たまたま見聞録
見聞日記 天地無朋


2020.12.6(日)晴れ 暖かい12月

群青

40年の経験と創意工夫の結晶である男前な群青でサイクリング。相模川、中津川、荻野川、小鮎川という神奈川セントラル河川中流の旅。

今日は南風も入って日差しがあり暖かい一日になった。河川をめぐっているといろいろな虫を見る。自転車で走っていて目についたものを順にあげると、コカマキリ、オオカマキリ、オンブバッタ、モンキチョウ、モンシロチョウ、ツマグロヒョウモン、ヤマトシジミ。まもなく命のつきる面々だ。今年最後の出会いかもしれない。

荻野川縁の昼食場所ではたよりのセンダングサの花がわずかになって虫の姿も少ない。ハキダメギクやヒメジョオンの白い花もあるけれど、蝶や虻蜂はいなかった。ハエとかカメムシとか地味な者ばかり。足元を探ればテントウムシがけっこういる。冬でも元気な面々だ。

昼飯を終えてさあ出発と群青にまたがるとカネタタキの声がした。カネタタキは毎年晩秋に声を聞けるコオロギだ。もう今年はないかなと思っていただけにうれしい。


2020.12.12(土)晴れ フユシャクに擬態する枯葉

枯葉

今日も群青で神奈川セントラル河川巡りの旅。

河川巡りでは川から川に移るときにたいてい激坂になる。その昔、まともに登れなくて「ああ、だめだ軽いギアにしよう」と改心させられた坂も今日は通った。あのときはリアを最大23Tのスプロケットに交換し、インナーローを39×23Tにしたのだった。群青はあきれたことに26×23Tがついている。さすがに今日のコースでは改心させられる激坂はない。

それら激坂の中でもっとも長いのが鳶尾山だ。先日鳶尾山を走ったときに撮り忘れたのが今日の写真。引き気味にしてマニュアルフォーカスで枯葉を撮った。いろいろやって落ち葉背景だとあまりに隠蔽がきつくて絵にならない。肉眼であれば、落ち葉背景でも枯葉が背景から浮いて適度な隠蔽擬態になる。写真ではそうもいかず青い葉を背景にしてみた。

これがいちばんできがいいのだが、それでもイマイチ感が漂う。隠蔽擬態の写真は難しいな。

最近サイクルコンピュータをBriton320っていうのにした。とってもいい感じなのだが、PCやスマホとの連絡がよくない。USBでPCにつないでも認識されない。充電はされているから物理的にはつながっている。電子は来てもデータが来ない。ブルートゥースでスマホともつながらない。ペアリングは問題ないのにデータがスマホに入ってこない。こういうハイテク機器は難しいな。


2020.12.13(日)晴れのちくもり 虫発見力

蛾

今日も群青で河川巡り。午前中は日があって暖かかった。昼からは高曇り。12月の半ばというのに道路に虫が多かった。カマキリもバッタもチョウもいる。さすがにカネタタキは聞けなかった。エンマコオロギやアブラゼミは期待もしていない。

写真は相模川で撮ったもの。圏央道の盛土には雑草が生えまくって群雄割拠の様相を呈している。黄色いアカメガシワの木は法面にもいち早く進出してくる。その手前のセンダングサも河川脇なんかの荒れ地に強い草だ。

この季節になるとこのセンダングサが虫観察の拠り所だ。今日はモンシロチョウ、ヤマトシジミ、ニホンミツバチがセンダングサの花に来ていた。

ところで、私はサイクリング中に虫を見つけるのが上手だ。「なんでそんなものが見つかるの?」と人もあきれる技能の持ち主である。この道のエキスパートとして達人の域かもしれない。

上の写真中央にベージュの点がある。センダングサの種のイガに止まっている蛾だ。おおむねこれぐらいのところで、あれっ?と気づく。距離は5mぐらい、自転車は時速25kmほどで走っている。このときはまだ蛾なのか枯葉なのか判然としていない。三角形の左右対称で、W型のシルエットはかなり怪しい。

蛾

ブレーキをひいて10mぐらい通り過ぎて転回して対象に近づいていく。これぐらいの感じだともはや蛾であることを疑わない。なにしろ触角がはっきり見えているからだ。触角が見つからなければ、蛾に擬態している枯葉を疑う。これぐらいの蛾擬態草は珍しいものではないので、手にしたTG-5の電源は入れない。蛾だとわかればTG-5のC2モードで近づいていく。

2mほどの高さにある草の先に止まっている小さな蛾を顕微鏡モードで撮るのはたやすくはない。私にはスペシャリストとしての矜持もそれなりに訓練された技術もある。といっても本当の実力者はTG-5だ。こういうことをさせたらピカイチのカメラだから。普通に5枚ほど押さえておけばまず外さない。

蛾のことはよく知らず、やたらと似たやつが多いもので、名前はだいたいわからない。ただ、ちゃんと撮っておけばなんとかなるかもしれない。ハエとか甲虫だとよっぽど特徴があるものでないと無理だが、遠目に見つかるほどの蛾なら種名のあたりがつけられる可能性はある。

初冬のセンダングサの茂みに入ってこんな遊びをしていると悲惨な目にあう。そんなことは重々承知。サイクリング中に虫を見つけるスペシャリストはその手の障害は苦にしないのだ。


2020.12.19(日)晴れ時々くもり一時しぐれ 自転車で河川めぐり

群青

あいかわらず写真の群青で河川巡り。相模川とその支流にあたる中津川の支流にあたる善明川と小鮎川とその支流にあたる荻野川をめぐる。もはや圧迫感マックスフェンスの境川を走る理由がないことが身に浸みてきたのだ。

河川めぐりでは交差点が少なく自動車をきにせず、すいすい走れる区間がある。ただそこは神奈川のことでルートの選択は簡単ではない。特に河川から河川に移動するのはパズルだ。必ず橋を渡らなければならないというしばりがある。右岸と左岸の選択もある。その昔西洋であったという新聞かなにかの懸賞で中州のある都市の道路を一筆書きできるかどうかというパズルを思い出した。あれは3方向に行ける交差点が2個以内だと解けるという簡単なパズルだった。私の河川巡りもほんらいは同程度の難易度である。しかし、私が走るに足る道は人の活動と地形の織りなすハーモニーであるべきだというあきれた信念がパズルの難易度を上げている。工業団地とか新興住宅地とかゴルフ場なんかに象徴される自動車前提の下品な道路はなるべく避けたいのだ。

