水浸しになった。目久尻川は流域が狭く流入河川もないけれど住宅地の雨水は入ってくる。けっこう増水したはずだ。それで今日は足を運んでチェックしてきた。

どこの川でも岸辺にスイバは多い。目久尻川にもたくさんある。そのスイバが濁流に押し流されて下流にひっかかり根を下ろすかもしれない。そうして見かけ上の水中スイバになっているのかもしれないのだ。

スイバ

この写真のように流下したスイバがひっかかっているように見えるものもいくつかあった。あたりをつけた最初の写真の2株(3つ以上かもしれない)は11月11日の写真と見比べると大きな変化はなかった。しっかり根付いているとみえる。人為的な事故にあわない限り天寿をまっとうしてくれると思う。

目久尻川に水中スイバありと断定するにはさらなる観察が必要だろう。完全に実生と断定できる小株が水の中に葉を広げていればOKである。目久尻川は地元であるから観察が容易だ。コンクリ護岸でも無理すれば水に入れる。静岡の柿田川はちと遠く、管理が厳しくて流れに入らせてもらえなかった。


2021.12.6(月)くもり TG-5でアリを撮る

クロナガアリ

TG-5は万能カメラだ。私が撮りたいものは全部撮れる。ただし、万能なだけに専用機材には劣る。庭のクロナガアリには専用機材としてNikon D300sスーパーマクロがある。スーパーマクロに匹敵する機材はたぶんこの世にない。じゃあTG-5でクロナガアリを撮ったらどうなるかというのがこの写真。

一番重視しなければならないのは、アリをアップにできるかどうか。その点はTG-5なら問題ない。この写真はトリミングしてない。スーパーマクロに迫るサイズ感だ。つぎにピントが合うかどうか。これはTG-5には難しい。オートだと絶対に後ピンになる。シャッター半押しでほんのちょっとカメラをずらして押し込むなんていう職人芸が必須だ。またはマニュアルモードでがんばるか。いずれにしてもNGカット量産は免れない。次はシャッターチャンスを逃さないこと。TG-5は絶望的だ。コンデジなんだからしかたないと思う。そのうちプロキャプチャーなんていつ撮ったかわからないものじゃなく、デフォルトで押した瞬間が写ってるように進化するはずだが、今はだめだ。

画質は悪い。TG-5では絞ってもそれほどいい効果はないとわかっているから、できるかぎりの開放にしている。シャッタースピード重視だ。12月のクロナガアリは動きが遅くてなんとかなっているけれど、アップのアリは途方もなく早く動くからシャッターはできるだけ速くしたい。またISOも増感ギリギリの5000で色が出ず画面がざらざらになる。ビューティ被写体には無理な設定だ。今日は曇天で暗いということもあるが、庭はいつだって日影だ。高曇りならもうちょっとましかもしれない。

クロナガアリ

TG-5に庭のクロナガアリは荷が重い。D300sで撮ったこちらの写真は一味違う。ただしこれは掛け値なしに庭のクロナガアリ専用だ。持ち運ぶことは全くできない。どのみち「手が届く平らな所にいて逃げない5mmの被写体」以外には無力だ。

スーパーマクロは何世代も前のカメラ、ストロボ、レンズの寄せ集めで安上がりで必要十分な性能がある。無論これがクロナガアリを撮るのに最高のカメラだとは思っていない。私の目が黒いうちに到達できる最終形態は予想がついている。本体はスマホに内蔵されているのと同等のカメラでレンズが硬性内視鏡のものだ。一番ワイドなやつだとレンズ前1mmから無限遠までピントが来て高感度でストロボも不要、影を嫌うならレンズに付属のLEDが光る。レンズの直径は7mmほどだからクロナガアリでも真横から撮れる。田んぼにいるミジンコだってレンズそのままじゃぶんでOK。レンズこそ15cmと長いものの本体のサイズはTG-5の半分である。サイクリングのついでにTG-5といっしょに運ぶのも可だ。基本的なパーツはできているはずで、そんなカメラが市販される可能性はある。

日本では私の推計で100万人が虫を撮りたいと思っている。みんな小型のアリなんかがチャーミングに写らなくてがっかりしている。虫に特化したカメラなんてオリンパスやニコンでは無理だろう。だが、最近はメイドインチャイナに素敵な機器がある。中国の攻勢に期待したい。10万円なら跳びついて買う。20万円なら3日考えてから買う。100万円なら信頼できるプロの評価を見てから買う。


