たまたま見聞録

古谷は裏の川の源流域にある

古谷全景
八幡浜市古谷

この世界は少年の私にとって暗くて陰気なものであった。その陰気さはかつての日本では多くの農村が抱えていたものだろう。貧しさのためでもあったろうし、私の生まれ育った部落の歴史的な環境のためかもしれない。何よりもまだ敗戦を引きずっていた。

そうした心持はありとあらゆる体験に反映された。人為の環境から山、川、森の自然環境にいたるまで、何か重苦しい空気が世界を支配していた。私の世界観、人生観は良くも悪くも生まれて少年期を過ごした松尾という部落の中で培われた。

概念図
概念図 古谷と松尾は一本の小川で結ばれている。古い地図をみると、その川は「池田川」と名づけられていることがわかる。※注その名を知っている人はいま何人いるだろう。とくに、なんということもない川だ。しかし、私にとっては世界一大切な川なのである。

鳴滝

池田川は古谷で生まれ、松尾で千丈川に合流して終わる。私の家は、南側で一本の道路を隔てて千丈川に面している。北側はそのまま池田川に接している。そのため、家族も私も「裏の川」とよんでいた。

現在のようにコンクリート護岸になる前、裏の川はけっこうな遊び場だった。千丈川よりも水が冷たく、サワガニやゲンジボタルの宝庫だった。夏にはオニヤンマが往復し、カエルが鳴いた。子ども心にかなり魅力的な川だった。それなのに、裏の川の源流を訪ねてやろうという気が起きなかった。考えてみると奇妙なことだ。

鳴滝

裏の川の源流は古谷にある。古谷という所はわたしの気持ちの中でとても遠い所だった。じっさいは子どもの足でも歩いて1時間はかからない。それでも遠かったのは、一つには松尾と古谷の間に人家がないことがあるかもしれない。松尾から古谷まで2キロぐらいは、畑と山林が続く。人が歩く道と、自動車が通る道がそれぞれ一本あるきりだ。両方の道に電灯はまったくなくて、夜には真っ暗闇になる。そういう集落の存在は山がちで温暖な四国では珍しくない。北海道ならいざしらず、何キロもの山道を経て突然10戸ぐらいの集落が現れることは、四国では普通のことだ。

古谷が心理的に遠いことの、もう一つの理由は「鳴滝」にあると思う。松尾と古谷の間には、鳴滝がある。岩盤が切り立った20メートルほどの滝だ。子どものことだから、当然、裏の川にそって上流を目指す。鳴滝まではなんとかこぎ着けるものの、あれは越えられない。つるつるして取りかかりがなく、ほぼ垂直の滝なんて登れるわけがない。挑戦しようとしたやつさえいなかった。

御神木

鳴滝には神社がある。急斜面の岩盤を削って階段を作った一本の道が神社に続いている。終点は鳴滝のその脇にある小さな社だ。神社があるくらいだから滝の回りの木々も大切にされている。カシや杉のでかい樹が茂り、岩はマメヅタが覆い、昼なお暗い。巨大なヘビの言い伝えもきいており、けっこうおっかない所だった。

ちょうど鳴滝の下は私の家の土地であり、段々畑を作って果樹を栽培していた。だから、鳴滝まではしょっちゅう出かけていた。良く知っているのはそこまでで、鳴滝を越えてその上に行くことはなかった。鳴滝の上にまだ人の住む世界があることを、精神的に受け入れられなかったのだ。目でその実物を見ても鳴滝の上にまだ裏の川が続いていることを信じていなかったと思う。裏の川は鳴滝ではじまるのだった。

松尾から古谷にかけて、もっとも多い樹木はミカンだ。ミカンの畑を主として、松杉の人工林、竹林、そしてシイカシ林がパッチ状に山の斜面を覆っている。このあたりは、遷移の考え方からは極相が照葉樹林であるといわれている。その目で眺めると、シイカシのうっそうとした林があるのは、段々畑すら作りにくい急斜面であることに気づく。

松尾の西の丘は60度はあろうかという急斜面である。そこに大小さまざまのシイカシが生えている。おそらく数百年は斧が入っていまいと思われるが、けっして木は太くない。地味も日当たりも悪いので、木が大きく成長できないのだ。林床は極めて暗く、低木はほとんどない。だけど、林の中を歩くのはおっかない。足を踏み外して落ちようものなら100メートル下の道路まで一気に落ちそうだ。木はあっても止まるまい。釘にあたって跳ねながら落ちていくパチンコ玉のように、幹や根っこにぶつかりながら落っこちるだろう。

