たまたま見聞録

夜昼峠サイクリング

 八幡浜側から望む夜昼峠
夜昼峠 魅惑的な地名だが 夜昼峠(よるひるとうげ)を知る人は少ない。おそらく地球上に5万人ほどしかいないだろう。夜昼峠は愛媛県の大洲(おおず)市と八幡浜(やわたはま)市の間にある。最高地点でも標高300メートルあまりだから、パスハンター(峠道を好んで走る自転車乗りたち)の征服欲を掻き立てる峠でもない。

夜昼峠という地名の由来

夜昼は「越えるのに一昼夜もかかる険しい峠」という意だと類推されがちだ。しかし、それは誤りで父親から聞いた話だと、ある特殊な気象現象を言い表したものだということだ。

その気象現象は八幡浜側から夜昼峠を観察すれば理解できる。おおもとの原因は夜昼峠を挟む地形にある。大洲(おおず)市は豊かな水を湛える肱川(ひじかわ)が造った盆地にある。それゆえ大洲にはいつも盆地特有の朝霧がでる。瀬戸内海にそそぐ肱川の河口に巻き起こる有名な「肱川あらし」をときにともなう霧である。大洲の朝霧は瀬戸内海に流れ出すだけではなく、太陽が昇るにつれて夜昼峠を越えてくる。一方の八幡浜市はリアス式海岸の奥にあるわずかな平野をたよりに開けた港町だ。そのため大洲の冷えた空気は温暖な海の空気の下にもぐり込み夜昼峠を這うように八幡浜側に吹きおりて、ちょうど峠を越すあたりで消滅する。

私は子どものころ八幡浜の夜昼峠のふもとに住み、夜昼峠を越える霧が滝のようにすべりおりながら消えていく様を見ていた。ところが、それまでに私は霧の中に入ったことはなかったから「霧」という現象名と山をすべりおりてくる「しろいもの」がなかなか一致せず、夜昼峠の「しろいもの」が霧だとは思わなかった。

高校生の頃から大洲へ出かける機会も増えた。大洲はおもに夜昼トンネルを抜ける汽車で向かうのだが、朝の便だとトンネルを抜けたとたんに霧に包まれるということも多かった。そうした体験によって「霧」ということばと霧という気象現象が符合した。そしてある日突然、峠を越えてくる雲のような白いものが、大洲盆地でよく見ている朝霧だということに思い至ったのだ。夜明け頃、盆地を厚く覆っている霧が日の出の上昇気流に乗って空へのぼる。霧は峠を越えて八幡浜へ滑り降りながら消滅していく。夜昼のいわれはその様を言い表したもの、つまり霧が「寄る干る」峠ということからなのだ。

低くて険しい夜昼峠

もともと大洲と八幡浜は交流の少ない地域で、使用する言語も違う。江戸時代には大洲市は大洲藩、八幡浜は宇和島藩。そして「文化のかおりたかい大洲」と「がさつな八幡浜」では人間性も異なっている、と思われている。じっさい歴史的、文化的にも八幡浜は海に向かってきた。かつては陸の孤島といわれた佐田岬(さだみさき)半島と八幡浜の交流は盛んで、私自身八幡浜で生まれ育って幾星霜、佐田岬出身の友人はたくさんいるし、母親も、ばあさんも叔母も昔の恋人(肉体関係はなかった)も岬人であるように、佐田岬から嫁を迎えるのは家訓ですらあった。反して、大洲出身の友人は一人もいないし、あまつさえいまだに大洲人と意識してあった人すらいないのである。

夜昼峠地図

夜昼峠は四国愛媛県の西部、大洲市と八幡浜市の間にあります

峠には旅人の行く手を阻む特殊な生物が生息していた。「のびあがり」という背後から巨大化しつつ襲いかかる身長10メートル以上にもなる暗黒の妖怪である。30年ほど前には「のびあがり」もずいぶん見かけたものだが最近では終ぞ出たという話を聞かないから絶滅したのかもしれない。さびしいことだ。

さびしいといえば大洲市と八幡浜市を行き交うには夜昼を越えるしかないのだが、現在この峠を登り下りする道路をいく人はほとんどいない。たぶん年間10人程度だろう。その理由はもちろん「のびあがり」が恐いからではない。「のびあがり」がしょっちゅう出ていたときでさえ地元民は「絶対に振り返ってはいけない」という防御法を子どもでも知っていたから、犠牲者は数年に一人しか出なかったくらいである。

