たまたま見聞録

田んぼ水槽

私は物心ついてからずっとアクアリウムと一緒に過ごしてきました。ただただ川にいる魚や昆虫を手元に置きたかったからです。メダカを飼うときは近所の田んぼからオモダカを抜いてきてプラケースに入れました。橋の灯火でガムシを拾ってきたときには、千丈川の砂をとってきてアシカキを植えました。捕まえた生き物が元々住んでいた環境を再現するのが彼らのためだろうとなんとはなしに思っていたからです。そんな小さなアクアリウムを飽きもせず2時間でも3時間でも眺めていたものです。いまだに10リットル足らずの「田んぼ水槽」と名付けた小さなアクアリウムをやってます。

2018.7.17撮影

春の代掻きの頃に懇意の農家から田んぼの土をもらってきます。代掻きトラクターのタイヤから道路に落ちた田の泥をコンビニ袋に詰めて持ち帰ります。「そんなもんならいくらでも持ってけ」ということになっていますが、一つかみで十分です。
その田んぼは特に自然環境が良いわけではありません。コナギとかシャジクモなどの普通の雑草が生え、ウスバキトンボやアマガエル、ウマビルなど一般的な動物がいる普通の田んぼです。もし、稲作をせずに1年間、水を引いただけにしておいたらどんな環境になるのでしょうか。そんなことを水槽でやってみるのが私の田んぼ水槽です。

セット

2018年3月18日、田んぼ水槽のスタートです。泥はざっと洗って稲の切れ端などを取り除きます。静かに水道水を注ぎ二階東側の窓の近くに置くとセット完了です。
泥の濁りは一週間ほどでとれます。さあ、今年はどんな水槽になるのか、きれいな水草水槽ができるのかそれともカオスになってしまうのか、期待と不安が入り混じります。やがて泥とガラスを緑色の苔がうっすら覆って光合成のあぶくをはき、ミジンコが泳ぎ始めます。

初期

2週間ほどで水草が生えてきます。細い糸のようなもの、ロゼット状に葉を広げるもの…いろいろいます。
最初に存在感を示すのがシャジクモです。成長が早く車軸の名が示すとおり輪生する茎をみるみる伸ばしていきます。シャジクモは田んぼ水槽をやるまでは意識しない水草でした。道端から覗く水田では目立たず、ミドロの類と区別できていなかったのです。最初に見たときは、こりゃ何者だ?と驚いたと同時にたいへんうれしいものでした。教科書に出ている科学界のVIPがイラスト通りの姿で泥の中からわいてきたのですから。
このころに運がよければ、ホウネンエビが現れることがあります。2018年には残念ながら出ませんでしたが、多い年には3頭出たこともありました。毎回成長したものが突然姿を見せるので、泥の中で休眠していたものと思っていましたが、どうやら卵からの発生したもののようです。初期はミジンコみたいなので見逃していたのでしょう。

シャジクモ コナギ

シャジクモ(左)は密生しません。程よく隙間を開けて育っていきます。ここまで水換えはしていませんが水の透明感は増すばかりです。かなり日光があたっているのにガラスのコケも増えず青水になりません。ミジンコは常時10〜20匹ほどがくるくる泳いでいるだけで、田植え後の田のような大群にはなりません。一番丈夫で数が多いのはカイミジンコでしょうか。
代掻きのときの田の泥は想像以上に貧栄養のようです。活気のあるアクアリウムにしたいという誘惑に負けてエビや魚を入るとこうはいきません。
明るい色でしっかりしたサジタリア風の水草(右)が芽吹いています。サジタリア類はもとの水田には生えておらず、この写真を撮ったときは正体不明でした。
のちに判明しますが、これはコナギの水中葉です。コナギは姿がかっこよくて花が美しく大好きな水田雑草です。強靱な水草で神奈川県の水田で普通に見ることができます。農家にはやっかいな雑草なのです。

ハエトリグモ

4月29日の朝、水槽のガラスを歩く小さな生き物がいました。ハエトリグモです。見つけたときはただ歩いているんだろうなと思いましたが、何かを狙う動きをしています。どうやら狙いはミジンコのようです。水槽にわいたカイミジンコの動きに合わせて向きを変え歩みを変えています。時折、狙いを定めてパッと跳びかかりますが、ガラスの向こうの水中にいる獲物が捕まるわけがありません。それでも往生際が悪く5回も10回もトライします。
垂直のガラス壁を上下左右にジャンプして落ちないのは、体とガラスを糸で引っ張っているからでしょう。空中に浮いた体を弾力のある糸が万有引力のように引き戻すのだと思われます。もしかしたら空中にある体を支えるだけでなく、歩行用にも張り巡らせた糸を使っているかもしれません。私の眼には全然見えない糸です。