わりと小柄な木が多いなかで、ひときわ大きく広く枝を伸ばしている一本の木がある。私はその木を見上げながら育った。その木の周囲には近寄りがたい雰囲気がある。神や妖怪や、そのたもろもろこの世のものではないやつらの住み家だと真剣に思っていた。


好きな木

ひときわ大きな木

好きな木

大きな木を横から


ある哲学者が、縄文時代以降に西日本の照葉樹林が急速に開発され失われたのは、気色悪さを一掃するためではなかったかといった。確かに化け物の住み家を放置しておきたくはないだろう。しかし、斧を入れることは祟りで反撃をくらうことになる。

40年ほど前に、その急傾斜の林が切り払われたことがある。一年もたたないうちに地滑りが起きて、あやうく下の家が土砂に埋まってしまうところだった。そうした災害の因果関係は明らかだが、この世には原因がわからず、人の力ではどうしようもない不幸はごく普通に起きるものだ。その原因は何か尋常ではない行いの祟りとしか言いようがないだろう。化け物の住み家を荒らすからには慎重でなくてはなるまい。

神木

小さな森が残っていれば、そこは大抵いわくがある。災害かたたりか、またはその両方を畏れて、シンボリックなものをまつることになる。そして、もともと不気味な場所がいっそう不気味になってくる。まだら模様の太くて立派な木を見つけたら神の住み家だったりする。こういう世界が私の自然観の根本にある。ふるさとの木や岩や水、それらと古い時代の人との関係がつくりあげた景観によって私の心は育てられている。

棚田

裏の川が造った平地はごくわずかだ。松尾にある平地のうち、幅50メートル、長さ200メートル程度が裏の川によって堆積した平野だとおもう。その平野は現在、宅地とみかん畑に利用されているが、1970年頃まではかなり田んぼがあった。

裏の川にも数本の支流がある。幅50センチ、深さ3センチぐらいの流れだ。そうした流れをたよりに、非常に斜度のきつい山にも棚田を切った。いうまでもなく棚田などという名称はなかった。もともと平地がないので、棚田も特殊ではなく名前をつけるほどのものではないからだ。田植えや稲刈りなどのときには子どももかりだされた。非常につらくて非効率な仕事である。ああまでしても、戦後の食糧難回復のため主食である米の増産は望まれたのだ。

ところが、1970年代から状況は一変し、米が余り生産者米価が消費者米価を大きく上回るようになってくる。そして、政府は減反を命じ、転作を奨励する。八幡浜で転作に向いていた作物はみかんだ。かくて棚田を段々畑に変え、換金作物であるみかんを栽培することになる。私の家でも、農地のほとんどを各種のみかん類で埋めている。

だんだん畑

写真のみかん畑も、かつては田んぼで、しんどい田植えをやった覚えがある。春の代掻きのときは、ケラやクモやドジョウやらで田んぼがわきかえり、命の息吹を感じたものだ。また、写真の中央を斜めによぎる水路はゲンジボタルの宝庫で、水路に沿って光の帯が見えた。

雑木林

裏の川の流域にはいわゆる雑木林はない。

雑木なら松尾、古谷にもある。私はよく落ち葉集めをやらされた。一年中緑の濃い松やシイカシだって定期的に葉を落としている。よく意味もわからず、ワラで編んだ篭に松やコナラ、カシなどの葉を積めて山から持ち帰っていた。ばあさんはそれと鶏の糞を混ぜて堆肥を作っていたのだ。裏の川の流域に住む人間はざっと100人、戸数では30戸ほどであるから、わざわざ雑木林を作らなくても、普通の二次林があれば薪や堆肥の用途に足りるのだ。

関東地方では農村の利用のほかに、都市の燃料として大規模な林が必要だった。関東平野はおそらく、夏緑樹林と照葉樹林の境にあたるはずだ。それなのに、コナラの純林かと思われるような林が残っている。人が作らなければ、そうはならない。薪炭用にはコナラやクヌギのほうが適しているらしく、照葉樹は捨てて選択的にコナラ、クヌギが植えられている。江戸がなければ関東平野には雑木林という人工林は不要だっただろう。