2021.12.7(火)くもり 目久尻川

航空写真

目久尻川がどんな川かを知るには、人の手の加わっていないときの川の姿を見る必要がある。日本には幸いなことに国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスがあって巨大なデータベースにある航空写真を閲覧&ダウンロードできる。この写真は戦後まもなく米軍が撮影したものだ。現在住宅や工場になっているところは田んぼだったらしい。一部畑のように見えるところもある。戦前からしっかり開発された地域なのだ。

その当時の目久尻川の流れを青線で示した。現在とその流れは変わっていない。この航空写真を読み解けば、源流は現在相武台病院が建てられているあたりということがわかる。田んぼの中に忽然とわき出す地下水でできる河川ということは確かだ。

目久尻川の地学的形成過程は明らかになっていることと思う。そこまで調べる興味はないけれど、目久尻川は平野を釘でひっかいたような流れであるから、一風変わった物語を持っているだろう。その昔海底だったところが海退によって平野になり、そこにわき出す水が川を作ったとか、もともと谷川だった目久尻川に火山灰が降り積もって平野の川になったとか。リアス式海岸の奥の中山間地で育った身には珍しいしろものだ。

そういう経緯はともかく、目久尻川の水は西のほうの南北に連なる丘から来ているものと思う。この写真にはその丘にある米軍基地がちょっとだけ写っている。相武台病院の割れ目から吹き出しているのはその丘の不透水層を流れてきた水だ。丘の西側には番神水という湧き水もある。あれは目久尻川の姉妹だろう。

このほかの航空写真とあわせてみても、源流から水中スイバがあるあたりまで水は伏流水で供給されていることがわかる。目久尻川は現状で源流付近はヘドロとユレモの残念な流れになっている。生活排水流入と暗渠部分が多いのが原因だろう。それでも水自体は澄んでおり、この写真の下3分の1ぐらいはあきれるほどきれいだ。水中スイバの自生地は写真の下少しだけ見切れたところにある。


2021.12.8(水)雨 12月の雨のクロナガアリ

クロナガアリ

雨は夜半には本降りだった。風もかなり吹いていた。残り1頭のジョロウグモはどうしているかと気になる。朝には小降り。いつもの観察だ。庭にでるとポツポツと雨粒が体にあたる。心配したジョロウグモはいたって平静だった。頭を下にして巣に定位する姿はいつもと変わらない。

12月の雨にしては落ちてくる雨粒があたたかい。クロナガアリはと巣口を見れば、数頭の働きアリがうごめいている。巣口は壊されてなかった。この天気ならクロナガアリは普通に活動するはずと、スーパーマクロで撮影することにした。狙いは雨でもがんばるクロナガアリ。

土に落ちた雨粒は直径2cmほどの浸みをつける。いつも土下座してアリをねらっている範囲には5秒に1滴ほどが落ちる。その程度の降りならクロナガアリは意に介さないようだ。わらわらと巣口を出入りしている。泥を咥えているものがあり、種を運び込むものもいる。ときにあわてて巣に入って行くものがいる。もしかしたら雨粒の不意打ちを受けたやつかもしれない。

雨粒の直撃ぐらいでクロナガアリはへこたれない。写真のアリは雨粒に打たれて全身に滴がついた。ちょっと迷惑そうに頭の水滴をはらって種探しに行った。


2021.12.10(金)くもり 引地川

引地川

引地川に行ってきた。無論水中スイバ(ギシギシ)探しだ。引地川は目久尻川と同じく湧水河川だ。目久尻川に比べて水はじゃっかん濁っているものの水量は多い。

川を覗くと目久尻川同様に水中スイバらしきものがたくさん見つかる。いずれも根を水底に張って空中に葉を出しているものだ。おもうにスイバ(ギシギシ)が実生で河床に根付くのは難しいはずだ。発芽はするけれど、水面が遠いとしっかり育つことができないのではなかろうか。100株ばかり半水中スイバをみてそんな感じがした。