いい感じの休憩場所も必要だ。写真のところは相模川べりのトイレ。なぜか毎回利用している。たまたまトイレの前に自転車を立てるのにちょうど良い長さの木ぎれが転がっている。背景も抜けるから自転車の記念撮影にもよい。ゆるきゃんとか下品なことをしている車やテントはじゃまなんでフォトショップで消している。それなりの手間ではあるが、私が走るに足る道は人の活動と地形の織りなすハーモニーであるべきだというのが信念だからしょうがない。

昼飯は荻野川のセブンイレブンが定位置になってきた。荻野川にはハヤが泳ぐ。草むらにはいろいろな虫がいる。今日はいつも自転車を立てかけるコンクリ壁にテントウムシのサナギがやたらとついていることを発見した。撮影しているとあられが落ちてきた。あられの音は雨よりもはっきりしている。あられはすぐに雨に変わったが本降りになる様子はなかった。


2020.12.25(金)晴れ時々くもり一時とおり雨 合理的な右側通行

トンネル

写真は座間にある残念トンネルの中。なんと今日、このトンネルで自転車が右側通行することが合理的であるという驚愕すべき事実を目の当たりにした。

私はトンネル工事が終わってからは毎回このトンネルを通っている。このトンネルがいかに残念なものであるかは、言葉足らずながら以前にも書いた。私にとっては安全快適なトンネルだが、一般人が自転車で通行することは拷問に匹敵すると感じているから。おじいさんたちが、このトンネルの登り方向で中央寄りの右側通行をしているのを幾度か見て、危ないな〜とも感じていた。それは常識にとらわれたおろかな感想だった。

今日もまたこのトンネルを登るにあたって左端を走ることにした。ここでは路側帯を外さずに時速20km以上で走ることを自分ルールにしている。登りであるし、白線を外せば左端のコンクリでペダルをこする恐れがあり、簡単ではないところが面白い。厳密には路側帯は走行禁止かもしれないが、無意味にがたがたがつけられたアスファルトを走るのは気分が悪い。

トンネルに入る前、高校生ぐらいのお嬢さんが先行していた。もちろん彼女は道路の左を走っていたが、トンネルの直前でハンドルを右に切って、歩道に上がるのかと思いきや、なんと逆走をはじめた。ちょうどおじいさんたちがやっていたのと同じやりかただ。

トンネル内の白線の上を走ってお嬢さんを抜きつつ、いったいどういうことだろうと疑問を感じていた。白線から目を外し、ふと右の中央分離帯をみて、はじめて自分の観察不足に気づいた。驚愕のあまり自転車を降り撮影したのが今日の写真。このトンネルのイミフな中央分離帯は中央寄りを逆走している自転車なら容易に左車線に入れるのだった。万が一前から自動車が来ても回避できる。後ろからの自動車は少ないし、来ていても大音響でわかる。この難所を安全に越えるには逆走が一番だったのだ。

私はこれまで自転車が右側を走る合理性は左側の歩道通行時にしかないと信じてきたが、誤りであった。座間の残念トンネルは中央寄りを逆走するのがもっとも安全ではた迷惑にならないのだった。そのことを地元民は経験から知っているのだ。当然地元の自動車もこの不文律を承知していることだろう。

トンネル

そうやって反省しているとちょうど軽自動車が登ってきた。この自動車から見れば、逆走している自転車よりも、道路の左端に立って写真を撮っているじいさんの方がよっぽど危ないはた迷惑なやつである。人間ひとりぶんの幅しかない所でなにをやっているのやら。そういう危険行為が車のドライブレコーダーにも記録されてしまったかと思うと、つくづく情けない。だからといって逆走するのは恐怖感に耐えられないので、次回も狭苦しいが左端の路側帯の上を外さないように走る。


2020.12.25(金)晴れ時々くもり一時とおり雨 ミミズに群がる

シャジクモ

写真はスイレン鉢。夏に近所の田んぼの土を放り込んだらシャジクモとかキカシグサなんかのおなじみの面々が出てきた。家人が食用としてセリを拾ってきて追加した。それらの草々は冬には枯れてしまうだろうと思っていた。

これまでの田んぼ水槽のデータでは、シャジクモは盛夏にはすっかり融けて影も形もなかった。環境が変われば生態が変わる。草ってやつはたくましいものだ。

セリは初冬が収穫期らしいから今でも青いのは肯ける。ただし、この冬も寒波は来てスイレン鉢は2度結氷している。凍ってしまえばセリとはいえ枯れてしまうのではないかと思っていたが、想像以上にタフである。

今朝は天気が良くて風もなく暖かかった。クロナガアリは普通に地上活動している。種を集めてくる者も多い。

巣口から50cmばかり離れたところにクロナガアリの密集をみとめた。理由が分からなかった。喧嘩かなにかかと注視すれば、何か黒いものをかじっている。手持ちのピンセットでつつけば柔らかい。動物の死骸であるようだ。

ためしに引っ張ってみると、あれあれとそいつが地面から出てきた。干潟のシギチがゴカイをつまみ出す感じだ。取り出したのは正真正銘のミミズだった。10cm以上ある立派な個体だ。頭か尾かを地面から出して息絶えている。それをクロナガアリが目ざとく見つけて食料にしようとしていたのだ。


2020.12.26(土)晴れ ハンドルバー

ハンドル

群青のハンドルバーを写真のものに変更した。イタリアのDEDA SUPERZEROというやつだ。古いモデルがウィグルで投げ売りされていた。投げ売りといってもカーボンは高価なので、1万円ほど安いアルミの同モデルにしたかったが、合うサイズが売り切れらしく、カーボンにした。

これまでは、俗に中華カーボンと呼ばれる中国製の安価なものを使っていた。RXL SLっていうバーで、こいつがどうにもしっくりこない。RXL SLはちょっと柔らかいが、それは許容範囲。中華カーボンによくあるらしく精度が悪くゆがんでいるが、それも許容範囲。だめなのは下ハンの形状だ。アナトミックはまあ許容範囲だが、手元が遠い。私は下ハンを多用するのだが、そのつど、あと2cm手前にハンドルがあれば、いや1cmでもかまわない・・・といらいらしてきた。辛抱しきれないと下ハン水平のアルミバーと交代したり、だましだまし使ってきたが、とうとう我慢の限度に達した次第。