写真は一番下がみかん畑、散水機もモノレールも完備した最新式のもの。中央が雑木の二次林。上が40年ぐらいたっている桧の植林地だ。雑木のなかでひときわめだっているのがコナラ。八幡浜あたりでは、紅葉は12月ぐらいにもっとも赤くなり、コナラも同じころに茶色くなる。個体差はあるが、コナラの葉はおおむね冬の間は木に付いたままである。夏緑樹の葉の落ち方には緩やかな規則性があり、寒冷な地域のほうが速やかに落ちるようだ。

有名なブナは東北の山野では11月にはすっかり裸になってしまう。関東地方の平野に植えてあるブナは、強い風にも負けずに冬中葉をつけている。関東のコナラはもうすっかり裸になっているが、四国では葉が残っている。


折り返し点

いよいよ、鳴滝の上に立った。私は裏の川が鳴滝で始まっていると信じているので、この写真中央を流れている川は裏の川とはなんの関係もないと思っている。だから、その川はここからは池田川と言おう。この奥に見える緑の丘を越えた所に古谷はある。それまでは畑も乏しい山林だ。この景色が古谷を遠く感じさせている一因でもあろう。

私は夏になると、奇妙な情熱に突き動かされて松尾を一周するのが日課だった。ときに捕虫網と三角紙をもって、ときに虫篭をもって、ときにヤクルトの空き瓶をもって。ちょうど、この景色で見えている範囲が折り返し点だ。八幡浜でも、少し標高が高いところではミヤマクワガタがよく捕れるようになる。チョウも特段面白いものはいないが、少しずつ見つかる種類が増えるだけで楽しかった。そしてここには特別な期待をいだかせるスポットがあった。

ここの左手に、池田川に合流する流れをせき止めたため池がある。1970年頃に作られたもので、目的は鯉の養殖であったらしい。今年は久しぶりに訪ねてみたが、鯉の姿はなかった。この池は私にとっては非常に貴重な場所だった。松尾には乏しい止水棲の昆虫が捕れたからだ。なかでもゲンゴロウの大型のタイプはこの池でしか捕ったことがない。八幡浜市ではナミゲンやガムシは数年に一度、灯火に飛来しているのが見つかったので生息はしていると思われた。しかしながら、ほぼ絶滅状態で多産する池は見つかっていなかった。ちょうどこのような山中の小さなため池でほそぼそと命をつないでいたのだろう。私は期待に胸踊らせて何度も何度もこの水を覗き込んだものだ。

古谷の子ども

高野地

古谷は10戸ほどの部落で、子どもは千丈小学校に通っていた。3キロほどの山道は子どもの脚にもそれほど辛いものではないだろう。ただ、当時の私は古谷がひどく遠く感じられていたから、ずいぶんたいへんだなあと思っていた。ちなみに、私の家から小学校までは歩いて30秒である。玄関を出て、幅8メートルの道路を渡り、さらに幅20メートルの千丈川を渡れば、そこは小学校なのだ。

概念図にあるように、古谷からは高野地の長谷小学校に通う方がはるかに楽だ。距離は1キロほど、標高差もあまりない。写真は古谷と高野地の中間から高野地方面を撮ったもの。中央左の青い屋根の建物が長谷小学校だ。近い学校があるのに、古谷の子どもはなぜか千丈小学校に通う。

古谷はけっして貧しい所ではなく、過疎ですらない。全戸が古くから続く家系で広い山林と畑をもっている。過疎化しようにも商店や学校などといったものがもともとないのだ。南向きのよく日が当たる丘の斜面は果樹の栽培に適している。古谷に産まれれば人生勝ったも同然だ。

古谷の子どもたちは面白い通学をしていた。鳴滝を越えて家に帰るときに、ショートカットの山道を歩かず、くねくねと遠回りする自動車道路を歩くのだ。そうすると、一時間も歩いているうちには、誰かが車で通りかかる。古谷は全員が知り合いだから、大人はどこの子でも拾って古谷に帰る。そうしたことは、古谷だけでなく松尾でも普通のことだった。池田川の流域に住む人たちは全員が私を知っている。だから、昆虫採取や山登りのトレーニングで、その辺をうろうろしていると、車が来るたびに「乗っていかないか」と誘われる。あれには、ちょっと閉口していた。


※注 池田川とあったのは昭和50年頃に使っていた市販の地図だった。どうやら正しくは樽井川(鳴滝川)らしい。行政からの情報やMapFanの地図にそうある。ちなみに、樽井という名は聞いたことがなかった。池田川は末広に続く川のようだ。(2012.5.26追記)



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