ともあれ引地川も目久尻川に劣らず優良河川であることはわかった。それに今日は思わぬ収穫があった。水中に葉を広げているヨシだ。以前、引地川の支流にあたる蓼川で、イネ科と思われる2種の水草を見つけた。葉の広い方がミクリではないかと狂喜したのだが、あれはどうもヨシではないかという気がしてきた。そもそもミクリはこの辺では希少種らしい。

引地川は大和市民に親しい川だ。その源流部が泉の森という散歩コースになっている。今日はちょっと足を伸ばして泉の森にも寄った。名物の巨大水車に各種雑草が生えてぐるぐる回っているのが笑みを誘う。その水車のすぐ下の浅瀬に完全に水没しているスイバ(ギシギシ)とおぼしき草があった。ただし100%断言できるものではない。小さい株を断定するには手にとらねばならない。多少形が悪くてもスイバならかじればわかるだろう。しかし、泉の森は動植物採集禁止だ。

私が探しているのは結局そういう対象だ。どうやら足繁く泉の森に通う必要があると思った。よくよく考えてみれば泉の森は湧水に近づける希有な場所だ。引地川や目久尻川でそれらしいものを見つけても欲求不満がつのりそうだ。垂直のコンクリ壁をたどって河原に降りるのは難しい。


2021.12.12(日)晴れ 目久尻川源流

目久尻川源流

今日も相模川へ。群青で出かける。ものすごい陽気だ。湘南はいつまで秋をひっぱるのだろう。

フユシャクを1匹しか見ていないのが少々心残り。荻野川の上荻野小学校の裏山でもけっこう見たことがある。寄ってみたがまったく気配がなかった。ヤマトシジミがいたので撮ってやろうとTG-5の電源を入れようとすると電池切れのアラート。かえってラッキー、フユシャクがいなくて幸いだったと前向きに考えることにした。電池が切れるほど撮影した覚えはないが、クロスズメバチを連写で撮ったのが効いたのかもしれない。巣から飛び立つ勇姿を撮ってやろうと少し粘ったのだ。うまく撮れているようでもデジカメの悪い癖で翅がゆがんだカットばかりだった。

帰りにふと思い立って目久尻川の源流を訪ねてみた。目久尻川は相武台東小学校あたりからは暗渠が多い。流れが見えるところもすごいことになっている。よくぞこんな所を開発したものだと感心してしまう。

写真中央の一番低い場所がかつて伏流水がわき出していたと思われる所だ。古い航空写真や地図を参照してあぶりだした。この辺に川とか泉とかの気配は皆無だが、なんでこんな所に遊水地?というコンクリートプールが2つばかりあった。目久尻川の暗渠は雨水をさばききれなくなる恐れがあるのだろう。一帯のぼこぼこの地形からしてもかつてはかなりの量の湧き水とそれに伴う泉があったようだ。田畑として開発される前はとてつもなく美しい所だったろう。

またここには第29分区流量計現場計器板というものが設置されている。それが何者か正体は不明だけど、目久尻川にわき出してくる流れをリアルタイムで計測しているものだと信じたい。メーターをみれば毎時100トンほどの流れだ。目久尻川の水量ぐらいになる。


2021.12.13(日)晴れ 引地川源流

水車

今日ぐらいの冷え込みならクロナガアリはひるまない。動きこそ遅いものの地上活動は続いている。しばらく観察していると、真っ白なものを咥えて巣から出てきたものがいる。なんだろう?と撮影して確認したところ、種の中身のようだ。

おそらくはセイバンモロコシの胚乳ではないかと思う。皮をむいて食べる部分だ。それをゴミとして捨てに出てきたようだ。しばらく観察してみたがかなり遠くまで運んでも捨てる様子がなかった。もしかしたら幼虫部屋あたりに運ぼうとして道を誤り自分を見失っているのかもしれない。

午後遅くに泉の森にリベンジに行ってきた。10日に訪れたときにシマアメンボがたくさんいた。撮影を試みたが、TGー5ではなんともならなかった。水面を滑るアメンボをパシッと写しとめるのは不可能だと思った。数打ちゃ当たるかもしれないけれど、私のやり方ではないという無駄な信念があったりする。

それで今日はタムキューのD700を持っていった。ついでに水車も撮った。各種雑草が生え放題でぐるぐる回っているのが愉快だからだ。これも謎の草の一種ということにしよう。普通は掃除しそうなものだが、ずいぶんな期間放置されている。泉の森には雑草愛の深いスタッフがいるらしい。

