たまたま見聞録

佐田岬サイクリング

カシミール3D使用
佐田岬地図

佐田岬半島が好きだと言いつつ、自転車で先端の灯台まで行ったことがないのは奇妙だろうか。灯台に行ったのは1回だけ。徒歩だった。高校のとき食料持参の二泊三日で佐田岬半島を歩いた。八幡浜高校を出発して、まず萩森城址を越え、なるべく自動車道路を通らないように歩いた。泊まったのは三机の権現山と三崎小学校だ。私の父の代には佐田岬には尾根づたいに歩ける立派な道があったという。それを辿りたかったが、すでに尾根道は断続的で、薮をこぎみかん畑を歩いて、さんざん迷ってしまった。いまでは、自動車道路がいっそう整備され、みかん山にはモノレールが張り巡らされ、徒歩ルートを行くのは不可能だろう。


田部をめざして

今回は佐田岬の瀬戸内海側を自転車で走ってみたいと思った。瀬戸内海側にある伊方町(旧瀬戸町)の田部(たぶ)は私のばあさんが生まれ育った集落だ。遠い故郷ともいえる田部を一度はこの目で見ておきたい。瀬戸内海側にも舗装路があるらしい。宇和海側に負けない立派な道路だ。

富士シリシア

2011年8月17日午前9時半。クランク1回転ごとにカクンカクンと不調をうったえる鉄パナで旧197号線を走り佐田岬に向かう。

さあ佐田岬だという気になるのは川之石の住吉鼻の登りにかかるところだ。そこには富士シリシアの愛媛工場(写真)がある。いまでは写真のように現代風な工場にすぎないが、かつては高い赤レンガの壁越しに古っぽい金属のタンクや塔などが見えて、秘密研究所みたいだった。化学工場なんてものは八幡浜には珍しく、そばを通るだけで胸の高まりを覚えたものだ。

i伊方町大浜

住吉鼻を回り、大浜、中之浜、仁田之浜と伊方の集落を下っていく。すぐに目に入ってくるのは尾根に並ぶ風車の列だ(写真)。佐田岬は風の強い所で、風車には立地が良い。ただ、風車なんぞ立てなくてもぜんぜかまわない。正面の山の向こう側には原子力発電所があって電気の心配はない。風車の他にも伊方の沿道の佇まいは急速に変わっている。埋め立てが進み湊浦には大きなビルディングが増えている。湊浦にはコンビニが二軒もあるらしい。

伊方から大久へ

湊浦の集落を過ぎて、川永田からはグンと登って九町に降りる。佐田岬は全部登りか下りだ。川永田の登りは長めで、昔の道と現代の道が一部交差して自転車にはきつい。それでもせいぜい200メートルほど登ればすぐに下りだ。九町に降りるとしばらく平坦になり、右手に池が見える。亀ヶ池という汽水の潟湖だ。亀ヶ池はかつてウナギ釣りの名所だったらしい。なにかいるかな?と、立派な遊歩道から覗いてみれば、水がいまいち不健康そうな顔色だ。魚の影も見えなかった。だいじょうぶかなと、私が心配してもしかたがない。

亀ヶ池を過ぎて道は登りになり、海岸線の崖を回って塩成(しおなし)に降りる。同じようにして海岸線を回り、川之浜に降りる。鼻、集落、鼻、集落、鼻、集落が佐田岬のリズムだ。川之浜には海水浴客で賑わう立派な砂浜がある。民宿なども多い。ただ、すでにお盆をすぎているからか、浜に海水浴客は見当たらない。

伊方町川之浜

川之浜を過ぎて同じように海岸線を回る。沿道はみかん畑だ。川之浜から大久にかけて、40年ぐらい前だと照葉樹林も少なくなかった。今ではかなりの急斜面も畑になっている(写真)。斜面を切って青石を積んで石崖をつくり、道をつけて畑を営む。普通のことだが難しい。モノレールを通すとみかん運びもできるようになる。慢性的な渇水は水道を引いて補うことができる。獣害は電気柵で防ぐことができるようになった。風景は変わらなくても生活の質は変わっている。

伊方町大久

大久にも砂浜がある(写真)。母の生まれ育った部落でもあり、子どもの頃から夏と正月に訪れ、砂浜でよく遊んだ。かつては肉牛の生産が盛んな地域でもあって、砂浜に子牛を放して運動させていたものだ。幼児のころは子牛に勝負を挑まれてずいぶん恐い思いをした。その牛の姿も現在はない。観光客がいないにしても夏休みの子どもの姿もないのは寂しい。