DEDA SUPERZEROに決めるまでにいろいろ物色はした。残念ながら私好みの中国製安物に、これはっ!というものがない。きっと自転車に乗ったことのない人たちが設計しているんだろう。

DEDAの売り文句はハンドルの形状にとことんこだわって新機軸を打ち出したこと、下ハンを長くしたことだった。ハンドルとは何かをよく分かっている。その辺はさすがイタリア。しかもSUPERZEROはブレーキケーブルをハンドルに内蔵できるようになっている。内蔵ってのはバーに穴をあけるのが普通だが、SUPERZEROはハンドルに穴をあけるのではなく、内蔵用にカバーをつける方法だ。これも私の琴線ポイント。カーボンのハンドルに穴を開けると硬度を失うのではないか? という疑問がある。そうでないにしても雨が入ってハンドルに水が溜まるのは避けられない。なにしろバーテープを巻かないから。なにかの拍子にブレーキレバーを内蔵型に換えたくなったときもSUPERZEROならバーテープ無用でいける。この投げ売り旧モデルは私の用途にぴったりフィットだ。ちなみに電動とディスクブレーキにフィットさせたDEDAの最新版はいくぶん下品だ。

今日も相模川中流域河川巡りの旅をしてきた。DEDA SUPERZEROはそれなりに硬くてうれしい。下ハンがしっくり来ているのはもちろんだ。河川巡りコースのアクセントにしている鳶尾山は2回目に10分を切った。タイムは最近のものしかとってないけど新記録だ。ちょっとうれしい。このハンドルのせいではないにしても。


2020.12.28(月)くもりのち晴れ オオカワヂシャ

オオカワヂシャ

フロントフォークを変更した群青で境川。境川からはすっかり気持ちが離れている。唯一気になっているのがオオカワヂシャ。例の宮久保橋堰堤に来てみればかつてないほどの大盛況である。境川ではこの堰堤だけでなく、あちこちでオオカワヂシャの繁茂を見ることができる。

盛況の要因は秋から冬にかけて雨が少なかったことによるだろう。オオカワヂシャは根ばりが弱いようで、ちょっとした増水で流れていってしまう。堰堤に根付いた個体は成長すると自分の体にかかる水圧に負けて流下していく。

オオカワヂシャは冬でも成長するたくましい雑草である。湧水ではひとりオオカワヂシャの群落だけがみずみずしい緑に輝いている。あそこは冬から春はオオカワヂシャの一人勝ちだ。初夏に開花し夏には消えるから、他の水辺系雑草とは共存している感じだ。

オオカワヂシャが元気なのはたいへんうれしいが、他の虫は寂しいかぎりだ。めぼしいもので見つかったのはクロゴキブリだけ。どういうわけか境川の鉄フェンスをよじ登ろうとしていた。ゴキブリにはめずらしい行動だと思うが、ときおり目にしている。セブンイレブン裏も寂しい限り。刈られて積まれた雑草の中にオオカマキリの卵嚢をみつけ拾ってきた。


2020.12.29(火)晴れ 冬の半原越

去年の秋から通行止めになっている半原越に行ってきた。工事は11月で終わる予定だったが12月まで延期になっていた。11月に見物した感じでは工事は完了しているようで、1か月の間に何が行われるかは不明だった。いくらなんでも今日には終わっているだろうと期待したのだ。

半原越のゲートにつくと、工事中の看板は撤去されていた。やったーと思ったもののちょっと不穏。ゲートの間に三角コーンが立てられている。工事中はコーンの上にバーもあった。そのバーと看板だけが撤去されている。注視してみれば、看板に赤い字で「崩落」と手書きがあった。

こりゃいかんと思った。半原越は雨が降らなくても崩落が起きる場所だ。先にイモリを見つけた所には、何が出るかな〜何が出るかな〜のサイコロクラスの岩が転がっていた。最近落ちてきたものだ。せっかく工事が終わったのにまた崩落が起き、補修工事すら始まってないとなると、また1年ほど通行できなくなってしまう。ひとまずその崩落の現場を見物しようと自転車を進めた。

半原越はいよいよ真冬となってものすごく静かだ。動くものの気配がなく鳥の声は遠い。野鳥たちは餌の多い里に下りてしまっているのだろうか。道路で見つけた虫は青いカメムシの轢死体が1つだけ。数時間前にだれかがこの道を行ったようだ。ひと月前には道路を埋めるほど散乱していた落石が全面的に撤去されている。前に来たとき延長工事の理由は道路掃除かと思ったが、あながち間違いではないようだ。

さて、上まで登っても崩落の現場が確認できなかった。どこが落ちたんだろう。


2021.1.1(金)晴れ ウイルス

普通の、しかもうんざりするぐらい憂鬱な夢で目覚めた。反対に天気はすばらしい。窓の外のヒマラヤスギからも澄んで乾いた空気がびんびん伝わってくる。

いまちょうどコロナウイルスのことが世間の関心事だ。普通にテレビを見ているだけで、ウイルスの知識が入ってくる。ウイルスは人体の細胞に入って細胞の機能を使って自分のRNAとかDNAを複製させて増殖させるという。

感染の過程でウイルスの遺伝情報が一部ヒトのDNAに入ることがあるらしい。宇宙人系のテレビ番組情報ではヒトのDNAは8%がウイルス由来とのことだ。

ウイルスもヒトもこの地球に38億年ぐらい生きて共に進化してきた。ヒトというのはよく物思う特殊な動物だが、その特殊性もウイルス由来かもしれない。ウイルスの遺伝子をもらうとしても、肉や骨を作る遺伝子は使いにくいと思う。やつらの体はウニの出来損ないみたいなんで人体を作るのに役立たないのではないか。心のほうなら使い道があるかもしれない。

私はDNAの遺伝子の半分は心の設計図だと思っている。一寸の虫にも五分の魂といわれる。虫の心は1.5cmだ。ヒトのDNAの長さは身長ぐらいあるらしいから、DNAの80cmぐらいが心を作るのだろう。

私が虫の心を考えるときに、念頭に置いているのが「巣の設計図」とか「指名手配写真」だ。ヒトでも虫でも生まれながらにして出会うべきもの、避けるべきものの手配写真を持っている。その対象に接したとき、善悪の感情が起きて近づいたり離れたりする行動を起こす。そうした機能が動物の進化に決定的な役割を果たすはずだ。心の設計図になるDNAがウイルスによって変化すれば、ニンジンを食べるアゲハができたりするんだろう。