ちなみに10日に発見した水中スイバかもしれない草は影も形もなかった。こちらは駆除されたようだ。


2021.12.15(水)晴れ モンシロチョウに教わる

タンポポ

やはり今日も小春。もうちょっとましな自転車乗りになるべくウィリエールで出かける。荻野川の湧水もちょっとチェックかなと立ち寄るとモンシロチョウが飛んでいる。それも1匹ではない。セイヨウカラシナが咲き誇る斜面を飛び回って2匹がからんだりしている。花の蜜はそれほど良いものがないのか、あまり花にとまらない。なにか背の低い花に降りたったと注意すると、それは白花のタンポポだった。このへんで白花とは珍しい。

12月にタンポポに来ているモンシロチョウっていう写真は撮りたいけれど場所が悪い。崖の斜面で鉄柵を乗り越えて登らなければならない。ひとまずモンシロチョウを見た記念に遠目からワンカット撮ってその場を離れた。

いい自転車乗りになるには練習しかない。私なりに最速理論は持っている。やり方は理論上明白で30秒程度ならその方法で走ることができる。しかし走り続けることができない。それは体力問題ではなく技術問題だ。そこまでわかっているなら腕を磨けばいい。1000時間の練習後にもっとましな自転車乗りになっているかもしれないのだから。

ホームコースとなった相模川流域をぐるぐる回って、さあ帰ろうと荻野川べりを走っていると午前中のタンポポのことを思い出した。子どもの頃、タンポポといえば白花だった。50年前の八幡浜市で黄色いタンポポを見た覚えがない。こちらでは逆に白花のほうが珍しい。それなりに注意すれば見つかる程度だ。思い起こせばこっちで最初に白花を見つけたのは30年ほど前、多摩川べりだった。

そういうことをいろいろ考えながら走っているとドキッとした。小春の陽気が続いているとはいえ12月。タンポポが咲くのは春爛漫のひとときだ。夏にも冬にも咲くのは帰化種のセイヨウタンポポのほうだ。私の知識では白い花を咲かせるタンポポは在来種である。セイヨウタンポポに白花はないはずだった。じゃあ、あいつは何者だ?

そこに気づいて湧水の斜面にもう一度立ち寄ることにした。幸い西日が斜面を明るく照らしている。タンポポはまだ閉じていまい。階段の下に自転車を置いて崖を登り白花のタンポポを探した。それは記憶通りの所にちゃんとあった。すぐに2株が見つかった。近くに黄色いタンポポはなかった。

在来のタンポポとセイヨウタンポポを見分けるポイントは花の下の総苞片というのが定説だ。それは写真のように反り返りセイヨウタンポポの特徴を示している。ではセイヨウタンポポにも白花が現れたのか、在来のタンポポとの交配があったのか、白花のある新参者が入っているのか?いろいろな疑問符が明滅をはじめた。

ここに白花のタンポポがあることを教えてくれたのは白翅のモンシロチョウだ。そのことも思い出して見渡したけれど見つからない。16時ともなればお休みタイムだろうか。今は一年で一番日没が早い12月だ。


2021.12.17(金)雨のち晴れ 目久尻川の水中スイバ

スイバ

昨日の夜から降った雨で目久尻川は増水し濁っていた。ただ水中スイバ(ギシギシ)の探索に支障をきたすほどではない。フラペ仕様のTNIをゆるゆると走らせながらひたすら川を覗き込んでスイバを探す。

探索をはじめて2時間、川沿いの散歩道を自転車を押し歩きつつ対岸を見れば目あての水中スイバらしきものがある。ガードレールと鉄柵を乗り越えれば河原に降りられそうだ。目久尻川には何の目的かコンクリの護岸に鉄製の梯子が何百メートルかおきに埋め込まれている。運良く水中スイバがある河原に鉄梯子がかかっている。

目久尻川の護岸はそれほど高くない。怪我を覚悟すれば降りられるが登ることはできない。ロッククライミングは得意だけどコンクリに手がかりがないのだ。所々に設置されている鉄梯子まで川をじゃぶじゃぶ歩くしかない。今日のはそれぐらいの労をかける価値はあった。