峠を行き交う人が少ないのは30年以上も前に夜昼峠の地下をぶち抜いて「夜昼隧道」が開通したからだ。八幡浜から大洲まで隧道を通ればわずか15キロ。自動車なら15分しかかからない。対して峠を越えれば自動車でも1時間近くかかる。旧道のところどころは乗用車ですらすれ違えないほど狭いのだ。


お地蔵様

大洲名物-頂上付近のお地蔵さん

トンネル

八幡浜名物-頂上付近のトンネル


妖怪が住み、見知らぬ言語を話す、見知らぬ人々の住む地に続く峠道.........このような心理的背景を含んだ峠であるから自転車乗りのはしくれとして地球上のどの峠をさしおいても夜昼は一度は越えねばならぬ地なのだ。

夜昼峠の思い出

私は夜昼を自力で越えたことはない。中学生のとき隧道ができたのが珍しくて仲間を募って隧道越えで大洲に行ったことはある。あのときは非常に恐い思いをしてしまった。やっと自転車に乗れるようになった子どもにとって全長2キロ以上もある交通量の多い峠のトンネルを走るのは一種の拷問だ。当時は換気設備もお粗末だったから呼吸は苦しくなるし、大型車が爆音をとどろかせて背後から近づいてくるだけで心臓が止まりそうになった。まるで音響の「のびあがり」である。大型車両に襲われたときも「のびあがり」に出会ったときの応用で振り向いてはいけない。恐怖に負けて後ろを振り返ると事故にあうのだ。それで何人もが犠牲になっている。

私の体を運んでくれた自転車は安価なロードのフレームに部品をつぎはぎしたもの。
700×32C(三ツ星タイヤ)カンパ(右シフトレバーだけ)、スギノ、シマノ、サンツアー、チネリ、吉貝、サンマルコ他、前45×38T、後13〜23T(12段変速)、ペダルはミニサイクル用、ダイナモ式ライト完備、ミニサイクル用フロント錠つき、防犯登録済み

大洲からの帰りはあの穴蔵に入っていくのがいやでいやで仕方がなかったが、それでも峠の旧国道197号線(行くな国道という通称があった)を登る根性はなかったのである。また高校生のときにジョギングして越えようとしたことがある。何となく走っているうちに峠に足が向かったので頂上まで.......と思いついたのだが、半分くらいで断念してしまった。

もちろん私は夜昼峠を幾度か越えたことがある。それは毎回同じ理由のもと、父の運転する車に乗ってである。大洲の肱川では毎夏、花火大会が開催される。こどもの私の夏休み最大のレジャーといえばその花火見物であり大洲と八幡浜の交流は花火だけだと信じていた。じっさい八幡浜市民たちには自力で花火大会などという粋な催し物をやるセンスがなかったから、お隣の大洲花火大会は年中行事最高のビッグイベントで、その日ばかりは夜昼峠にオートバイや自動車の列ができたものであった。

夜昼は森の中を走る。しかも当時未舗装だった路面は埃を巻き上げる。花火の帰りは夜闇の中である。私は父から「のびあがり」がよく出るポイントを教わったり、実際にも「のびあがり」とおぼしきものを発見しながら胸ときめかせて峠を越えたのだった。


蜜柑山

八幡浜の景色はミカンの段々畑
夜昼峠は分水嶺----というほど大げさなものではないけれど、大洲と八幡浜では風景が一変します。気候と地形の関係で有利な作物が全く違うのです

大洲盆地

大洲盆地
大洲にはミカン畑はありません。山林は鬱蒼とした杉や桧の植林地と照葉樹林で覆われています。




蜜柑山

耕して天に至る
八幡浜の名物は山岳アジア名産の段々畑でしょう。乾燥した海風と日照の多さ、冬季の霜や凍結がないところがミカンの段々畑に有利です。私のご先祖様もこの風景作りに関与しました

道

大洲側の道は木漏れ日のトンネル
大洲は稲作(八幡浜にはほとんど平野がないので水田に不向き)と林業が盛んですから大洲側では山の斜面をいたずらに切り開かないので道路は日陰ができ夏でも涼しく走れます。