もう一つの関心事は生まれかわり、転生というやつだ。それが事実であると認めると仮説をもつことすら難しくなる。そこに遺伝情報をコピペして運ぶウイルスを持ってきたとしても理解が難しい。事のややこしさがぜんぜん減らないからだ。

住所氏名電話番号なんていうパーソナルな記憶はたぶん神経の揮発性メモリだと思う。それがじつは不揮発性メモリということになる。DNAにある記憶子なるものに記述され、記憶子がウイルスに転写され、他人に感染させ記憶として読み出されるという綱渡りを想定しなければならない。ハリガネムシも顔色を失う絶望的な難しさだ。


2021.1.3(日)晴れ キアゲハ

キアゲハの誕生に関してはわかりやすい状況証拠が残っている。どうみてもあれはミカンを食べる普通のアゲハから分かれたものだ。逆は考えにくい。キアゲハからミカンを食べるアゲハが生まれ、アゲハからクロアゲハとかモンキアゲハとかナガサキアゲハとかミカンをたべる黒いやつらが生まれたというのが逆。可能性はゼロではないというレベル。

普通のアゲハは先進的だ。もともと熱帯の常緑帯を住処にしていたアゲハ類の中で、北を目指したのがアゲハだ。落葉広葉樹の林とか草原とかへのあこがれを抱いたアゲハチョウだったと思う。そのアゲハのフロンティアスピリットをより先鋭化したのがキアゲハだろう。あの姿をみればキアゲハの誕生はそれほど古いことでもないだろう。こう推理するのは簡単なことだ。

ただキアゲハはニンジンを食べるというのが問題だ。ミカンとニンジンは違う。レモンとカラスザンショウなんてもんじゃない。ミカンもニンジンも刺激臭があるってところは共通だが、進化的な親戚ではあるまい。キアゲハが生まれるにあたっては何か突拍子もないことがアゲハに起きたはずだ。

進化の根本原因は突然変異だという。ミカン嫌いでニンジン好きなアゲハが突然生まれることはままあるだろう。でもそれが繁栄するのはまずないことじゃないだろうか。ニンジン好きなアゲハが生まれ、ニンジン好きなアゲハと恋に落ち、ニンジン好きな子を産まねばならぬ。それも一回キリ、1匹のメスに起きた突然変異であれば1万個ぐらいは産んでもらわないと子孫は育つまい。

やはり同時多発的な突然変異が欲しい。ニンジンを食べることができるアゲハ群がある世代に誕生するか、またはある地域にミカンの臭いがするニンジン 群が誕生して欲しい。そこにウイルスの活躍を期待してしまうのだ。


2021.1.4(月)晴れ do as I do

「変化するものは生き残れない」というのが生命のセントラルドグマだと私は思う。虫の生活は融通がきかない。そのときどきの決まりきった行動をやってうまくいかなければあっさり死ぬしかない。その行動というのが繊細で複雑怪奇であるにせよ。

ベッコウバチやツチハンミョウを観察したファーブルは、ダーウィンの進化論なんて嘘だと断言した。虫の巧妙繊細な行動が徐々に成立することなど不可能だからだ。ファーブルの気持ちも言い分もよくわかる。ただ、虫が進化していることには全面賛成であるし、その行動もやはり徐々に巧妙になったのだと思っている。綱渡りのようなベッコウバチやツチハンミョウの行動がゆるやかに進化することもあり得ると思う。

ツチハンミョウは半原越にもたくさんいる。大きな腹を重そうに引きずってアスファルトを歩いている。腹の中には大量の卵が入っている。その数の多さは、子どもたちが生き残ることの難しさを暗示している。ツチハンミョウはハナバチの巣に居候してハナバチが貯めた食料を横取りする。ハナバチの巣に入るにはハナバチの体にしがみついて運ばれる必要がある。土の中で生れた幼虫はハナバチの来る花でじっと待機してハナバチが来たらここぞとばかりにしがみつかねばならない。蝶やハエにしがみつこうものなら死が待つのみである。そういう宝くじ目当てのような生き様だから大量の卵がいるというのだ。

私はこういう解説に対していくらかの疑問がある。ツチハンミョウの侵入を許すハナバチの種類は多くあるまい。もし盲滅法に花に登り、手当たり次第に虫にしがみつくようでは、1000や2000の産卵数でも間に合わないのではないか。目的のハナバチがよく訪れる花はけっこう限定的だろう。ツチハンミョウの子どもらは、ヒメジョオンならヒメジョオンで決めて待つほうがいい。ハナバチにはハナバチの特徴があろうから、そいつを選んでしがみつくのが良い。もしベニシジミにとりついたならば、その誤りに気づいて、ベニシジミが再びヒメジョオンの花に降りたときに花に降りて、再スタートをきればよいのだ。それぐらいのことができないわけがないような気がする。

彼らの母親は38億年を生き抜いたスーパーエリートである。母親の生き様をきっかりたどることが子どもたちが生き残る最大の秘訣であろう。腹の大きなツチハンミョウは、do as I do、私のやったようにやりなさいと祈りつつ産卵するのではないだろうか。


2021.1.6(水)くもり アレルギーと記憶

ツチハンミョウの母の願いは届くのだろうか。子が生まれるときに母はいない。ツチハンミョウの子は生れたら独り立ちだ。母もそうだった。育児期間のある動物なら教えることができる。しかし虫だとそうはいかない。かといって虫の子に試行錯誤の時間はない。一度の錯誤は即死であろう。ツチハンミョウの子は本能の命ずるままに草を登る。その草はてっぺんに花をつけていなければならない。花は蜜のあるものでなければならない。蜜はハナバチの好むものでなければならない。

このあたりでもう絶望的に思える。だがきっと子どもは花の蜜の匂いを感じているのだ。彼らの母は蜜のことをよく知っている。彼女は花の蜜を食べて育ったのだ。蜜の種類はいくつかあったろう。いずれもハナバチが好むものに相違ない。それを伝えられればどれほど子どものたちの助けになることだろう。