見つけたのは写真のスイバ(ギシギシ)だ。写真にあるように、根付近の砂利が流され白い根が露出している。昨夜からの増水の影響かなと思う。念のために引っ張ってみれば、根はしっかり張られていることがわかった。葉はぼろぼろで生育環境がよくないこともわかる。こいつはこのまま育ってくれるだろうか。

陸上生活が本職のスイバのことで、生えているのは浅瀬ばかりだ。他の水草に混じっているのも多い。私が探しているスイバは、実生の個体で完全に水没しているものだ。川底に落ちた種から芽吹いたスイバを継続観察したい。

防災上一級河川の目久尻川は私にとっては超一級河川だ。草齢数年と見える立派な半水中スイバがたくさんある。水が澄んで流れが安定していることがスイバが根を下ろす条件だと思っている。目久尻川の水源は主に湧き水で雨水の流入は多くなさそうだ。境川の遊水地が水浸しになるぐらい降っても11月に見つけた水中スイバは無傷だった。自転車なら30分足らずで到達でき、いざとなれば河原に降りて草に触れる。今日も念のために葉をかじって味をたしかめたのは言うまでもない。


2021.12.19(日)晴れ グッジョブ!カルガモ

スイバ

強烈な寒波が来てスイレン鉢は凍り、クロナガアリの巣も霜柱で閉ざされている。だが風は弱く日差しもある。さすがは関東だと、ウィリエールで目久尻川から相模川へ。自転車で走っていてもけっこう暖かい。さすがは湘南だ。仙台、金沢、札幌とそれなりに寒い所で暮らした経験があるのでこっちの暖かさが身に浸みてありがたい。

目久尻川は速やかに増水が引いた。注目度No1の水中スイバ(ギシギシ)をみれば、水の上に葉が出ている(写真の輪内)。場所はカーブの内側にあたり、流れが緩やかになって砂礫が堆積するところだ。人為の攪乱がなければ1年後にはけっこうな株になってくれそうに思う。それにしてもよくこんなものが目に止まったなと自分をほめてやりたい。

スイバ?

じつは目久尻川にはNo2もあった。写真の輪内にある緑の葉だ。撮影は17日。初見で、こいつこそは!と息を飲んだ。こんな状況こそが探し求めているものなのだ。そばに真性水草のカナダモが茂っているということは常時水のある場所だ。おまけに近くにスイバ(ギシギシ)の立派な株がある。

ただし、写真を撮ってチェックすると3〜4枚の常緑樹の落ち葉が寄り合ってスイバに擬態し観察者を欺こうとしているように見えた。ここは護岸を降りるのが厳しいところだ。この程度のことで遠回りをして鉄梯子を下りて川をじゃぶじゃぶ歩くのもはばかれる。ただし正体は知りたい。という小さなジレンマに陥っていたのだ。

落ち葉

2日たった今日、当の場所に立ち寄ると、2羽のカルガモがじゃぶじゃぶがあがあ騒いでいた。何を好きこのんでここで遊ぶかな〜といくぶん機嫌を損ねてカルガモが濁した水を覗いた。そこには写真の状況が展開されていた。

3枚の緑の落ち葉が確認できる(輪内)。やはりぬか喜びだった。スイバだと思ったのは緑の落ち葉だったのだ。たまたまカルガモが引っかき回している所に立ち会って、その正体が明らかになった。これを目撃できないまま水中スイバ?が消えていればいくぶんかのもやもやは残ったに違いない。グッジョブ!カルガモ。


2021.12.25(日)晴れのちくもり 冬の善明川

コイ

相変わらず暖かい日が続く。群青でなんとなく相模川中流域河川めぐりの旅。善明川も大事なチェックポイントである。深みになっている所におびただしい数の魚が群れていた。種名がわかるものではコイ、カワムツ、オイカワ。

特にコイは注目に値する。善明川では養殖鯉の放流は行っていないはずだ。川が小さく狭く浅いからコイには生き地獄だ。放したとたんに中津川へ流下してしまうだろう。今日見つけたコイのサイズはばらばらで小さいものはカワムツ程度のものから、大きいものは放流サイズの半分程度までがそろっている。きっと自然状態で繁殖したのだ。