旧道に向かおう

標高の高いところを越える峠道には全くつまらないものが多い。知床なんたら道路、白山かんたら林道etc。そうした何を運ぶのか不明の観光道路は妙に立派で妙に急だから自転車で越えると達成感はあるが、達成感をのぞいたら苦痛しかのこらない。

夜昼峠を越えるのなら大洲市側から登ることをお勧めしたい。大洲の「ラーメン豚太郎(とんたろう)」の分かれ道が天国と地獄を指し示す。交通量の多い国道のトンネルは自転車乗りにとっては地獄なのだ。いっぽう捨て置かれた緩やかな木漏れ日の峠道ほど楽しいものはない。いまでは見捨てられつつあるけれども、さらに、夜昼は越えても自慢にはならないけれど、日本でもっとも美しい峠の一つとおもう。夜昼を越えるときは大洲側から登ると圧倒的に快適だ。大洲側は坂が緩やかでダンシングを要するほど急なところはない。下りでも大洲側ではブレーキレバーを引く指も痛くならなかった。

 数字をあげると、7キロで350メートル登るから平均で5%の勾配しかなく、しかも一定している。38×23Tだとあまり足にかからず、踏むという感じもないから片手でハンドルを握ってポケットからカメラを出して写真を撮ることもできる。

真夏だというのに大洲側は全然暑くない。杉なんかの木が道路をほぼ覆っているので日陰になっているのだ。クランクをクルクル回し、つづら折りを気持ちよく走っていける。

木々に視界を遮られ、ぽつぽつと日差しの染みが浮かぶ道をうねうね登ると左手にお地蔵さんの赤い涎賭が目に入ってきた。鬱蒼とした杉木立の中で赤がいっそう鮮やかだ。お地蔵さんを過ぎるともう頂上だ。少しだけ切り通しになっている。八幡浜千丈(せんじょう)へ向かう下りは最初は緩やかだ。自転車で走っていると人々のどんな思いで道が生まれ、どんな経緯で育ったのか、そんなことにまで思いを馳せてしまう。この道もかつては生活に欠かせない道だったろう。人も牛馬もリヤカーも越えていったろう。緩やかな坂は人の力にやさしい。交通の便のために、そして、おそらくはわざと芸術的に設計したとしか思えない360度コーナーのための短い煉瓦のトンネルをくぐる。

ミラー

夜昼峠は自動車もまず通らない。私はこの夏、合計3回越えたが自動車にあったのは一度きりだった。曲がり角ごとに設置されているカーブミラーも捨て置かれてから10年はたっているのだろう、割れているものが多いし、割れていなくても完全に傷と埃でくもってミラーの用をなしていない。

たった一つだけ、やけに綺麗なミラーがある。トンネルを抜けてすぐ正面、芋畑の中に立っているカーブミラーだ。こいつが妙にすまして見えて笑みを誘う。道路に立っている普通のミラーが死んでいるのに畑の中のミラーだけが生きている。だれか特定の人にとってはこのミラーが大きな任務を持っているのだろう。

上郷(かみごう)の下りにかかると視界は一気に変貌を遂げる。森林は切り開かれ眺望が効いてくるのだ。八幡浜側の下りはかなり急傾斜だからスピードを出さないように気をつける。『私は自転車の玄人になれるような才能には恵まれていない。単に自分の楽しみのためだけに自転車に乗っている。速度や距離の記録をねらっても誰も喜んではくれない。』そんなことを自分に言い聞かせてブレーキレバーに手をかける。

八幡浜はミカンの里。鞍掛山(くらかけやま)の山腹、耕して天に至る段々畑、耕作地に囲まれて住宅が数件ずつ肩を寄せる。いったい人間にはこれほどまでに執念を燃やして山を開き、作物を育て、居を構える必要があるのだろうか。千丈で生まれ育ったため普通だと思ってきた環境が、各地を旅して帰って来た目に特殊に写る。そしてこの地はこれほどまでの開拓が可能であるほどに気候に恵まれているのだとも.......さて、一気に千丈へ下っていこう。私の家はちょうどこの坂を下りきった所にある。


2001年7月8日 手直し

※写真は「写るんですスーパースリム」で撮影したものです



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