母からの伝達があれば子どもは自らの信じる「良い匂い」が来るところを目指して歩いていけばいい。もし良い匂いが母から子へ伝えられなければ、子は未更新の古い情報を手がかりにすることにもなる。明治の開国以来、日本の里には続々と植物が帰化している。その中にはハナバチの蜜源として大歓迎されるものもあるだろう。100年前の新参者のヒメジョオンなんてのはエース格ではないだろうか。ハナバチはすぐにヒメジョオンを蜜源にできる。ハナバチの親子には蜜情報が確実に伝わっている。その一方でツチハンミョウはヒメジョオンに気づかず置いてきぼりになる危険がある。周囲にはびこって良い蜜を出しているヒメジョオンを知らず、ハナバチがあまり来なくなった花で待ちぼうけをくらってるなんて寂しいことではないか。そんな状況を見れば天国の母は落涙するだろう。

母が食べて育ったヒメジョオンの匂いが子どもに伝わればとってもいいに決まってるんだが、さてどうやってそれを伝えよう。テレビから聞きかじった情報では、COVID-19のワクチンはRNAワクチンだということだ。スパイクを作っている蛋白質のmRNAを使って、ヒトのリボゾームで蛋白質を作らせ、アレルギー反応を起こさせ抗体ができるのだという。そういう仕組みがあるのなら、DNAを使わずともともヒメジョオンの蜜の記憶が遺伝できるのではないだろうか。蜜そのものがどんなものかは伝わらずとも、母親の卵細胞がヒメジョオンの情報を持てるならば、子はそれを手がかりに蜜源に向かえるかもしれない。


2021.1.8(金)晴れ 不揮発性記憶

私が確実と思っていることを整理すると、生まれつき動物の心は決まっている。虫もヒトも決まっている。ちょうど体の色形が決まっていると同程度には決まっている。どういう物が善で悪で必要で忌避すべき物でであるか、そういうことは学習なしで知っている。そして複雑な動物になるほど、そこに学習が乗ってくる。学習とは記憶と反射である。強固に決定している心に揮発性メモリとしての記憶が乗っかり、記憶と同時に反射が生じる。そうした心のアポステリオリな機能は、あくまで個々の中に留まり、画餅よろしく記号的にしか伝達しない。

それに相容れない現象が、転生であり移植による人格変容である。その他もろもろ眉唾物の中にも事実として考察すべき対象のものがあまたある。そして何よりも虫に見られる複雑怪奇な生態である。あれが私が考える程度の単純なしかけで進化しているとはとうてい思えない。

そこで命題となりうるものが、記憶とは触ることが可能な実体、端的にはタンパク質のかたまりとして存在しているのかということだ。脳の奥にそんなものがあるという噂を聞きかじったことがある。ただ私の情報源は宇宙人とかUFOとかのテレビ番組である。真に受けてばかりはいられないが、転生なんかを事実と前提すれば、不揮発の記憶を措定せざるをえない。不揮発性記憶なんかないというのが私の信念であるけれど。

さらに、その肉塊に記録されているデータはコピペによる移動が可能だ。ヒトが生まれ持った人格と経験による記憶がミックスされ保存されているデータが移動することを受け入れなければならない。移植による人格変容は、データが心臓、肝臓にもあることを示している。転生は体外に出て再び人体に入って行く必要がある。

昨今のウイルス騒動でウイルス様のものが記憶に働いていればどうかと思いついた。記憶が人体をめぐったり、ヒトからヒトへ移ることだってウイルス状のものを持って来れば説明がつく。不揮発性メモリが核酸の配列に変形され、ウイルスによって体内を回り生殖細胞にすら入り込み、挙げ句の果てには他人の細胞にも入り込み、脳内奥にある記憶塊に書き写され、脳神経によって読み出され、記憶と反射を作るのだ。

こう書いてる間は楽しいが、一方でジョルジョ・ツォカロスみたいじゃないかと眉に唾つける自分がいる。不揮発性記憶なんてものにたよらずに説明する方法はないものか。


2021.1.11(月)くもり オオカワヂシャにあらずんば

堰堤

昼頃から群青で境川。写真は境川にある宮久保橋の堰堤。もうおなじみだ。いまオオカワヂシャの繁茂が著しい。秋から冬にかけて大水がなかったせいだろう。まさに望月の欠けたることなし、オオカワヂシャにあらずんば水草にあらず、という様相ではある。しかし私はこの栄華がはかないものだということを知っている。オオカワヂシャは根ばりが弱いのだ。その危険を彼らは自覚していない。

現にしばらく眺めていると2つばかり根付きの株がぷかぷか流下していった。堰堤ではカモたちが盛んに採餌している。オオカワヂシャを直接食べているのではないのかもしれないが、引っ張られたり蹴られたりして抜けることもあるのだろう。

むろんこれは他人事ではない。人類の繁栄も1万年余の安定した気候のものだねだ。境川で夕立に相当する異変は地球に起きるだろう。いま地球が温暖化している。小惑星が衝突するかもしれない。銀河で起きたガンマ線バーストが直撃するかもしれない。それはきっと境川に豪雨が来るとおなじく地球に確実に起きることだ。

この堰堤にはオオカワヂシャの他に細い水草が毎年安定的に根付いている。何かの間違いで生えた水稲かと疑ったこともあるが、もっとポピュラーな水草のようだ。神奈川県の河川では同種らしいのがはびこっている。去年の夏に見物してきた綾瀬の蓼川では、オオカワヂシャよりも威勢がよかった。浅いところでは流れにたなびきながらアシカキのような水上葉を広げていた。こいつも堰堤に生えているからには謎の草に昇格だな。

今日は朝から雲が厚かった。雲が高いせいで放射冷却があったかもしれない。この寒波で凍っているスイレン鉢の氷は厚く正拳突きでは割れなかった。本気で叩いたわけではないけれど。

湘南とはいえ寒気のただ中だ。日がないとけっこう寒い。境川からは富士山がはっきり見えた。これほどよく見えたのは記憶にない。やはりくもりの日の山は近く大きく見える。富士山は4000mぐらいあるから、高層雲の高さも4000mぐらいなのだろう。富士山の高度までは湿度が低く冷たい空気が居座っている。その上に温暖前線手前の湿った暖かい空気が乗っかって雲を作っているのだろう。明日は確実に雨か雪だ。


2021.1.15(金)くもり 虫の短期記憶

虫の体はDNAの設計図に基づいて魔術のようにできあがっていく。卵の中で刻々と体が形になり幼虫がはい出してくる。幼虫は脱皮で姿を変え、変態して翅ができる。虫の体は繊細で精緻かつ力強い。あれだけすばらしい造形なのだからそれに見合うだけの心があるだろう。