じつは大久の砂浜にちょっとした異変を感じている。貝殻がまったく見当たらないことだ。かつて、浜には貝殻がごまんとあった。貝殻だけでなく、ウニやカシパンの殻、コウイカのフネなど正体不明なものが足の踏み場もないほど転がっていたのだ。山の子にとって砂浜はワンダーランドだ。タカラガイだって小さい普通種は履いて捨てるほどあり、拾う気にもならなかった。ところが25年ほど前、新婚旅行のついでに大久の浜を訪れて貝殻がまったくないことに気づいた。潮の流れか季節の関係だろうと、それほど気にしなかったが、以来数度訪れ同じ状況を確認している。

田部へ

大久を過ぎて名取の手前で瀬戸内側に降りる。すぐに気づくのは森の深さだ。暖地の海岸を特徴づける照葉樹が生い茂っている。日当たりや傾斜の加減で田畑や山林への利用が難しく、崖崩れの防止と薪炭林として保全されてきたのだろう。木漏れ日の道路はきれいに舗装されて快適だ。

伊方町田部

神崎の鼻を回って田部の集落が見える場所に出た(写真)。たまたま255号線から田部の全体が見渡せる。思っていたよりもずっと大きい。海から山の中腹まで建物が並んでいる。家屋のしつらえは立派だ。集落の中央に小さいながら谷川もある。陸の孤島の寒村という先入観は吹き飛んだ。集落の近くでは道路の拡張工事が進んでいる。田部では、道路のいたるところにお地蔵さんがいる。10mあたり一人はいそうだ。道路整備がされて法面がコンクリートになってもお地蔵さんの場所がしっかり確保されているのがうれしい。

田部から小島まで、藤東鼻を回るときにかなり登ることになる。ちなみに、今回のサイクリングの最高地点は藤東鼻の250mだった。けっこう暑く腹が減った。路肩の車止めに真っ黒い蛇がいた。青大将のちょっと珍しいタイプでカラスヘビなどとよばれている。でれっと伸びてひなたぼっこをしている風情だ。ふーんと見送ってから、ふと思い直し、記念撮影をしようと自転車を止めて携帯電話を取り出して近づいていく。1mも離れているのに、蛇はギクッと驚いてさっさと逃げていった。近寄り方ががさつだったのだ。体が弱って判断力が鈍ってきている。

藤東鼻から小島へは蛇行する道を下っていく。森が深く左右は暖地の海岸林の風情満点だ。日が差さず湿った路面にはコケが生えている。自動車の通行も極めて少ないようだ。思い返せばまだ1台も車にあってない。小島から大江への途中に志津(しつ)という小集落がある。佐田岬で猟をしていた父が好きだった所だ。山から見下ろす志津湾は絶品の美しさがあると何度も聞かされた。そして父は私の妹にその名をつけている。その志津湾を目にすることになった。コの字型の浅い湾はエメラルド色に澄んでいる。湾奥のやや緩やかな斜面に小さな住宅が行儀よく並び映画のセットのようだ。百年ほどタイムスリップしたような現実離れした風情がある。ただし、私はやっぱり湊浦が佐田岬では最高に美しいと思う。志津湾を随一とした父にも同様の心的背景があったのかもしれない。

三机の池

小島を出て大江を経て三机(みつくえ)を目指す。ふと、三机のとある場所がいまどうなっているのか確認したくなった。三机には須賀公園という遠足地があり、海水浴やキャンプの施設が整っている。臨海学校というのだろうか、中学校のとき学校行事の泊まりがけで遊んだ楽しい思い出がある。40年も前のことだ。思い出といってもたいそうなものではなく、同級生のガールフレンドといちゃいちゃしたことが9割を占めているのだが、そこにあった池を見たくなったのだ。

三机は小学校も中学校もあるけっこう大きな町だ。商業施設もある。食料を買える店もすぐに見つかった。菓子パンとちくわを買い背中につっこんで須賀公園に向かう。須賀公園は小さな島とそれにつながる砂嘴でできている。40年前にくらべてずいぶん整備されているようだ。淡水らしいプールも作られ家族連れが来ている。佐田岬半島に来てやっと泳いでいる人を見た。

須賀公園の池

須賀公園で確かめたかったのは写真の池だ。長径が10mほどの陸上トラック型楕円形をしている。垂直の壁は3mほどだろうか。自然石とコンクリートで作られている。水の深さは1mほどあって海とつながっているのだ。