中津川にコイは多い。相模川水系ではちょっとした河川にはコイが群れる。コイたちにとってよい住処とは思えないけれど、どこかで繁殖はしているようだ。コイの若魚はまれに見つかる。善明川にいるコイは暖かさを求めての遡上組だと思う。冬になっても湧水河川の善明川はけっこう暖かいはずだ。冷たい中津川から善明川に入ってきたのだろう。

アカミミガメ

暖かいといえば、アカミミガメが日なたぼっこをしていた。けっこう寒さに強いカメではあるが、年末に目にすることはあまりない。善明川の水温が高いことがあるかもしれないが、この暖冬傾向のせいだと思う。

アカミミガメのそばに半水中里芋がある。サトイモ科は水を好むが、里芋までが水底に根を下ろしているのにはあきれる。善明川だけでなく目久尻川でも半水中里芋は珍しくない。里芋は冬期には枯れる草だ。しばらく前は皆青々していたが、最近では葉枯が目立つ。水中芋が生き残って春の復活はあるのだろうか。

ともあれ里芋が河川にある原因については思考停止中である。いかなる仮説を立てても検証することは無理っぽい。

善明川はとっても美しい流れだったろう。神奈川の湧水河川がそうだったように、戦後いったん死んでこの30年ぐらいで復活しているという感じだろうか。ただし、この10年ほどは善明川の環境は悪化の一途だと思う。短い小河川とはいえ、農業・工業・住宅からの排水はいくぶんか混じる。冬期にトイプードルの毛のようなもふもふに覆われるのは富栄養のせいだろうか。


2021.12.26(日)晴れ 帯状の雪雲

雪雲

群青で今日も相模川中流域河川めぐりの旅。相模川に出ると、驚いたことに風は緩く南から吹いている。日差しもあって穏やかな日和だ。日本列島には最強寒波が来ているはずなのに、湘南ってやつは例外なのか。

湘南ぱねぇなといつものエノキ前でローソンのコーヒーを飲んでいるとシマヘビが草むらを這っている。

いくらなんでもそりゃないだろう。11月まで花をつけていたイタドリだって紅葉してた。冷え込みの指標にしているカラムシはくちゃくちゃの灰色だった。なんで今日君がここにいるのかね?と問うてもヘビはこたえない。クールでつぶらな瞳で前を見据えている。ヘビにはヘビの都合ってものがあるのかもしれないが、上空を舞うトビに見つかるならともかく、自動車に轢かれでもしたらかわいそうだ。捕獲して河原の草むらに移した。

午後1時頃、相模川の下流で自転車の練習をしていると雪片が舞ってきた。二つ三つとごくわずかだ。空を見上げると帯状に雪雲がつらなっている。その雲から落ちている雪の筋が遠目にもわかった。

雪雲の連なりを追って西に目を移すと富士山がはっきり見えた。丹沢も青黒くそびえている。北西の山岳部は快晴のようだ。雲のはじまりは湘南で雲底は2000mほどと概算できる。その雲が段々低く厚くなって、横浜あたりではけっこうな降りになっているはずだ。

北に移動して座架依橋からもう一度雲を見た。雲の列ははっきり2つが確認できる。丹沢から黒々伸びる雲の長さは100km、幅は5kmといったところだろうか。海に近いほうの雲が先ほど降雪を確認したものだ。そちらはまだ雪を降らせている。

こういう雪雲ができた要因は見当がつかない。西の山岳を越えた冷たく乾いた空気が湘南の湿って暖かい空気とぶつかって雲を作っているのだろう。重い風が相模湾の空気に潜り込んでいるのか。具体的に風向風力、湿度、気圧がどう作用しているのかはさっぱりだ。気象の勉強なんて大学受験以来やってない自称予報士にとって雲を読むことは荷が重い。


2021.12.28(火)晴れ スイバに擬態

コウホネ

群青で今日も相模川。やはり暖かく南風も弱い。海風だろう。穏やかな日和には30km/h巡航練習だ。50の手習いではじめた技なもんでときどきやってないと忘れてしまう。

南からの風速は10km/hといったところ。追い風は42×14Tの3倍で80rpm、130bpm。向かい風は38×14Tの2.7倍で75rpm、150bpm。この練習を始めた頃と比べても弱くなっているみたいだ。心拍計を使えばそんなことも数字でわかる。