心というものは多細胞生物の発生に伴って形成されたものだと思う。むろん単細胞でも感覚と行動を結びつける働きはある。体の中に入れるべき化学物質も分かるし、明るい暗いも分かる。だけどそれは純粋な反射というべきで、心があるようには見えない。

虫ぐらいになるともう心を認めざるをえない。虫の体には本能の核になるものがあるはずだ。それはきっとDNAの設計通りに作られる。感覚器が受け取った情報をもとに運動神経が手足を動かして生きていく。そしてプラスアルファがある。

クロアナバチは硬い砂地に巣を作る。どれだけの大きさの巣を作るかは、体の中にある設計図でわかっている。細かい砂、ちょっと大きい砂粒、それらをどう処理すべきかも知っている。もくもくと穴掘りを続ける。ヒトの子が近くでじっと観察してるのはちょっとだけ気になっている。穴掘りの途中で腹が減って蜜をなめたくなる。そのとき製造途中の巣をいったん埋めて、花に向かって飛んでいく。巣から離れるときにジグザグに飛んで埋めた巣穴の入り口を記憶する。ジグザグの振れ幅はだんだん大きくなって、ハチは花壇の方に消えていく。帰って来たときには巣の入り口でジグザグ飛行をする。ジグザグの振れ幅はだんだん小さくなって入り口近くに降りる。50年ほど前の千丈小学校での観察記だ。

実際は、離れていくことのジグザグ飛行の意味はすぐにはわからなかった。帰宅時の飛び方をみて合点がいった。ためしに目立つ目印を巣口のそばに置いて、ハチが留守をしているあいだに目印をずらしておくとハチは迷うことになった。それを見て、あのジグザグ飛行は場所を記憶するためだ確信したのだった。ちなみに、ちょっと目印をずらすぐらいだと簡単に見破られた。なかなか侮り難い。風で何かが飛んできたりとか、砂地の環境は変わるものだから、生半可な記憶力ではだめなんだろうと思った。

こうした短期記憶力は虫に普通に備わっているのだろう。クロアナバチのようにわかりやすくないとしても、それは多かれすくなかれ、存在しているはずだ。


2021.1.16(土)晴れ 脳

多細胞生物に神経の中枢ができたとき、もともと呼吸や消化のリズムをとっていた部分が本能行動を司るように進化した。感覚器と運動器官は直結され、その中心に神経中枢があった。やがて感覚器と中枢神経の間に脳ができた。脳は感覚器が捉えたデータを処理できる。記憶することもできる。

虫はほとんど中枢神経がつかさどる本能だけ生きているかのように見える。神経中枢が担っている反射を変えるのは簡単ではないだろう。それこそ本物の進化を待たねばならない。外見でいうと触覚の長さを2倍にして、4枚の翅を2枚にするようなものだ。虫はほとんど本能で生きているようだが、多機能な体をもち行動に柔軟さを持つことができれば、よりよく生きられる。私はヒトとして無反省にそう思う。

危機を回避する反射は古来から受け継がれている。善明川のハヤは私の影を感じてぱっと逃げる。なのに水槽の魚は私の影を感じて水面に寄ってくる。餌をもらえるからだ。もともと有していた反射を克服して条件反射を獲得し、より早く餌にありつけるようになる。さすがに魚類ともなるとたいしたものだと感心する。そういう柔軟な生き方ができるためには新しいことを記憶できる脳が必要だ。

ヒトぐらいになるともうわけがわからない。梅干しを想像して口が酸っぱくなるのは条件反射だ。もともと酸味は危険な化学物質が体に入ったことを意味したのだと思う。未熟な果実とか腐敗とか。元来の反射は酸っぱいものを避けることだった。それがヒトレベルになると、梅干しと酸味を連結し、食べて酸っぱかった梅干しを見ただけで酸っぱくなる。何度かその体験を積めば、梅干しを思っただけで酸っぱくなる。そのころには梅干しが危険なものではなくうまいものになっている。酸味にたいして唾液をだすのは純粋な反射であるけれど。


2021.1.18(月)くもりときどき晴れ 本質直観

神経中枢はDNAの設計図通りにできあがっていく。きっとタンパク質の小さなかたまりだ。そのかたまりは決まりにしたがって信号を伝達する。

クロアナバチが巣を完成させると、獲物探索スイッチがONになる。そのとき中枢はクロアナバチに飛行を促す。クロアナバチは飛行するうちに、草むらを視界に捉える。草むらは中枢にある草むらイメージと合致し、その一致によって草むらへハチを誘導する。

クロアナバチは苦もなく草むらに到達する。しかしその目的とか動因は意識していないだろう。無意識でも行動に差し障りがない。草むらに降りたとき、ツユムシ探索スイッチがONになる。視界にツユムシが入ってくると、ツユムシの視覚像は中枢にあるツユムシイメージと合致し、その一致によってハチはツユムシを狩る。

というようにクロアナバチの体には1億年にわたってエラーなく反復されている回路が組み込まれているにちがいない。それゆえクロアナバチは行動に迷いも誤りもない。なにしろその回路は感覚器と筋肉が直結しているのだから。

本能はヒトにも備わっている。哲学では本質直観とか純粋経験などとよばれる。ただし哲学は制度とか歴史とか文化とか、進化のふるいにかかってないものを問題にして袋小路に迷いこんでしまう。袋小路に入り込めることがまたヒトのいいところでもあるが。

クロアナバチは生まれながらにしてツユムシの本質を把握している。本質が分かっているから迷いがない。クビキリギスとアオマツムシはけっこう違う虫に見える人がいるかもしれない。クビキリギス褐色型とショウリョウバッタ褐色型とアオマツムシの3者で仲間外れを探せばアオマツムシを選ぶ人が多いかもしれない。それはツユムシの本質が分かってないからだ。みかけに囚われて本質が見えていない。30年修行して出直さねばならない。

じゃあヒトよりもクロアナバチのほうが圧倒的にツユムシ採りがうまいのかというと、そうでもない。アダムとイブ以来人類が地球にはびこっている事実が示すように、知恵ってのはなかなかバカにできない。そんないいものを使わない手はない。