この池自体は40年前にもあった。しかし、そのときの記憶とはかなり様相が違う。当時は長方形型でもっと大きかったような気がする。時間帯によって水位が変化しているから、水面下で海とつながっていることが分かった。カニや小魚も生息しており、水路は砂泥の透水層だけではなさそうだったが肉眼で確認できるものはなかった。人工的建造物ながらも用途がさっぱりわからない池だった。現在では橋のついた神社的なものがあって、宗教的な意味で保全されていることがわかる。もしかしたら、先史時代に地下水の湧き水と潟湖が連結した自然池があって、その地形の珍しさから祀られて今に至っているのかもしれない。

中学生の当時はこの池が祀られていることに気づかず歴史的な意味は読み取れなかった。それでも気になった。どういうわけか、昔からこんな感じの水たまりにひかれるのだ。

しかたなく塩成へ

三机を出発して気力の萎えを感じ、足成から亀浦、伊方越と瀬戸内側を走ろうという意欲がなくなった。瀬戸中学校や立派な運動施設を見下ろしながら、宇和海側に逃げていると、塩成(しおなし)という標識が目に入った。唐突に「しかたなく行く佐田岬の町はどこでしょう?」というなぞなぞを思い出した。私が高校生のときになぞなぞが全国的な大ブームになったことがある。

Q 猟師が鉄砲で雀を撃ちました。
 弾があたったのに雀は落ちませんでした。
 どうしてでしょう?

A 弾に根性がなかったから

というように、そのしょうもなさは謎かけでもなんでもない。土地のことばで「よもだ」とよばれる苦し紛れの言い逃れみたいなものだ。で、先の問いの答えが塩成だった。八幡浜の方言で「仕方なく」ということを、「しよなし」あるいは「しょーなし」という。しよなしに行くのは塩成という語呂だ。瀬戸内側はあきらめて近道の宇和海に逃げるのもしよなしだよなと自分を慰めはじめている。

九町

塩成から亀ヶ池を過ぎて九町に至る。九町からはちょっとだけ直線的に登っていく。目前の尾根に風車が見える(写真)。近づくにつれて風車は巨大化し威圧感すら感じるほどだ。右に曲がれば午前中に来た道だ。まっすぐ行けばメロディーラインに登る。ちょっと躊躇したが風車に引き込まれるようにメロディーラインに向かう。ちょっと登りはきついが、いったん乗ってしまえば湊浦まで一気だ。楽々時速40kmで直線的に下っていく。楽してメロディーラインを走るのもしよなしだ、と心のなかでしきりに言い訳している。塩成なぞなぞを思い出さなければ旧道を走っていたろう。

湊浦から保内へ抜ける大峠もメロディーラインを使えば楽々だ。上は農道の迷路まじりのけっこうな登りで、元気なときは楽しめる。峠の上には防空壕まがいの謎のトンネルもある。なんのために作ったものか、自転車で通行しても頭を打ちそうな気がするぐらい狭いものだ。

変貌する川之石

大峠もメロディーラインなら、まともな自動車用トンネルを抜けて保内に出る。味皇様の店のところから右折して寄り道だ。川之石には必ず寄る場所がある。それもやっぱり水辺だ。コンクリート護岸のへんてつもない農業用水路が目的地。私が故郷だと思っている八西(はっせい)地区で唯一メダカの生息を確認している場所だ。川之石は金山を水源とする川のおかげで、平地にも水にも恵まれている。数十年前は一面の水田であったが、宅地開発が進むにつれて田は急速になくなっていった。

少なくなっても田があれば用水路は大切にされる。30年ぐらい前に見つけた1本の水路は特異だった。両面はコンクリートであるが水草が茂ってメダカが群れをなしていたのだ。水草はクロモ、エビモ、フサモのような一般的なものばかりでない。普通の草が水没して成長しているものもあった。ミズハコベやヤナギタデ、ギシギシかもしれない。その手の水草は湧水のある安定した流れで繁茂するはずだが、湧水源は特定できなかった。もしかしたら197号線の直下から湧いているのかもしれない。

宅地の排水路

今年、川之石を訪れると田は一枚もなくなっていた。住宅も増えた。案の定、珍しい水草があった所(写真)は殺風景で腐臭のただようただのドブになっていた。水草もメダカもまったく見つからない。水田がなくなれば用水にきれいな水が流れる必要はない。宅地の排水路として再利用されることになる。メダカは水質汚濁には極めて強い魚だ。繁殖に必要になるかんたんな条件さえ整っていれば排水路でも生きていかれる。今回は周辺をちょっと探しまわって、喜木川をはさんだ対岸のドブでメダカの生息を確認した。

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