コナギ

5月17日、写真の光景を目にしました。サジタリア風の水草から細い糸のようなものが水面に伸びています。その成長の速さはすさまじく、前夜にはなんの兆候もなかったのに、朝には水面に達しているのです。2017年までの観察ではこいつを見た覚えがありません。
あとで判明することなのですが、これがコナギの浮葉です。水草は、水中葉、浮葉、気中葉と全然姿のちがう葉をもっているのが普通です。水草それぞれに主となる葉があるようです。コナギのメインは気中葉で、水田ではこの浮葉を気にしたことがありませんでした。屋外の田んぼ水槽では見逃して来たのです。
この浮葉をたくさんつけて気中葉へのはずみをつけるのがコナギの作戦のようです。ただし、2018年の夏にはコナギらしい気中葉は伸びてきませんでした。やはり貧栄養なのでしょう。
もう一つの後日談として、冬になってそろそろ片付けようかというときに娘がこの水槽を引き取りました。そして自分の部屋に運び、通常の水草水槽として人工照明と濾過器をセットして、ミナミヌマエビなんかを放して餌も与えました。その環境で冬を越してこのコナギは気中葉を伸ばし2019年の5月に開花しました。

シャジクモ

5月の終わり頃、シャジクモはオレンジ色の生殖器をつけます。そうなるとシャジクモは繁茂をやめます。そして田んぼ水槽は主役の水草が存在感を示しはじめます。水田雑草として有名なマツバイです。
一般のアクアリウムではヘアーグラスという名で呼ばれます。マツバイは水辺のいたるところで目につきます。その多くは水田です。ただ水田では芝生のような密生は見たことがありません。水稲の成長に負けてしまうからでしょうか。水中芝生のような光景は東京の工場跡地にできた水たまりで見たことがあります。
この写真には不吉なものが写ってます。藍藻のような濃い緑のどろどろしたものです。わが家では「みどみど」と呼んでます。アクアリウムではみどみどは恐るべき敵です。あっというまに蔓延していっぺんに景観を破壊しかねません。しかし私の田んぼ水槽では常に脇役でした。コケムシとおぼしき半透明塊球状のゼリーみたいなものとセットになってます。例年のように発生はしますが蔓延にはいたりません。2018年もこの写真のころが最盛期でした。

マツバイ キカシグサ

7月になると田んぼ水槽の景色が安定します。シャジクモはすっかり姿を消し、水底はマツバイで覆われます。マツバイの丈夫さはあきれるほどです。真夏の直射を受け庭の田んぼ水槽の水がお湯になったことがあります。手を入れると熱く水温は40℃以上あったでしょう。それでもマツバイは枯れませんでした。
マツバイの間から有茎草が伸びてきます。垂直に茎をのばし丸くて小さい葉を対生させるかわいい水草です。キカシグサかその近縁だろうと思います。本来は湿った土で生きるのが得意なようで、キカシグサの類は底泥に十分な栄養があれば速やかに気中葉を出して花をつけます。
屋外放置の田んぼ水槽ではそうなりましたが、2018年のこの水槽では15センチほど伸びて成長は止まりました。根ばりも悪く引っ張れば簡単に抜けます。
ここまでくればますます管理らしいことをしません。アクアリウムに必須の換水はしていません。蒸発する水を薬缶で足します。水草水槽につきもののトリミングも無用です。ときどき写真を撮る都合で、前面のガラス面にうっすら生えている苔をアクリル板でこすり落とし、マツバイの間にあるミドロ系の藻を取り除きます。それ以外は手を加えることはありません。ミドロ系でもアミミドロはかっこいいので残すようにしています。2018年は現れませんでした。
朝日が差し込んで草が輝き光合成のあぶくが水面にあがって、その間をミジンコがふらふら泳いでいるのを見ていると幸せな気分になります。これで小魚が2匹ほど泳いでいれば最高だと思います。しかし10リットル未満の水槽に魚は環境負荷が高すぎるでしょう。

マツバイ

11月の田んぼ水槽です。天野さんのアクアリウム写真でマツバイが芝生のように生い茂っているのを見て驚愕したことがありました。高度なテクニックに、どれほどの労力が必要なんだろうと気が遠くなったものでした。まさか水田の土のポテンシャルだけで同様な水景ができるなんて思いもよらなかったのです。
マツバイは元気いっぱいですが、キカシグサ系は色あせて弱々しく、ほどなくして融けそうです。
外の水田を見ても水草の姿はとっくの昔にありません。8月には水が落とされて水草は普通の雑草の姿になっています。
すっかり白くなったコナギは1年草だからこのまま枯れるんだろうと思っていました。しかし、娘の実験で温度と光の条件を整えればコナギも越冬することがわかりました。水田雑草は想像するよりもずっとフレキシブルに環境適応しているようです。

ローレンツは彼の名著「ソロモンの指輪」で、ナチュラルアクアリウムが自然探索入門に最適だと勧めます。安価で手がかからず静かで悪臭もなく一緒に住むのが楽だといいます。学生のときにそれを目にして「確かに屋内で動物や鳥を放し飼いすることに比べれば気楽だけど、そううまくいくはずがない」と眉につばをつけました。実際にやってみるとまことにあっけないものです。彼の教えに従えばきっと素敵なナチュラルアクアリウムが作れるでしょう。

私はただ生き物を手元に置きたいという欲求で数え切れないほどの魚を殺してきました。熱帯魚のアクアリウムでは、これでOKという所にたどり着くまで10年の試行錯誤がありました。田んぼ水槽はそんな無惨も苦労も無縁でした。水田を手本にスタートし、初年からあっさり成功し、毎年少しずつ条件を変えて続けてきました。そして様々な発見とともに気づいたのは、そのへんの水田に住む生き物の強さと柔軟さというしごくあたりまえのことです。耕作の都合で激変する環境で生きているやつらなのですから。



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