クロアナバチにだって知恵の萌芽はあるはずだ。巣の場所を覚えるクロアナバチには脳がある。中枢神経の出先機関として記憶と判断をつかさどる器官だ。感覚と運動が直結する中枢神経は正確だけど堅苦しさは否めない。ツユムシ探しに経験と学習が加われば鬼に金棒だ。たとえば、クロアナバチにツユムシの鳴き声がわかる耳があるとする。1匹目のツユムシが見つかった草むらではツユムシの声がしていた。2匹目も3匹目もツユムシの声がする草むらでツユムシが見つかった。鳴き声のしない草むらではぼうずだとなると、4匹目は同じ草むらでもツユムシの声がするあたりで探すべきだ。というぐらいの知恵はあるんじゃなかろうか。すくなくともヤナギの下でツユムシが見つかれば、次にもその近くを探すだろう。

中枢神経には僥倖目当ての回路はないと思う。真昼のハンタークロアナバチはきっとツユムシの鳴き声の本質を知らない。脳ができてはじめて、視覚と聴覚を連携させて狩りの効率アップをはかれるのだ。


2021.1.20(水)晴れ 数

神経の中枢と脳は根本的には同じ材料で同じように作られていると思う。きっと見た目同じだろう。

脳はどうやって生れたのだろう。生物を取り巻く環境は複雑になってきている。5億年前にはその環境は海でしかなかったが、川ができ湿地ができ草原ができ砂漠ができ山ができ空ができた。そこに多種多様な植物があり、多種多様な動物が生まれる。まわりが複雑になれば、感覚器は高性能になり複雑な情報処理が必要になる。そういう加減で感覚の処理器官として脳が生じ発達してきたのだろう。

ただしヒトの脳ぐらいになると、それは環境への適応から逸脱したものだ。かつてキリンが長く伸びる首となんとかおりあいをつけて繁栄したように、ヒトも肥大化する脳となんとかおりあいをつけて繁栄しているのだろう。脳の肥大はおそるべき副作用を持っていた。文学的には、ヘビにそそのかされて知恵の実を食ったと表現されている。

古来仏教では5感に加えて第6感の「意」を立てる。そのへんが仏教のすごいところ。とことんまで人間のことを考えている証拠だ。「意」が見るのは自分だ。脳は中枢神経から生れたものであるけれど、中枢神経を見ることができる。長期記憶ができるようになる。反省があり見通しができて、持続的な自我というものが生れる。

数は本質直観として神経中枢に刻み込まれているのだろうか。きっと虫にはないと思う。私が見ている宇宙自然から自然数を見出すことができない。カントの言う分析判断に数はないだろう。数はありとあらゆる存在にとって本質ではないのだ。

たぶん動物は、中枢神経の回路の構造からはみ出だしてものを認識できない。それはヒトとて例外ではあるまい。なのにヒトの場合は数を扱うことができる。数学では目がくらむほど難しい数列を扱っている。その能力の根本を探ると、ヒトが本能として有しているのは1から5までの自然数と1/2、すなわち真っ二つということ、そして足し算という技術ぐらいだと思う。それだけ持っていれば、可能的に0も無限大も理解できるし、無理数も複素数も発明して、ありとあらゆる数列を発明できる。そこは脳の機能だ。中枢神経が複雑化する過程でなにやら不自然なことが起きたのだ。数は外の世界の物に入っておらず、脳は自己から数を発見したのである。

ヒトの心にはいつの間にか数が入っている。体の中にある数に照らして、外の物に数を当てはめることになる。数は数学という例外のない体系によって計算されるから、数によって現象の解釈が行われる。ヒトの神経には数のみならず、円や直線などの図形、言語としての記号が入っている。中枢にある基本の図形や記号はわずかであろう。もとはDNAの設計の中に組み込まれているはずだ。そのわずかな記号を頼りに無限といっていい記号を発明し扱える。

世界が複雑になり、認知が複雑になり、ヒトの神経が複雑になる。脳はもともと感覚をより便利に処理する器官だった。それが自己を感覚するようになって怪しげなことになった。心が太る過程で入り組んだ神経の回路に記号が滑り込んだのだ。


2021.1.23(土)雨 記憶

長期記憶はいわゆる脳ではなく神経中枢にあるのだと思う。脳にあるのはきっと短期記憶だ。短期記憶は揮発性ですぐに書き換えられ消滅しする。長期記憶のほうは消えない。コンピューターのアナロジーでいうとDVD-Rみたいなものか。そして記憶の領域は発生時に割り当てられていると思う。発生につれて神経中枢が形になって、大半が生命活動と反射をつかさどっているけれど、一部白紙の領域があり、そこが記憶領域だと想像する。

記憶領域の回路はできあがっている。構造はその動物固有の反射と同じだ。そこに何を対象として割り当て、どういう反応を起こすのかが経験的に決定される。鍵になる刺激と信号の流れかたが経験で決まるのだ。梅干しー唾液がひとたび条件反射となれば、その記憶領域は固定される。その部位にはその他もろもろの条件反射や習い性が記憶されている。消すのは容易ではないが、使われず放置されることもある。変更する場合は他の部分に新しい条件反射を作ることになる。癖を直すのが難しいのはこのためだ。

記憶領域のアナロジーがDVDと異なっているのは、常に読み出されていることだ。その動物は意識していなくてもいつも記憶は読まれている。生まれてこのかたの長期記憶は仏教の単位である刹那の間に読み出されるのだろう。

条件反射、習い性とはいっても、自動的に体や感情を動かすものだけではない。電話番号もそこにある。神経中枢の対象はもともとは見る、聞くなどの五感であるけれど、仏教でいう六感の意も対象だ。意が内包するものに記号がある。記号というのは、神経中枢に生まれつき書き込まれている、基本的断片が元になっている。直線の線分、曲線の線分、折れ曲がった線分、閉じた曲線、閉じた多角形という基本を組み合わせて視覚的記号ができる。その無限といっていい記号をつむぐのは脳である。脳で記号の組み合わせに意味を持たせる。記号を表象し、あるいは想起し、その意味を反芻し反復すると長期記憶として神経中枢に書き込まれる。電話番号もその一つだ。

脳は五感を通して外界を見るし、意で自分を見る。視覚を認知するというのは目に写った像と神経中枢の反射、条件反射、習い性、記号的な記憶なんかを一瞬のうちにごちゃまぜにして意識することだ。梅干しを食べても、見ても、聞いても、読んでも、想像しても唾液反射が起きる。