相模川での練習をおえて目久尻川沿いに帰宅。産川橋の赤信号に止まって、なにげに左手の水路を見て背筋が凍った。水中スイバみたいな水草の群落が遠目に確認できたからだ。

あわてて自転車を押して水路に降りていく。写真のように公園っぽく整備されているから、ワケあり水草だろうが、いったい何だろう。スイバに似ている水草なんてアマゾンソードプラントしか知らない。

近づくとあっけなく正体がわかった。黄色く丸い花が3つばかり咲いていたからだ。どうやらコウホネだ。普通は羊の足跡みたいな浮葉が目立つコウホネだが、ここのは流れが速いせいか全部水中葉だ。浮葉なしで水面に冬の花を浮かべている。コウホネとしては異様だ。

それにしてもなんと水中スイバに似ていることか。これは要注意だ。目久尻川で水中スイバを見つけたとしても、擬態したコウホネという疑念が葉に触るまではぬぐいきれなくなった。いまのところ産川橋より下流はアウトオブ眼中だからいいとしても。

ところでなんでこんな水路にコウホネ群落があるんだろう。この水路は目久尻川に数多い湧水を水源とする流れだ。目久尻川にはそんな支流がいくつかあって、親水公園的になっている場所もある。公園であれば水草を植栽することもあるだろう。ただ、普通はキショウブあたりが選ばれる。なんでコウホネなんだろう。もしや自生?

植えられたのなら腹が立つ。スイバに擬態する紛らわしい草を生やすなんて暴挙は他所でやって欲しい。といっても目久尻川水系でコウホネ植栽に反対しそうな人間は私だけだろう。


2021.12.31(金)晴れ 半水中ギシギシ

ギシギシ

群青で今日も相模川。昼頃にはやはり南風だった。海風だろうか。上空には雲の帯が確認できる。ちょうど相模川の自転車練習場は青空の下にあたる。雲の流れから上空の強い西風がうかがえる。

自転車は踏み込み練習と決めていた。専属のフィジカルトレーナーから踏み込みの甘さを指摘されている。特に右膝がトップチューブに寄るように揺れるのはまずいのだ。自覚できてないだけに意識して修正しなければならない。

2時間ばかり練習していると風は北東に変わった。ペダリングにほどよい感触を得て、目久尻川沿いに帰宅することにした。産川橋のコウホネがあった流れの上の方の様子も気になる。

コウホネから上流はすぐに道路で暗渠だ。道を渡れば澄んだ流れに近づける。コウホネはないが水草はある。エビモらしいものがちょっとレアだ。同類の水草は目久尻川の本流では見つけていない。きれいなリシアもあった。リシアはこの辺では一般的な水草で下水河川の境川にもある。ここのはあるだけじゃなくてきれいなのがうれしい。目久尻川は水が遠くてリシアなんてあってもわかりぁしない。

半水中ギシギシ(スイバ)もあった。岸のコンクリートと泥と石の隙間に根を下ろしている。水中スイバはこういう環境が得意みたいで、この辺ではぜんぜん珍しくない代物だ。ただし自転車横付けにして触ることができるってのが素敵だと思った。本気をだせばスイバだかギシギシだかの特定も可能だ。この辺の川ではどこもかしこも流れと人間の距離が遠いのが残念だ。

そこから上流は50mほどが親水公園的に整備されている。カワニナを育てて蛍の餌にしているというような看板があった。コウホネについているカワニナがいたが、あれは放流したものなんだろうか。そういうものはかつては笑ってスルーしていたが、宅地の中の蛍環境を真剣に検討してもよい時代になったのかもしれないと思い始めている。蛍がどういうところで産卵して、幼虫は流れをどう使って生きて、どうやってサナギになるのか、本気で工夫すればきれいな水環境ができるはずだ。

公園は目久尻川右岸の崖にそって親水公園的に工夫されている。どんづまりは湧水だった。そこは自然石を人工的に配置して泉の風体を保っている。石の間からは目視で確認できるほどの地下水が湧き出ている。公園を離れて道路を走って登っていけば、ところどころ道路脇を勢いよく流れる水の音が聞こえる。豊富な湧水がある崖だ。この地域のお年寄りの記憶にある蛍が育った幾筋もの水は暗渠になって目久尻川にそそいでいるのだろう。


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