2021.1.24(日)雨のちくもり 春を感じた日

スズメガ

積雪の予報もあったが雨。夜明けに雨粒は小さくなっていた。それならと群青で境川にでかける。

ひさびさの本降りで境川は濁っていた。水量は普段の倍ぐらいだろうと、例の宮久保橋の堰堤をチェックすれば、オオカワヂシャの数がずいぶん減っているようだ。

小雨でも北風がありけっこう冷え込む。このぐあいだと道路にでる虫はいるまいと走っていると、左目の端にスズメガの幼虫が映った。いや、騙されてはいけない。犬糞だろう。蛾擬態とはいえただの犬糞ならスルーだ。しかし記憶像では体のシワが規則正しく、枝豆のような頭部もあった。ねんのために引き返しチェックすると、はたしてそれはスズメガの幼虫だった。

長く伸びて横向きに転がっている。完璧ではないが犬糞擬態といっていいだろう。死んでいるのかとよくよく見れば息はあった。歩くだけの気力はもうないと見える。蛾の種類はよくわからない。じつは境川でちょくちょく見ているスズメガではある。早春に見た記憶もある。エビガラスズメとかセスジスズメなんかとちょっとちがうライフサイクルのスズメガかもしれない。

それにしてもどうして冷たい雨の中を歩くことになったのか。昨日からの雨で隠れ家が水没して溺死を免れようとしたのか。

うまいこと犬糞に擬態して、カラスの目から逃れられる可能性は高いが、見つかればいちころだ。カラスといえば風切り羽に白い帯があるカラスを2頭見かけた。1頭は白がはっきりして滑空するとき白い点線がぱっと広がってなかなか素敵だった。見た感じ老成した個体だった。

2時間ばかり走っていると雨が止んだ。薄くなった雨雲の間から日が入ってきた。影を作るほどではなく1分ほどではあったが、はっきりと暖かさを感じた。短い冬が終わるんだと思った。この冬はずっと三寒四温だ。異常に暖かかった金曜日にはモンキチョウが飛んだ。あいつは昨日今日どうしてるんだろう。

帰路、オオカワヂシャを撮影してやろうと宮久保橋に寄ると川の真ん中にこんもりと緑の草があった。流下してひっかかったオオカワヂシャである。秋から冬にかけて隆盛の極みに達したもののちょいとした雨が命取りになる。祇園精舎の鐘の音が聞こえたような気がした。それを聞いたことはないんだけど。横浜市水防災のホームページで高鎌橋の増水データをみれば最大で50cmに満たなかったようだ。


2021.1.24(日)雨のちくもり 人格の移植

アメリカ製の宇宙人的テレビ番組で臓器移植を取り上げていた。ミステリーの調子で、心臓とともに人格も移植されたと騒いでいた。移植を受けたのは若いきれいな女性である。彼女は移植後になぜかDIYに目覚めたのだそうだ。それまで大工仕事なんか全く興味がなかったのに、移植後は棚を自作し、床の張り替えまでやってしまう。

彼女の中に入っている心臓はある中年男性のものだったという。警察官をやっており、趣味がDIYだった。その趣味が彼女に移ったのだ。番組では臓器移植で人格が移ることはしばしばあるといっている。

臓器移植に伴う人格のコピペは私にとってはそれほどミステリアスなことではない。俗な概念での心とか魂なんてものを引き合いにだせば不可思議かもしれない。二祖慧可は達磨に「不安な心をここに持ってこい」と言われ「見つかりません」とこたえるしかなかった。それいらい仏教徒は心という概念をふわふわとは扱わない。私は仏教徒である。しかも仏教徒である前に科学者である。

ヒトの表象にはなんらかの対象が必要だ。物を見るには目で光をキャッチしなければならない。同じくドキドキするにはドキドキする何物かからの信号をキャッチしなければならない。心臓は神経中枢からの特定の信号をキャッチしたときドキドキする。神経中枢から送られた信号は、目で見た物、耳で聞いた音、鼻でかいだ臭い、手の感触、脳の妄想などが契機となる。その信号が心臓をドキドキさせる。心臓は血液を運ぶとともに情動の臓器でもある。

そうして、ここからが仏教徒でない者には難しいのだが、人がドキドキするためには、まず心臓からのドキドキ信号を神経中枢が受け取らなければならない。そして中枢神経はその情報を脳にも送るのだ。中枢がドキドキ信号をキャッチし、その情報が脳に返ってきてはじめて、人は今見ている物は素敵なんだ、やばいんだと自覚する。ドキドキ信号を送るのは心臓である。意識されるまでに脳と中枢と心臓とのやりとりは何度か繰り返されるのかもしれない。こうやってテキストにすると長いが10刹那ぐらいのことである。

条件反射は筋肉だけでなく心臓にも働く。木材やペンキの臭い、電動ノコギリの音、釘を打つ感触、大工道具屋に並ぶ工具や板、そういうものが好ましいという条件反射のある心臓を移植すれば、同じ刺激に対して喜び興奮するのではあるまいか。それぐらいのことは想像に難くない。

妄想ではあっても臓器を移植すれば心も移植されると信じることはできる。問題は、同じような番組シリーズでやってた転生である。古代エジプト人がイギリス人として生まれ変わった。太平洋戦争時に小笠原で戦死した若い兵士がアメリカ人として生まれ変わった。そういう確からしい事例を事実として認めると事は絶望的にややこしい。物理的なコピペが見あたらないから。


2021.1.25(月)晴れ トビイロスズメ天地無朋

スズメガ

写真はきのう見つけた犬糞擬態のイモムシ。種名を調べてみた。どうやらくすんだ色のトビイロスズメらしい。トビイロスズメは幾度か見ているスズメガだった。

2007年の夏には部屋で成虫が羽化している。それは玄関で拾ったサナギだった。過去の記録をひもとけば、いずれもひょんなところで出くわしている。

原色日本蛾類幼虫図鑑(上)を参照してみると、トビイロスズメは秋に幼虫が土にもぐり、そのまま越冬。夏に蛹化し夏に羽化するとある。幼虫越冬はスズメガとして特異らしい。

この情報は2007年に図鑑の同じか所を読んで得ていた。そのときは蛾の同定で、クチバスズメとトビイロスズメで迷ってトビイロスズメのほうが近そうだというところに落ち着いている。

鮮やかなグリーンが本来の体色だそうで、それなら夏に半原越と玄関先でみている。こうなると、昨日の出会いとか、3月に道路で幼虫を拾い、7月に玄関でサナギを拾うのもアリだと思う。ただ、なんであなたがいまここに?という謎は残る。


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